第11話 暴発するピンク。

 期末考査、悠は二問ほど間違えたが、安定の一位を保持した。

『ごめん、今日も遅くなりそうだから、電車で帰る』

 そうメッセージを送って、悠は誰もいない生徒会室の扉を開け、電気を点けた。まだ四時を過ぎたところだというのに、窓の外は既に薄暗い。

 悠の携帯が、クルスからのメッセージを受信した。

『とりあえず終わったら連絡して』

 悠は結局、秋に行われた生徒会役員選挙には出なかった。だが、戸田に頼まれて生徒会機能のデジタル化の手伝いをしていた。具体的には、これまで紙で保管されてきた膨大な資料を電子化し、統計情報として利用できるように整理する。また、オンライン投票システムを導入して、手作業で行っていた開票作業などを効率化する……などである。

「やあ、もう来てたんだ。悪いね、テストも終わったってのに」

 戸田と庄司が入ってきた。

「いいえ。戸田さんこそ、入試目前なのにこんなことしてていいんですか?」

「こういうことしてる方がいいんだよ。試験問題なんてバーチャルなお遊びに比べたら、実用の中で最適解を見つける方が何倍もぞくぞくするじゃん」

「変態ですね」

 庄司がいつもの無表情で言った。

 クルスといるのは居心地がいいが、生徒会室で戸田や庄司と過ごす時間も、悠には刺激的で魅力的なものになっていた。純粋に、知的好奇心が刺激される。ランクを落として入った橘高校では、そういった相手は貴重だった。

 そしてそれは戸田にとっても同じだったらしい。戸田は本来の生徒会役員以上に悠に肩入れしていた。正規の役員ではないために、悠が生徒会の通常業務に関わることはなかったが、逆にそれ以外のイレギュラーな作業――デジタル化などはその最たるものだ――にはかなり深く関わっていた。

「ごめんね、この人、人使い荒くて」

 そう言う庄司は、戸田とどういう関係なのか。

(付き合ってるようにも見えるけど……)

 あまりにいつも一緒にいるので、逆にこれ以上深い関係はないように思える。仮に他に恋人がいるとしても、それは戸田と庄司の関係より濃いものだとは思えないのだ。それほど二人は通じ合っているように見えた。

「まあまあ。今年分の作業は今日中に終わらせてしまおう。週明けはクリスマスだしね」

「さすがの鬼会長も、そこは覚えていましたか」

 二人の会話に、悠はどきっとした。

(クリスマスの約束なんて、してないけど……)

 すっかり日が落ちた窓の外を見遣る。クルスは先に帰っているだろうか。「親すらいない」と言っていたが、家には他に誰もいないのか。あのクリスマスマーケットの後、なんとなく聞けずにいた。

(クルス、クリスマスは一人で過ごすのかな……)

 日曜日は、クリスマス・イブだ。


「遅かったじゃん」

 クルスは駅前にいた。

「帰ってていいって言ったのに」

「一回帰ったよ。なんとなくぶらついてただけ」

 確かに、赤いバイクは見当たらない。

 悠は庄司と一緒に学校から帰ってきていた。

「月原くんは私が送っていくから、今日は大丈夫よ」

「あっそ。じゃあまたな」

 クルスはあっさりそう言って、改札で手を振って別れた。

「……なんだったんだろう、あいつ」

 走り出した電車の中で、悠は首を傾げた。

「会いたかったんじゃない?」

 庄司がさらりと言った。

「えっ……?でも、一緒に帰るわけでもないのに」

「顔が見たかったとか」

「顔?」

「そんなもんでしょ、恋人同士って」

「恋……っ!いや庄司さん、僕らは……」

 悠はどぎまぎした。クラスでの噂が学年を超えて伝わっているのだろうか。だとしたら相当、恥ずかしい。男同士とかそういう以前に、普通に恥ずかしい。

「え、違うの?なんかそういう噂聞いてたから、私てっきりそうなのかと思ってたわ」

「いや、違うかって言われると……」

「じゃあなんなの?あ、私そういうの全然気にしないから、大丈夫よ?」

 何が大丈夫なんだろう。少なくとも悠にとってはひとつも大丈夫じゃない。

「僕にも、よくわかんないです……」

 キスはした。いや、された。だけどクルスの言葉が引っかかっている。『噂は利用したもん勝ち』――。そして、そもそも男同士だ。

(僕とクルスは、ゲイなんだろうか)

 そこに向き合うのが、怖い。

「……僕らはともかく、庄司さんと戸田さんって、付っ……」

 悠は無理やり話題を変えようとして、ついずっと気になっていたことに言及してしまった。

「付き合ってる、んですか?」

「うーん……」

 庄司は首を傾げて考え込んだ。そして、ややあって続けた。

「そっか。ごめんね。うん」

 そして、何か自分を納得させるように、庄司は頷いた。

「え?」

「だから、月原くんたちのこと、恋人同士って決めつけてごめん」

「え、なんで今、それを?」

「私もひとのこと言えないなって。私は戸田さんのことが好きだけど、戸田さんがどう思っているのかはわからない。でもたぶん、今は私が戸田さんの一番近くにいる。戸田さんと付き合いたいかって言うと、今はこの関係で十分だと私は思ってる。だって、これ以上ないほど必要とされているし、もし付き合ってしまったら逆に距離を置こうっていう可能性もある。彼、ああ見えて受験生だからね。そして、口には出さなくても、戸田さんも私と同じように思っているのかもしれない。でもそんなのは私の希望でしかなくて、彼は私のことなんて全くなんとも思っていないのかも」

 庄司は、ひとつひとつの言葉を考えながら、説明した。まるで一ミリも心で思っていることと違うことが伝わってはいけないのだというように、言葉を選んで。

「そういうの全部ひっくるめて、今の関係が結構気に入っているの。付き合ってなくても、一番近くにいて、一番信じ合えているなら、今はこの関係を大切にしたいかなって。だって、高校時代は二度と来ないんだから」

「……僕も、そう思います」

「ん?」

「だから、その……戸田さんと庄司さんは、付き合ってなくても、たぶん一番分かり合えてるんだなって……感じます、僕も」

「……そう?」

 そして庄司は、嬉しそうに微笑んだ。

 悠はふと思い立って、携帯を出した。クルスにメッセージを送る。

『日曜、もしヒマならどこか行かない?』

 高校一年のクリスマス・イブ。

 二度と来ないなら、後悔しないように。


 クルスからはすぐに返信が来た。

 たった二文字。

『おう』

 だが、楽しいはずのクリスマス・イブは、思いがけない結末を迎えることになる。


 日曜日は晴れだった。

 白い息がアイスブルーの冬空に溶けていく。

 クルスとは帷子川の駅で待ち合わせた。

「寒いから」という理由で、その日は電車になったのだ。目的地の大岡駅まで「一人で行ける」と悠は言ったのだが、クルスは当日になって「暇だから」と迎えに来てしまった。

 ハンバーガーショップで昼食をとった後、二人は映画館に向かった。なんとなく選んだアニメ映画は、音響も映像も素晴らしく凝っていて、予想していたよりもかなり満足度が高かった。

「テーマソングのアーティスト、コーヒーのCMの曲作ってる人だよね?」

「あれな、昔バンド組んでギタリストやってたんだよ。俺アルバム持ってるわ」

「あのタイムリープする時の映像ヤバくね?」

「それ言ったら、海の中のシーンもめちゃくちゃキレイだったよね!」

 映画の後、暖かい場所を求めてカフェに入り、興奮気味に感想を言い合う。感動が薄れるのを恐れるように、少し早口で。

 学校の外の、ささやかな非日常。普段はあまり入らないシアトル系のカフェに漂うコーヒーの香り。私服のクルス。薄手のニットに、クルスの肩の骨と筋肉のラインが浮かび上がっている。コーヒーのマグを包み込む骨ばった大きな手に、今更ながらどきっとする。

 いつもと違う会話も、いつもと違うクルスを眺めているのも、悠は楽しかった。

(僕はゲイなのかな)

 同じ年頃の女子を可愛いと思わないわけではない。だが、誰か女の子とこうして二人で出かけたりするイメージがわかない。具体的な相手も思い浮かばない。じゃあ男のほうが惹かれるのかといえば、それも少し違う。道行く男性に目を奪われることなどない。

 結局悠は、クルスといるのが居心地がいいのだ。付き合ってもいない女の子を想像するよりも、クルスを眺めていたいのだ。それはある種の憧れであり、友情に類する何かなのだと思っているが、果たしてどこまでが友だちでどこからが恋人なのかは、はっきりしないままだ。

 そして、それ以上に。

(クルスは自分のことをゲイだと思っているのだろうか)

 もしそうじゃなかったら。

 それを確認した瞬間に、一転、拒絶される可能性がないとは言い切れない。

 悠の脳裏に、あの悪夢のような朝が蘇る。卑猥な言葉と絵で埋め尽くされた黒板。クラスメイトたちの冷たい視線。

 あの視線をクルスから向けられたら、とても耐えられない。

 悠は、それが一番怖かった。

「……どうかした?悠」

「ん、なんでもない。ちょっとぼーっとしちゃった」

 悠は曖昧に微笑った。

(名付けることで壊れる関係なら、名前のないままでいい……)

 悠は、ぬるくなったコーヒーを喉に流し込んだ。

「疲れたなら、帰るか?」

「映画観たくらいで疲れないよ。僕をなんだと思ってるんだよ」

「電車に乗ってるだけで倒れるくせに」

「それ、言うなよ……地味にかっこ悪い」

わりわりぃ。でもほんと、ちょっとでも具合悪くなったら、無理しないですぐ言えよ?」

「わかったって」

「で、この後、どうする?飯でも食ってく?あ、でも家で母ちゃん待ってんの?」

「今日は好きにしてきていいってさ。ファミレスでも行こうか?」

「ああ」

 だが、移動しようと店を出たところで、真正面に少女が立ちふさがった。

「あなたが、月原悠?」

 艷やかに流れ落ちる長い髪。まっすぐに伸びた細い脚。白い肌の小さな顔に、大きな瞳。

 それは、さっき想像した「可愛い女の子」のイメージそのものだった。日曜だというのに、名門女子校の薔薇野女学院の制服を着ている。

「セーラ!?」

 後から出てきたクルスが少女に気付いて声を上げた。

「クルスの知り合い?」

「ああ」

 クルスはちらりと苦い顔をした。

「酷いよ、クルス。新しい彼女がいるのかと思ったら、なんで男の子なの!?こんなのクルスに似合わないし!」

 セーラと呼ばれた少女が、大声でまくし立ててクルスに食って掛かる。そのはずみで、少女が巻いていたマフラーがふわりと落ちた。

「あ、落ち……」

 悠がかがんで拾い上げたマフラーを、セーラはばしっと引ったくった。

「触らないでよ!気持ち悪いっ!!」

「えっ……」

 気持ち悪い、という言葉が突き刺さる。

 悠はぐらりと足場が消えたような気がした。

「橘の子に聞いたのよ。クルスがゲイと付き合ってるって、まさかと思ったけど、ほんとだったのね」

 僕らの関係に名前なんて要らない。そう思った。見ないようにして、向き合うことから逃げた。それでいいと思っていた。

 見ず知らずの少女に突きつけられた言葉は、目を背けてきた代償なのだろうか。

(はたから見れば、僕らは気持ち悪いゲイでしかない――)

 その、紛れもない事実に。

 セーラの剣幕に驚いた通行人たちが、ちらちらと視線を投げてくる。悠はいたたまれずにうつむいた。街に流れるジングル・ベルの曲がそらぞらしい。

「セーラ、落ち着け」

 クルスの言葉はしかし、セーラの耳には届かない。

「クルスはゲイなんかじゃない!あんたの汚い性癖に、引っ張り込まないでよ!」

 セーラは悠の胸を指差して口撃する。

「あなた、どうせ童貞でしょ?」

「……っ!?」

 悠はびっくりして言葉を失った。

「女の子としたことないんでしょう。それで毎晩クルスでオナってんの?きゃはは!ヤバくない!?」

 きれいなピンク色をした、形の良い唇から、卑猥な言葉が次々と出てくる。悠は面食らって何も反応できない。

 セーラは更に猫なで声で続けた。

「それとも三人でしよっか。あたし童貞でも全然いけるよ……?」

「セーラ!それ以上言ったらマジ怒るぞ」

 たまりかねたクルスが、セーラの腕を掴んだ。

「何よ、いいじゃない。こないだは家泊めてくれたのにっ!」

 悠はもう一度足元がぐんにゃりと歪んだ気がして、視界が回転した。

「悠!」

 クルスの声が聞こえる。だが、四肢に力が入らない。

「悠!?しっかりしろよ!おい!!」

 クルスは悠を抱き止めて、その場にしゃがみこんだ。

「悠!おい!聞こえるか?」

 近くの交番から警官が駆けつけてきた。

「大丈夫ですか?どうしました?」

「わかんねえ、いきなり倒れて……」

「君、大丈夫ですか?聞こえますか?」

 警官は、今度は悠に向かって呼びかけるが、悠は浅い呼吸をするので精一杯だ。うすく開いた目は虚ろで、唇は紫色に変色している。

「救急車!救急車だ!」

 誰かが叫んだ。

「悠!悠ーっ!」

 救急車が着くまでの長い長い数分間、クルスは悠の氷のような手を握っていた。

(死体って、冷たいんだっけ……?)

 なぜ今そんなことを思い出すのかと、クルスは自分を呪った。

「悠、がんばれ、死ぬな」

 やがて救急車が着いて、悠は担架に乗せられた。

「あの、こいつ、心臓が悪いんです!」

 クルスは救急隊員に言った。救急隊員は頷いた。

「君も乗って!」


 繁華街に一人残されたセーラは、呆然と救急車を見送った。

「君、一人ぃー?」

 声を掛けられて振り向くと、予想外に若い男が立っていた。てっきり買春目的の中年男だと思っていたのだ。

 声を掛けてきたのは、体格のいい若い男だった。二十歳くらいに見えるが、もっと若いのかもしれない。染めた髪を立ち上げ、首にはごついシルバーアクセをさげて、耳にもいくつもピアスを付けている。どう見ても堅気カタギには見えない。

「君さァー、あの運ばれていった人の、知り合いィー?」

 にんまりと口の端を歪めて、その男は言った。前を開けたダウンジャケットの襟元に、タトゥーがちらりとのぞいた。


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