第10話 街は金色に染まり。

「ちょっ……いいよ、ほんと」

「いーからいーから」

「いや、なんか無駄に目立ってるし」

「無駄って言うな」

 朝の廊下を、クルスと悠が並んで歩いていく。悠が焦っているのは、クルスの片腕が悠の肩の上に乗っているからだ。

「なんなんだよ……いつも朝は教室なんか行かないくせに」

「今日から改心しました。ちゃんと授業出ます。なんなら体育も出てやるよ」

「だからなんでいきなり……」

「なんでって、決まってんだろ」

 クルスはぐい、と悠の顔を引き寄せて自分の方に向けた。

 悠はどきっとした。クルスの整った顔立ちは、間近で見ると結構迫力がある。

「見張るためだよ。あのアホがまたくだらねーことやらねーようにな」

「アホって……」

「斉藤と、笠井だっけ?あと忘れたけど」

 あの場にいた五人は、戸田が教師に掛け合って、翌日から一週間の停学になっていた。更にケータは、骨折で三日ほどの入院だという。

 戸田いわく、

橘高校うちの偏差値を一人で引き上げてる月原くんに、転校でもされたらどうするんだって、ちょっと脅してみた」

だそうだが、(教師を脅す生徒会長ってどうなんだろう……)と悠は軽く引いた。クルスが「あいつは橘の黒幕だ」というのも、あながち間違ってはいないのかもしれない。

 だが正直、停学ごときで彼らが考えを変えるとも思えなかった。

「だから俺が守るっつってんだろ。おとなしく守られとけ」

 そう言って、クルスはガラリと一年一組のドアを開け放った。

 教室にいた生徒たちが一斉にこちらを見た。

「……っ」

 反射的に、悠は顔を伏せた。

 黒板事件の後、ずっと休んでいたのだ。あんな醜態を晒して、いったいどういう顔をしてこの教室で一日過ごせというのだろう。

「……僕、やっぱり帰――」

「月原っ!」

 最初に声を上げたのは柚木だった。

「待ってたよぉー!」

 なつこも机の間をぬって駆け寄ってきた。

「なんだお前、モテてんじゃん」

 クルスがひじで突いてくる。

「……そういうんじゃないと思うけど」

「じゃ、」

と、クルスは悠の背中をぽん、と叩いた。そして、

「一年一組の皆さあーん!」

と、教室中に響き渡る声で言った。

「てめーら、二度とこいつに手ェ出すんじゃねぇぞ。斉藤みたく病院送りにしてやっからな」

 決して大きくはないのに、クルスの声はよく通った。

 生徒たちがざわつく。ケータが入院していることは、昨日の今日でまだ伝わっていなかった。

「何、あんたたちほんとに付き合ってんの?」

 柚木が言った。

「えっ」

 悠は驚いて、否定の言葉を探す。だが。

「だったら何」

と、クルス。

「えっ!?」

 更に意表を突かれ、悠はクルスを振り返る。

「わあ!マジで?いいなぁ!!」

 なつこが黄色い声を上げてはしゃぐ。

「えええ!?」

 悠はもう何がなんだかわからない。

「いいじゃん、こんくらいのノリのがいーんだよ。噂なんて利用したもん勝ちだ」

 ボソッとクルスが悠に耳打ちした。ハスキーヴォイスが直接鼓膜を震わせて、悠はぞくっとした。

「だ、か、ら。今度コイツ泣かすようなことあったら、マジ許さねーからな?一組の教室ごと破壊すっからな?覚えとけよ?」

 クルスはそう言い放って、「じゃ」と教室を出ていった。

「きゃああああ!何アレえええ!?かっこよすぎるんだけど!!」

「っていうか、クルスくん喋ったの初めて聞いたあ!」

「うわあああ!ヤバイヤバイよこれ!てか月原くんとクルスくんって絵になりすぎじゃない?」

 教室にいた女子生徒たちが、一斉にはしゃぎだした。

 悠は呆気に取られた。

 女子たちの勢いに毒気を抜かれたのか、男子生徒たちもがやがやと話しだした。

「なんだよ……ガチなのかよ」

「ってか、今どきあーゆーネタでハブるとか、ガキくせぇよな」

「あー、俺も思った」

「おい月原!休んでた分のノートとかいる?」

「あっ……うん、見せてもらえる?」

 悠は戸惑いながらも、そのクラスメイトのノートを借りる。

「ってかごめんな。あん時、なんも言ってやれなくて」

「……うん」

 田町勇人、金井芽生、中島友梨、内藤珠貴、渡辺葉月、北野元、遠山雄大、梶大輝、佐川馨。名前だけは覚えていたクラスメイトたちと、この日、悠は初めてちゃんとした会話を交わした。

 そして、ケータたちの停学が明けても、それは変わらなかった。

 悠はもう、クラスで孤立してはいなかった。ケータのグループと、彼らを恐れて何も言えない生徒たち、という図式は崩れ去り、クラスの雰囲気もなんとなく明るくなった。

 ただ一人、矢口を除いては。

 矢口は学校を休みがちになり、部活にも顔を出さなくなった。秋の大会に出なかったため、スポーツ特待生の肩書は剥奪された。

 そして、ケータのグループもまた、授業に出ることは少なくなっていった。彼らは旧校舎の空き教室をたまり場にして、そこに籠もるようになった。


「……ねえ、クルス」

「あー?」

「……やっぱなんでもない」

「なんだよ」

 立ち並ぶ大きな銀杏の木が、中庭を金色に染め上げている。

 悠はずっと気になっていた。クルスとは、相変わらず一緒に弁当を食べ、登下校はバイクで送ってもらっている。逆に言えば、それ以上のことは特にない。

(付き合ってる、っていうのは、あの場を取り繕う方便だったのだろうか)

 ――噂なんて利用したもん勝ち。クルスはそう言っていた。

 確認したいような、したくないような。

 ――ねぇクルス、僕らって付き合ってるの?

「……っ!」

 悠はぶんぶんと首を振った。

(聞けるわけない、そんなこと)

「何、どしたの」

 クルスが悠の顔をのぞき込んだ。

「うわっ」

 至近距離のクルスの顔に、悠はびっくりしてのけぞった。いつもは意識しない、クルスの切れ長の眼やまっすぐ通った鼻筋や薄い唇に、ついうっかり見とれてしまう。

「耳まで赤くなってるけど」

 クルスの息が耳たぶにかかる。

「ちっ、近い近い!」

「何が」

「だから……っ!」

 ざあっ――と、風が銀杏の葉を舞い上げた。

 ――ボクラハ、ツキアッテル、ノ?

 クルスの唇が、悠の唇に、やわらかく押し付けられて、言いかけた言葉は金色の風に溶けて消えた。

(……もう、いっか)

 悠は眼を閉じた。

 付き合ってるとか、付き合ってないとか。

 友だちとか、恋人とか。

 定義することに何の意味があるのだろう。

 あやふやなまま、あやういまま、おいしいところだけを味わって。

(そんな関係も、悪くない、かも)


 そんなふうに秋が過ぎて、季節はいつの間にか冬になった。

「悠、この後、ヒマ?」

 それは金曜の夕方のことだった。

「モールでクリスマスマーケットやってるんだけどさ。行かねえ?」

 悠は目をぱちくりとさせた。

「いいけど……なんか、そういうキャラだっけ?クルス」

「は?何が」

「不良がクリスマスマーケット……」

「うるせえよ。興味ないならいいし」

「嘘だよ。行く行く。行ってみたい」

 クリスマスマーケットは、海沿いにある大きなショッピングモールの屋外広場で開催されていた。広場中央の巨大なクリスマスツリーを囲むように、きらきらと飾られた可愛らしい出店が並んでいる。出店では、クリスマスリースやトナカイの置物、ハートやツリーの形の巨大なクッキー、チュロスやソーセージなどの食べ物や飲み物などが売られ、見ているだけで楽しい。

「あ、スノードームだ」

 悠は一軒の出店の前で足を止めた。

「ふうん……スノードームって一口に言っても、いろんなのがあるんだなあ」

 その店のスノードームは、大きさや形はもちろん、配色も少しずつ違っていて、同じものはひとつとしてなかった。

「僕、ひとつ母さんに買っていこうかな。クリスマスプレゼント、考えてなかったし」

 悠はそう言って、手にとって選び始めた。だが、クルスは

「俺は……いいや」

と言って、店の前を離れてしまった。

 悠は慌ててスノードームを選び、クルスを追った。

「ごめん、なんか気に触った?」

「いや、別に」

「クルスんちって、クリスマスとかやるの?うちは二人だけだから、母さんが買ってきた惣菜とかケーキとか食べるくらいなんだけどさ」

「へえ」

 クルスはさして興味もないように生返事をする。といって、自分から話題を振るわけでもなかった。いきおい、悠の口数が増える。

「僕さ、小学生になるくらいにはもうサンタさんとか信じてなかったんだけど。でも母さんが一生懸命演出するもんだから、なかなか言い出せなくてさ。とうとう六年生の時に、『ねえ、あんたもう信じてないよね?』って母さんに言われて『あ、バレた?』って。クルスはサンタさんとか、信じてた?」

「サンタなんて」

 ははっ、とクルスは乾いた笑いを漏らした。そして、金色の光に包まれた、クリスマスの幸福感溢れるこの場所に、およそ似つかわしくない冷たい表情かおで、クルスは言った。

「サンタどころか、親すらいねえよ」

 その瞬間、悠は幸福な世界から遮断された。

「えっ……?」

 まさか、と笑いかけて、悠は真顔になった。

「本当……なの?」

「俺、施設育ちだからな」

 ああ、と悠は思った。

 だからクルスは、さっきから笑っていなかったんだ。

 今はもう、きらきらと光る景色も、賑やかな音楽も、楽しげな笑い声も、すべて分厚い氷の壁の向こう側にあるように遠い。

「クルス……」

「そんな顔すんなよ。だから言いづれえんだよ、こういう話はさ」

「クルス、ごめん」

 クルスは深くため息を吐いた。

「だから。謝んなって」

「でも」

「もう飽きたんだよ。そうやって謝られんのも、可愛そがられんのも」

 謝るな、と言われて、言葉を見つけられずにうつむいた雄の頭を、クルスがくしゃりと撫でた。

「こっちこそごめんな、自分から誘っときながら、こんな話しちまって」

「ううん……話してくれて……嬉しいって言ったら変だけど」

「うん」

「……ありがとう。僕、クルスのこと何もわかってないな」

「まあ、話してねえからな」

 クルスは人混みを離れ、海側を向いたベンチに腰掛けた。

 すっかり暗くなった海は闇よりも暗い群青に沈み、水平線は夜空に溶けている。

「ごめんな。なんか、楽しい気分ぶちこわして」

「……謝らないでよ」

「だな」

 クルスはふふっと微笑った。

 ことん、と悠はクルスの肩に頭をあずけた。バイクにタンデムしているせいか、それともクルスの距離感に慣れたのか、このところ悠はクルスと接触することに抵抗がなくなっていた。

「もっと知りたい、クルスのこと」

「……ろくなもんじゃねぇぞ」

「知ってる」

 目を閉じると、遠くからクリスマスソングが聞こえてきた。


 夜九時近くに悠を家に送り届けると、悠の母親が玄関先まで出てきた。

「クルスくんね?いつもありがとう」

「あ、いや。あの、遅くなってすいません」

 クルスはぺこりと頭を下げた。

「まあ、年末だしね。たまにはいいんじゃない?でもこの子ちょっと身体が弱いから、迷惑かけたらごめんね」

「いいえ」

 クルスはまたぺこりと頭を下げ、「じゃ、失礼します」と言ってバイクに跨った。

 冬のバイクは寒い。さすがのクルスも、その日はぶらりと遠出する気も起きずに自宅へと向かった。

 自宅マンションの近くの繁華街に差し掛かったところで、見覚えのある顔を見つけて、クルスはバイクを停めた。

「……セーラ?」

 声を掛けられた相手は、ビクッとして振り向いた。

「……クルス……!」

 長いストレートヘアに色白の肌、ダッフルコートからまっすぐに伸びた細い脚。薄くメイクしてはあるが、ぱっちりと大きな瞳と思わず触れたくなるような潤んだ口元は、生まれ持ったものだ。

 繁華街から一本裏道に入った、ラブホテル街。

 セーラ、と呼ばれた少女は、かなり年上の男性とホテルに入るところだった。

「セーラ、お前何やってんだ」

 クルスがセーラの腕を掴んだ。

「痛っ!離してよ」

「何やってんだって聞いてんだよ。こんなとこで」

 クルスはセーラの連れの男をじろりと睨んだ。セーラの腰に手を回していた中年男は、クルスの容貌を見て、逃げるようにその場を去っていった。

「もう……逃げちゃったじゃん。どーしてくれんの?」

「お前、金に困ってんの?確か薔薇野だったよな?」

 薔薇野女学院は周辺でも有名な、いわゆる「お嬢様学校」だ。

「お金目当てってわけじゃないわよ」

「じゃなんで……」

「寂しいからよ!」

 セーラは声を荒げた。

「クルスにはわかんないわよ!どうせビッチだって思ってるんでしょう?でもだめなの、止められないの。誰かに抱いてほしくて、どうしようもなくて」

「おい……ちょっと」

 通行人が、ちらちらと視線を投げてくる。

「何よ、じゃああんたが抱いてくれんの!?」

「落ち着けよ、セーラ。人が見てる」

「できないんでしょ?そうよね。振った女に興味なんかないよね?」

「落ち着けって。とりあえず、うちすぐそこだから」

 クルスの家はマンションの十四階だ。

 モノトーンで統一された、生活感の薄いリビングにセーラを通す。

「いったいどうしたんだよ、セーラ。お前、そんな奴じゃなかったじゃん」

 クルスは冷蔵庫を開け、ペットボトルの炭酸水をコップに注いで、セーラの前に置いた。

「あたしがどういう女かなんて、クルスにはわかんないよ」

「知るかよ。めんどくせえな」

 クルスも自分のコップに炭酸水を注いで、ごくごくと飲み干した。

「ねえ」

 セーラはクルスの背中に歩み寄り、そっと抱きついた。

「しよ?」

 クルスの背中に顔を押し付けて、甘い、少し幼い声で、背骨に響かせるように囁く。

「誰とやっても実感がないの。クルスだけなの。ああ、生きてるなって思えるのは」

「セーラ、俺は」

「クルス……」

 クルスの言葉を遮って、セーラはクルスの正面に回り、唇を塞いだ。が、クルスはふいっと顔を背けた。

「彼女がいるの?」

「いねえよ」

「じゃあ、いいじゃない」

「……お前とはやらねえ」

 クルスはセーラの大きな瞳を見つめて言った。

「てか、今ここでお前とやったら、俺、ただのバカじゃん」

「じゃなんで家に入れたのよ?」

「こんな夜中にあんなとこに女一人でほっとけないだろが」

 クルスは隣の部屋に消えると、毛布を持って現れた。

「別に平気だよ。さっきみたいなオヤジが泊めてくれるし」

「それが危ねえんだろが。バカ」

 リビングに置かれた黒い革張りのソファの上に、毛布を放る。

「いいの。あたしなんか、どうなったって」

「危ない女」

「お互い様でしょ」

「うるせぇよ。寝ろ」

 クルスはソファを指差して、自分は寝室へ引っ込んだ。

「その気もないくせに、優しくしないでよ……」

 電気の消えたリビングで、セーラはぽつりと呟いた。

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