第6話 太陽と熱と透明なしゅわしゅわ。

「あー!つまんねえ!」

 夏休みの教室で、斎藤慶太ケータは荒れていた。

「何が」

 笠井が携帯ゲームをしながら退屈そうに言った。補習に呼ばれたケータに、なぜか付き合わされている。

「んだよ、オタクのカマ野郎のくせにリア充気取りやがって」

「お前、ほんっと、好きねー。月原」

「冗談じゃねえよ!あーもう、誰か殴らねえと落ち着かねーわ」

「危ないやつだな、お前」

 笠井は携帯から顔を上げて言った。

「べつに月原じゃなくたっていいじゃん。俺クルスとモメんの嫌なんだけど。ほら、あいつとかは?瀬古。オタクで顔もいい感じにキモくて、いじりがいありそうじゃん」

「瀬古ねぇ……」

 ケータは窓の外を眺めて呟いた。校庭では野球部とサッカー部が練習していて、ちょうどバスケ部がロードワークから戻ってきたところだった。

 ケータはにやりと笑った。

「……要はクルスをどうにかすりゃあいいんだろ?」

「まあ、あいつとはぶつかりたくないねえ、俺は」

 笠井がまたゲームをしながら言った。

「ああ、わかったよ笠井。別に正面からやり合う必要なんてねえよな……新学期が楽しみになってきたぜ」

 ケータは誰に言うともなく呟いた。


『海いかない?』

と、クルスからメッセージが来たのは、八月に入ってすぐの日曜日だった。

 翌日、クルスはいつものバイクで悠を迎えに来た。

 小一時間も走っただろうか。峠をひとつ越えると、空気が潮風に変わった。

 バイクを停めて防波堤を上ると、そこには果てしない青が広がっていた。

「うわあ……!」

 思わず声を上げた悠を、クルスが満足そうに眺める。

「おー、いい反応」

「僕、海来たの初めてだ」

「……は?ウッソだろ?」

「ねえこれ、降りていいの?靴って脱ぐの?履いたまま?」

「別にどっちでも……ってかお前、なんでスニーカーなんだよ。今気付いたわ」

 ちょっと待ってろ、とクルスはどこかに電話をかけ始めた。

 すると間もなく、真っ黒に日焼けした少年がビーチサンダルを手に走ってきた。少年は悠にペコリと頭を下げた。

「どうも!俺、クルスさんの後輩のカイっていいます!」

「あ、こんにちは。クルスの……えっと」

 悠は口ごもって、ちらりとクルスを見た。クルスは「なんだよ」と言って、言葉を引き継いだ。

「高校の友だちの月原悠。よろしくな」

「月原さん!よろしくっす!」

「あ、いえ、こちらこそ」

 悠もぺこりと頭を下げる。

「そいじゃ、自分、戻ります!あとで寄ってくださいね!」

 カイはビーチサンダルを悠の前に置くと、元気よく防波堤を駆け降りていった。

「あいつの母ちゃんが海の家やってんだよ。ほら、あそこ」

 クルスが指差した先には小さな建物があって、カレーとか焼きそばとかビールとか書かれたのぼりが立っていた。

 ビーチサンダル越しの砂浜は、びっくりするほど熱かった。

 クルスは手際よくシートを広げ、海の家で借りてきたパラソルを立てた。

「ほら、これでちょっとは涼しいだろ」

「手慣れてるねえ」

 悠は感心した。

「まあな」

 そう言って、クルスはパパっと服を脱ぎ捨てた。

「……!」

 悠はクルスの身体を凝視してしまった。

 薄々分かってはいたが、クルスの肉体は美しい筋肉に包まれて、完璧だった。

 頑丈な腕、隆起した肩、しなやかなラインを描く背中。厚い胸板の下には、腹筋がきれいに並んでいる。

「悠は――、……泳げねぇか」

「うん、ここで見てるよ」

 悠はクルスに見とれたまま言った。あまりじろじろ見たらダメだ、と頭ではわかっていても、眼が自然に吸い寄せられてしまう。

「じゃ、ちょっとひと泳ぎしてくる」

 クルスはざぶざぶと海に入っていき、しばらく平泳ぎで浅瀬を抜けると、やがてお手本のように美しいクロールで泳ぎだした。

 青い水面に、波頭が白く輝いている。悠は眩しそうに目を細めて、海とクルスを眺めていた。

(きれいだな……)

 悠は海で泳いだことなどない。どころか、水泳もろくにやったことがなかった。幼い頃は入退院を繰り返していて、レジャーに連れ出されることなどなかったし、父親が病で早逝してからは更にそんな機会はなくなった。母親は仕事に追われていたし、自家用車も手放した。死亡保険で家だけは残ったが、それだけだ。今でも悠は月に一度通院しているし、その費用もばかにならない。

 病弱な身体と、貧しくはないがかつかつの生活が、悠の現実だった。どこにも行けない代わりに、ひたすら勉強した。

 だから、自分でバイトして、バイクを買って、ふらりと海に来るクルスが、どうしようもなく眩しかった。

「……ひゃっ!」

 突然首筋に冷たいものが当たって、悠は素っ頓狂な声を上げた。

 あはははは!と明るい笑い声がした。振り向くとカイがいた。さすが金髪のクルスの後輩だけあって、耳にはピアスがじゃらじゃらついている。

「すみませぇん!まさかこんなに驚いてくれるとは!」

「びっくりした……」

 僕は心臓が悪いんですけど、と心の中で小さく抗議する。

「すみません!ラムネ、サービスしますよ!」

 全く悪びれもせずに、カイは屈託なく笑った。

「バカてめえ、給料から差っ引くぞ!」

 海の家から威勢のいい怒鳴り声が聞こえてきて、カイはぺろりと舌を出した。

「オゴリっす。気にしないでください。母ちゃん、ああ言っとかないと他の客の手前あるんで」

 すると、カイの後ろからもうひとりの少年がぴょこんと顔を出した。こちらもじゃらじゃらと重そうな耳をしている。

「どうも、こんにちはっす!」

「あ、どうも」

 言いながら、悠は思い出していた。

(そうか、この二人、クルスとラーメン屋から出てきた人たちだ)

「俺、タローって言います。クルスさんの後輩っす」

「クルスの――友だちの、月原です」

「どうもっす!会えて嬉しいっす!」

 そう言って、タローは悠の横に座り込んだ。カイも反対側に座って、悠はカイとタローに挟まれる形になった。

(なんで僕はピアスに挟まれてるんだろう……)

 悠は膝を抱え込んだ。

「いやー、どんな人か気になってたんすよねー」

「俺も気になってた!クルスさんに免許取らせた人だもんな!」

「……えっ?免許、取らせた、って、僕が?」

 悠は意味がわからずに聞き返した。クルスに免許を取ってくれなんて言った覚えはない。

「そっすよ!だってクルスさん、中学んときヨユーで無免でガンガン走ってましたからね。なんで今さら免許なんて取んのかなーって」

「バイクもさあ、タンデムしやすいやつに買い替えて」

「それは単にでかいやつが欲しかっただけじゃねーの?」

「言えてる」

「昔250ccニーハンで180とか普通に出してたし」

「ありゃーヤバかった。追いつけないんだもん」

「走り屋のおっさんたちに絡まれたりして」

 悠はぽかんとして聞いていた。不良少年たちの会話は半分ほどが意味不明だったが、ひとつだけわかったことがあった。

「クルス……バカだな……」

 ぬるくなったラムネが、甘ったるく喉を滑り降りていく。

「おいてめーら、俺いないとこで何話してんだよ」

 いつの間にかクルスが海から戻ってきていた。

「あ!クルスさん!」

「カイの母ちゃんに休憩もらったんすよ!泳ぎましょうよ!」

「あー、ちょっと休んだらな」

 クルスは悠の隣にどかっと腰を下ろした。

「そういえば、クルスさん、聞きました?佐野原さんのこと」

「いいや?」

「高校中退して、なんかヤバそうな連中集めてるっぽいっすよ」

 タローは意味ありげに声を潜めた。

「あー、俺、そういうのもういいわ」

「でも、あっちはそうは思ってないんじゃないっすかね……中学んとき、クルスさん佐野原さんとモメてましたよね。あれ、根に持ってるって噂っすよ」

「昔のことだろ」

 クルスは興味なさそうに言った。

「正直ケンカは京一さんが最強だったし」

「ってか、タイマンならクルスさんだって負けてねーし」

「バイクもクルスさんの方が速かったっすよね」

「あのクルスさんが、教習所通って、安全運転とか言って、一体どうしちゃったんだろうって話してたんすよ」

「うるせえよ。な、それちょーだい」

 クルスは悠の手からラムネを取り上げてぐびぐびと飲み干した。

「ぬっる」

「人のもん奪っておいて、言い草」

 悠は呆れた声を漏らしたが、クルスが勝手に悠のものに手を伸ばしてくることには、もう慣れていた。

「俺、新しいの持ってきますよ!」

 カイがパッと立ち上がって、海の家へと走っていった。タローもそれを追う。

「……ったく、あいつら余計なこと喋りやがって」

「クルス、免許取ったのって……」

 悠は先程から気になっていたことを口に出した。

「だってよ、お前のことバイク乗せて捕まったら、お前が困んだろ。優等生」

「え……まさか、ほんとに僕のために免許取ったの?」

 確かに、無免許のバイクに乗って捕まり、警察から学校に連絡が入ったら、奨学金が打ち切られる可能性はある。

「ちげーよ。俺がやりたくてやっただけ」

「だとしたらクルス、ほんとバカだよね……」

「ああ?ほっとけよ」

 クルスはそっぽを向いて、ぶっきらぼうに言った。

 背後から、カイとタローの笑い合う声が近づいてきた。

「……ありがとう」

 悠は小さく言った。

「お待たせしました!冷たいラムネ四ちょう!」

「おー!サンキュ!」

「これ食ったらひと泳ぎしましょう!」

「お前も行く?足濡らすぐれーなら、いけんだろ」

「うん」

 悠は、初めての海を満喫した。

 昼には海の家で焼きうどんも食べた。カイの母親はのいい美人で、カイと同じくらい黒く灼けていた。

 その夜、案の定、悠は軽く発熱した。

 だが、太陽に輝く青い海を思い出すと楽しい気分がよみがえってきて、不思議とよく眠れた。


 夏休み中、橘高校の体育館は運動部が交代で使用する。一番遅い時間帯は、午後八時に練習が終わる。

 その日、矢口翔馬は暗い夜道を家に向かっていた。練習後の気だるい疲労感が全身を包んでいる。時間は遅かったが、特に急ぐ理由もなく、夜道をだらだらと歩いていた。

「よう、矢口くーん」

 聞き覚えのある声に呼び止められ、矢口は立ち止まった。

 マンションや雑居ビルに囲まれた一角の、小さな公園の薄暗がりの中に、5〜6人の人影がある。どう見ても凶暴そうな雰囲気を放つ不良たちだ。

 危険な雰囲気を察知して、矢口は足早に立ち去りかけた。

「おい、無視してんじゃねえよ」

 低い声とともにいきなり足を引っ掛けられて、矢口はバランスを崩した。

「わっ!」

 二〜三歩よろめいて踏みとどまったところを囲まれる。

「ちょっ……何ですか」

「呼んだのに無視すっからだろ、矢口ぃ」

「あんた……ケータか?」

「何呼び捨てにしてんだよ!」

 横から蹴りが飛んできて、矢口の腹に埋まる。

「ぐっ……は!」

「お前さあ、なんか調子乗ってねえ?」

 蹴りを入れた笠井が、腹を抱えてうずくまった矢口の髪を掴んで、顔を上げさせた。

「矢口くんさあ、ベンキョーもブカツもできんだってえ?」

 周りを囲んだ不良たちが、口々に囃し立てる。

「すげえなあ」

「女にもモテてんじゃん」

「なん……で……っ」

 蹴りを食らった内臓が、よじれるように痛む。

「かっこいいもんねぇー」

 そう言いながら、不良の一人当が矢口の顔を思い切り殴りつけた。

「がっ!」

「バスケ部のやつに聞いたら、二年差し置いてベンチ入りだってよ」

「さぁすが、スポーツ推薦」

 矢口は背筋がぞわりとした。二年の部員の差し金だろうか、とちらりと頭をよぎる。

「かーわいそーに。骨折とかしたら、大会出れねーなあ」

「やめろよ……頼むから……」

「あ゛?何か言ったか?」

 ケータが言った。

「俺が……なんかしたかよ……?やめてくれよ……」

「なんもしてねーよ。お前はな」

「じゃあ……っ、なんで」

「なんで、だってよぉ!」

 ぎゃはははは!と笑いが起きる。

「なんでって、そりゃ――暇つぶしぃ?」

 ケータはぐんにゃりと歪んだ笑顔を浮かべて言った。

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