第7話 嵐と亀裂と不透明な新学期。

 その日は台風の前触れで、空は朝から不穏に曇り、生ぬるい風が吹いていた。

 教室に足を踏み入れた瞬間、最初に違和感を感じたのは、自分に向けられた視線だった。

(――あ)

 直感的にわかる。これは、ヤバいやつだ。

 違和感の理由を探して、悠は注意深く周囲を見回した。

 困ったような顔でこちらを見ている女子たち。矢口は逆に、うつむき加減で席に座ったまま、こちらを見ないようにしている。そして、ニヤニヤと嘲笑を浮かべたケータたち――の、背後。

 黒板いっぱいにでかでかと描かれていたのは。

 クルスと悠の横顔――それも、キスシーンだった。

「――っ!」

 衝撃と屈辱で、息が詰まった。頭がガンガンする。

 クルスはもちろん、悠の名前などどこにも書いていない。だが見間違うはずもない、黄色いチョークで塗り潰された髪の毛の主が誰を指しているのか。顔の下には学生服の身体が続き、真っ赤なバイクに二人乗りしている。周囲には見るに堪えない卑猥な落書きが、ところ狭しと書き殴られていた。

「おい、ドア閉めろ。――二組に聞こえないようにな」

 ケータが言った。すぐに仲間の生徒が前と後ろのドアを締め、その前に陣取った。

 悠は廊下に逃げ出すこともできず、その場に立ち尽くした。

 黒板を消さなければ、と思うが、足が動かない。顔も上げられないまま、自分の爪先を見つめる。

 ――くすくす。

 ――やだぁ――。

 ――全然アリじゃん?

 ――ちょっとわかる――。

 ――いや、キモいでしょ。

 ――ねえやめなよ、聞こえるよ。

 違う、と否定するより先に、雄弁すぎる視覚情報が見る者の興味を惹き付ける。人体のバランスがあちこちおかしな絵は、うまくデフォルメされていて、奇妙な完成度があった。

 と、その時、教室のドアがガタンと鳴った。

「なんで閉まってるんだよ……」

 文句を言いながら入ってきたのは、瀬古と柚木だった。

「……って、はあ!?何これ!」

 黒板を見た柚木が言った。

「誰だよ!こんな……」

 柚木は教室を見回した。

「ケータ!てめーか!?」

「俺じゃねーよ。来たら書いてあったんだよ」

 ケータはにやにや笑いながら言った。

「ウソつけや!」

「柚木、怖えー!」

 ケータの仲間たちがぎゃはははっと笑う。

 悠はいたたまれなくなって、教室を飛び出した。

 外に出ると、ぽつりぽつりと雨が降り出して、やがて土砂降りになった。

(良かった……この雨なら、クルスのバイクじゃ帰れない――)

 悠は妙なことに安心して、傘もささずに駅へと向かった。


 教室では、ケータと柚木が言い合っている後ろで、瀬古が黙って黒板を消し始めた。

「おい瀬古ぉ、何勝手に消してくれちゃってんだよ!?」

「……っ!」

 ケータに小突かれて、瀬古はよろけた。

「もうすぐ、先生来るし」

「何お前、俺に逆らうの?」

「いいじゃんケータくん、月原帰っちゃったしさあ、コイツで遊ぼうぜ」

「いいねぇー!」

 瀬古は助けを求めるように、矢口を見た。

 だが矢口は顔を軽くうつむけたまま、瀬古と目を合わせようとはしなかった。

「矢口……?」

 その日の昼休み、瀬古はケータたちに教室から連れ出されて、そのまま戻ってこなかった。

「ってかさあ、矢口、どういうつもりよ?」

 柚木が矢口の正面に立って言った。

「月原のこともだけど、瀬古はずっと友だちだったじゃんか。なんで黙ってんだよ?」

「……仕方ないじゃん。俺だってケータは怖いよ……月原のことかばってとばっちり食うくらいなら――」

「は?とばっちり!?てめえ、そんなこと考えてんの?お前それでも友だち?」

「……」

 矢口は沈黙した。柚木の正論に、何も言い返せない。なつこはおろおろと二人を見比べていた。

「……やめようよぉ……ねえ……とりあえずさ、ゴハン、食べよ?」

「メシなんて食ってる場合じゃねぇんだよ!」

「ひっ!」

 柚木の剣幕に、なつこは縮み上がった。

 すると、それまで黙っていた高橋が口を開いた。

「あの黒板の絵さあ、描いたの、矢口でしょ」

「……えっ……?」

 その場が凍りついた。

「マジなの……?矢口」

 柚木が聞いたが、矢口は答えない。

「私、矢口の絵見たことあるんだよね。勉強も運動もできるやつって、絵もうまいんだなって思ったの、覚えてる」

「……んだよソレ……最っ低じゃん矢口」

 柚木は吐き捨てるように言った。

「瀬古もたぶん、気付いてたんじゃん?だから黙って消したんだよ」

「それで瀬古がケータに連れてかれたんじゃん!つうか矢口、黙ってないでなんとか言えよ!」

「……悪いと思ってるよ」

「はあ?なにそれ。そんだけ?」

「仕方ないだろ。……逆らえないんだよ」

「ほんっと、最っ低」

 その日以来、矢口は教室の中で孤立していった。

 悠もまた、教室に現れることはなくなった。


 立て続けに三つの台風が列島に居座って、その週はずっと雨続きだった。

 真っ昼間だというのに窓の外は薄暗く、教室にもどこかどんよりした空気がこごっているようだ。

「……なんか最近、雰囲気暗ぁい……」

 弁当を食べながら、なつこがぽつりと言った。

「なによ、あたしが悪いのかよ?」

 柚木がつっかかる。

「そんなこと言ってないけど……」

 なつこはため息をついた。

「なんか、瀬古くん怪我したとかで学校来てないし、悠くんも休んでるし、矢口くんはケータくんたちと遊ぶようになっちゃったし……寂しいなあ」

「矢口はケータたちと遊んでるわけじゃないでしょ」

 高橋がぼそっと言った。

「ああ、ありゃ完全にターゲットにされてるよね」

 柚木も同意する。

「え!?そんな……大変じゃん!」

「ほっとけよ。そもそもあいつが仲間売ったんじゃん」

 柚木は怒ったように言った。

「ってか、もとはといえば悠くんだったじゃん……」

「何が?」

「だから、ケータくんたちが……いじめ?ターゲット?にしてたのってさ」

「は?じゃあなつこは、月原ならいじめられてもいいってのか?」

「そういう意味じゃないけどぉ……なんか、矢口くんも瀬古くんも、とばっちり?みたいな」

 ドン!と柚木が拳で机を叩いた。カチャン!と箸が跳ねる。

「きゃ!」

 なつこが怯える。

「まあ、月原くんにはクルスくんがついてるからね」

 高橋が言った。

「だから?うちらだって友だちじゃん」

「でも実際、ケータがその気になれば、私たちにできることなんてなかったし」

「サヤまでそういうこと言うのかよ……」

 柚木は失望したように言うと、食べかけの弁当を片付けて自席に戻ってしまった。


 学校を休み続けている悠に、母親は何も言わなかった。

「悠、じゃあ私、仕事行くわね」

「……うん」

「家にいるなら、お洗濯だけお願いしちゃっていいかしら?」

「うん」

「あと、気分悪くなったらすぐ連絡してね?携帯は絶対に離さないで」

「うん、分かってる」

「じゃ、行ってくるね」

「……母さん」

 悠はためらいがちに母親の背中に声を掛けた。

「ん?」

 母親は玄関のドアを開けかけて、振り向いた。

「学校行けって言わないの?」

「……行きたくないなら、行かなくていいわよ」

 母親は息子の頬に軽く触れ、ごく穏やかにそう言った。

「お天気も悪いしね。学校には病気のこと話してるし、しばらくのんびりしても大丈夫でしょ」

「奨学金とか、打ち切られるかも」

「その時はその時よ。あの学校が嫌なら、転校したっていいのよ」

 母親は爽やかに笑った。

「子どもがお金のことなんて心配しないの。私は悠が笑っていられるなら、それでいいんだから」

「……ありがと。いってらっしゃい」

「はい!あ、お洗濯お願いね!あと携帯は」

「わかったわかった」

 雨の中を出勤していく母親を見送って、悠は部屋に戻った。

(転校、か)

 自分は学校が嫌なんだろうか、と自問する。

 中学の頃は――。

(友だちなんて、一人もいなかった)

 携帯を見ると、アプリにはいくつもメッセージが届いていた。

『おーい!あんま気にすんなよ!もうあんなことさせないから!だから早く学校来いよ!月原いないと、バカのなつこが留年しちゃうからさ。頼むわ!』

『悠くん、このあいだはごめんね。悠くんいないとさびしいな…(ノД`)シクシクそして何より、小テストがヤバすぎなの((((;゚Д゚))))と・に・か・く!ガッコーで待ってるねん!』『あ、あのあとすぐ、瀬古くんが黒板消してくれてたよ!柚ちゃんも毎朝黒板の前で仁王立ちで見張ってるから٩(๑òωó๑)۶だから安心しておいでね!』

『月原くん、数Ⅰの78ページの3−4って、正弦定理と余弦定理どっち使った?あ、あと確率の予習でもちょっと話したいことがある。学校来たら相談乗ってくれ頼む。あ、でも、無理はしないでほしいけど。そうそう、アンナ・カレーニナ読み終わったよ。長いこと借りててごめん、ロシア人の名前がややこしくて手間取ったわ。三国志の続き、読む?いつ持っていこうか?学校来られそうな日は連絡請う。くれぐれも無理せずに。』

『月原くん。休んでいる間のプリント預かっています。必要なら自宅に届けるので遠慮なく言ってね。それと……あの時はケータたちを止められなくてごめん。皆、待っています。』

 柚木やなつこや瀬古や高橋が代わる代わる送ってくるメッセージに、悠は返信できずにいた。彼らの気持ちが温かくて、ありがたくて、そしてそれ以上に、気遣われていることが恥ずかしく情けない。

(僕なんて……消えてしまえばいいんだ)

 そうすれば誰に迷惑をかけることもない。

 そしてクルスからも、メッセージが来ていた。

『調子どう?今日も休み?』

 クルスは教室での事件のことは知らないはずだ。知っていたら、こんな内容で済むはずがない。悠はクルスにだけは、学校を休んでいると返信していた。

『パンだけじゃ足りなくて、5限サボってめんめん行っちゃった』

『カイとタローが、またいたんだけど。ウケる。絶対あいつら、週5でみんみん行ってる』

 クルスからはたまにそんな他愛もないメッセージが届く。

 ベッドの上で、悠は携帯を握りしめてうずくまった。

(知られちゃダメだ……)

 黒板はあの後すぐに瀬古が消してくれたと、なつこが教えてくれた。だが、誰かが写真に残しているかもしれない。不安は日を追うごとに膨れ上がる。

 悠は切実に願った――あの悪夢のような黒板が、どうか彼の目に触れることがないようにと。

(あれを見られたら、僕は――)

 想像するだけでぞっとする。

 その日の昼過ぎ、一人分の素麺をゆでて遅い昼食を取っていると、携帯が鳴った。

 悠は一通の未読メッセージを開いた。

『話したいことがあるんだ』

 それは、矢口からだった。

 雨の音が、ひときわ強くなった。


 夕方、台風が抜けた街には一気に夏空が戻ってきた。

 数日ぶりの太陽が、濡れた道路に青空を写している。

 学校を出たクルスは、怪訝そうに眉根を寄せた。停めていたバイクの前に、男子生徒が一人、立っている。

「誰、お前」

「あ、俺、一組の矢口っていうんだけど。その、月原くん、ずっと休んでて」

 彼――矢口は、どこか落ち着かない様子で言った。

「それが?」

「これ……見てから、月原くん学校来なくなって」

 矢口はクルスに携帯の画面を向けた。そこに映し出されたのは、悪意たっぷりの黒板の落書き。

「……ってめぇ……!!」

 クルスは矢口の胸ぐらをつかんだ。

「……っ!」

 クルスの剣幕に、矢口が怯えて目をつむる。

「なんだコレ?どういうつもりだ?」

「クルスくんに、西公園で待ってるから、来てほしいって」

「クソッ!」

 クルスはバイクに跨ると、爆音を上げて走り去った。




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