第4話 灰色メランコリック。

「……一位のやつ、もしかして、一組のあいつ?」

 五月。

 中間考査の上位者が、廊下に張り出された。

「月原じゃん……」

「しかも、見て、点数」

「うわ……」

「え、あれって満点てこと?」

「やっば」

 ざわつく人だかりの後ろを、悠はいつもと変わらない様子で教室に向かった。

 自席に着いて授業の準備をしていると、隣の席の女子生徒が話しかけてきた。

「ねえねえ、あれって月原くんでしょ?」

 悠が彼女と――というより、クラスメイトとまともな会話を交わすのは、ほとんど初めてだった。確か名前を高橋サヤといった。悠は高橋が眼で指した先を見て、「ああ……」と言った。

「うん、まあ」

 実は悠は順位表を見ていなかったが、テスト後の自己採点で満点だったことは確認済みだった。

「すごいじゃん!」

「マジ、頭良すぎじゃね?」

 別の女子生徒たちが、悠の席に集まってくる。

「えっ、ちょっ……」

 悠はうろたえたが、女子生徒たちは全く気にすることなく好きなことを喋りだした。

「ねえねえ、あたし追試決定っぽいんだけど!悠くん、勉強教えてよー」

「オマエはまず小学校の教科書からでしょ?」

「うっさいわ!」

「てかさてかさ、あたしなにげに思い出したんだけど!ねえ、入学式のさあ、新入生代表って、あれ、月原だよね?」

「え、マジで?新入生代表なんて出てた?」

「いや、欠席だったんだって。でも名前は呼ばれてたじゃん」

「覚えてなーい!」

「なにげに天才じゃね?あたし」

「いや、だから天才は悠くんだし!」

 いつも静かな悠が、朝から女子に囲まれてきゃあきゃあ言われている姿は、よほど目立ったらしい。他の男子生徒も、ちらほらと集まってきた。

「月原くん、一位すごいね」

「あ、こいつ知ってる?二位だった瀬古。んでもって俺が、四位の矢口。よろしくね」

「あ、ああ。よろしく」

 悠は、クラスメイトの名前は全員覚えていた。

「俺はバスケ推薦で、瀬古は受験失敗組な」

「うるさいなあ。僕、緊張するとダメなんだよお」

 猫背で、丸顔に分厚い眼鏡をかけたいかにもガリ勉タイプの瀬古隆秀たかひでが、矢口に文句を言った。一方の矢口翔馬しょうまは、髪を軽く脱色して垢抜けた雰囲気だ。女子たちとも気さくに会話を弾ませている。

「なつこは俺でも教えられるよ。どこよ?」

「えー、全部ぅー」

 追試決定、と言っていた多賀城菜摘なつみ――なつこが唇を尖らせて言った。

「でもさ、追試って確か、期末の後じゃん?平均で赤点じゃなきゃオッケーだよ」

「え、だってなつこ、数学とか6点とかだもん、無理」

「6!」

「むしろどの問題が解けたのか知りたいわ」

 あはははは、と明るい笑いに包まれた時、チャイムが鳴って教師が入ってきた。


 その日の昼。いつものように旧校舎に行こうとして、悠は高橋に捕まった。

「ねえ月原くん、お昼一緒に食べようよ」

「あっ……いや、僕、ちょっと」

「いいねえー!」

 高橋の席に集まってきた女子たちが、悠の返事を待たずに同意する。

「てか、いつもどこで食べてんの?」

「いや、その」

 クルスと旧校舎で、とはさすがに言いにくかった。そんなことを言えば彼女たちは弁当を持ってぞろぞろと着いてきそうだ。

「……なんでもないよ」

 そう言って、悠は弁当を開けた。

 矢口や瀬古も合流して、大勢で食べる昼食は賑やかだった。

「つかさあ、前から思ってたんだけど、月原くん、黙ってやられすぎじゃない?」

「……え?」

「あー、アイツでしょ?ケータ!」

「ってか、なんなのアイツ。めっちゃ偉そうだよね」

「悠くんのほうがカシコイのにね」

「月原、いじめられたらあたしらに言うんだよ?ガツンと言い返してやるから!」

「そうだそうだ!」

 盛り上がる女子たちの横で、矢口がにこにこしている。

「おー。応援してる。がんばれー」

「なんだよてめえ、女に戦わせて自分は見物か?」

 可愛い顔をしているくせに、誰よりも口が悪いのは柚木だ。

「だって俺、ケンカなんかしたらスポーツ推薦取り消されちゃうもん」

「オマエは自分のほうが大事なのか!」

「普通そうでしょ!」

 また笑いが起きる。その輪の中に、悠は自然に溶け込んでいた。

(なんだ……みんな、僕を避けてたわけじゃなかったんだ)

 中間考査をきっかけに、少しずつだがクラスメイトと話せるようになったことは、素直に嬉しかった。

 皆の食事が終わって、ようやく悠は解放された。悠は、多めに作ってもらった弁当を少し残して、旧校舎へと急いだ。昼休みは残り僅かだ。だが、この時間ならぎりぎりクルスはいるはずだ。

「……あれっ……?」

 だが、そこには誰もいなかった。

 五月の眩しい太陽だけが、石段にくっきりと影を落としていた。


(クルス……どうしたんだろう)

 あれから、悠はクルスを見ていない。

 昼休みが始まってすぐに、高橋たちの誘いから逃げ切って旧校舎に行ってみても、やはりいつもの場所に彼はいなかった。

 そもそも学校に来ているのか。休み時間にそれとなく教室を覗いてみても、窓際のクルスの席に彼の姿はなかった。

 悠は、クルスと一緒にいることは、ぱったりとなくなった。


 その代わり、悠には少しずつ友人ができていった。

 隣の席の高橋、高橋の友だちの、バカのなつこにギャルの柚木。

 ガリ勉の瀬古に、何かにつけて器用な矢口。

 瀬古のPC部仲間の工藤と木根は、典型的なオタクだ。工藤はゲームとアニメに血道を上げ、木根はミリタリー系なら第二次大戦の軍服から巡航ミサイルまで語りだしたら止まらない。

 見学続きだった体育は、矢口が女子バスケ部の田中ユミナと夏川玲と一緒にフォローに入ってくれて、座ったまま休みながらできるストレッチや軽い筋力トレーニングなどのメニューを考えてくれた。

「身体も柔らかいし、運動したら伸びそうなのにね」

「背もそこそこあるし、もったいないよね」

「ははは……」

 女子にそんなことを言われても、悠は困ったように笑うしかなかった。

 悠の回りに常に誰かしらがいるようになって、ケータたちが絡んでくることもなくなった。たまに目が合うと忌々しげに睨みつけられるが、それだけだった。

 なかなか明けない梅雨のある日、見覚えのある女子生徒が一年一組を訪れ、悠を呼び出した。

「月原くん、いる?」

 それは、あの晴れた春の日に、満員電車で助けてくれた庄司菫だった。

 庄司菫は、メガネを掛けた男子生徒と一緒にいた。襟章は三年だ。

「なんですか?」

「ちょっと、いい?」

 庄司たちは、悠を生徒会室に連れて行った。

「庄司のことは知っているよね。俺は生徒会長の戸田雅也。よろしく」

 メガネの三年生がそう言って、悠に椅子を勧めた。

「さて、俺ら三年はこの夏で生徒会を引退するんだけど、秋に生徒会役員選挙があるんだ。それで、これは形式的な打診なんだけど、月原くん、君、生徒会役員をやる気はない?」

「えっ……」

 想定外すぎる打診だった。

「ああ、でも、君の事情は聞いているから、体調と相談して難しそうなら、断ってくれていい。ただ例年、入学生代表には声を掛けることになっているから、一応ね。もちろんできそうならぜひやってみてほしいし、その時は全力でサポートするよ。……といっても、俺は引退するから、庄司がね」

「戸田さん、私も選挙で当選しなければ無理です」

「余裕でしょ」

 戸田はにやっと笑った。その笑顔がどう見ても腹に一物ある人間のそれだったので、悠はこの戸田という男に少し興味を抱いた。

「わざわざありがとうございます……でも僕、そういう器じゃないし、やっぱり体調に不安が……」

 流石に誘われてすぐに「お断りします」とは言いにくくて、悠は語尾を濁した。

「だよね。わかるよ。ほんと、無理しなくていいし、今すぐ決めなくていいから、夏休み中に考えるだけ考えておいてくれる?まあ体のことは置いても、器うんぬんの話は、君は結構向いてるんじゃないかと俺は思うけどね」

「いや、ほんと……人付き合いとか苦手だし」

 悠は慌てて顔の前で手を振った。

「そう?でも結構友だちたくさんいるみたいだったじゃない?」

 戸田がまたにやっと笑った。

 実際、最近の悠の学校生活は、充実していた。

 だがどこか、胸のあたりに、ぽっかりと穴が空いているような感覚があった。

 何かが足りない。

 満たされない。

 友だちに囲まれて、笑い合っていても。

 その理由を、悠はわかっていた。

(……クルス……)

 生徒会室から戻ると、教室は既に空っぽだった。校庭からは運動部の掛け声が聞こえてくる。

 悠はふと、無人の二組に入っていった。

 窓の外には、灰色の梅雨空が重く垂れ込めている。

 窓際のクルスの席の横に立つと、いつだったかここに座っていた彼の姿が蘇った。

 ――俺がお前を守ってやる。いじめとか、もうないから。お前の人生。

 ずっとずっと一人ぼっちだった悠の手を取って、孤独から連れ出してくれたクルス。

 人といるのが苦手だった悠に、旧校舎の秘密の場所を教えてくれたクルス。

 悠が食べきれない弁当を、おいしそうにつまむクルス。

「クルス……」

 ずっと守るって言ったのに。

 悠がクラスメイトに囲まれているのを見て、もういいと思ったのだろうか。昼休みに旧校舎に行かなかったから、機嫌を損ねたのだろうか。もやもやと悲観的な想像ばかりがふくらむ。

 そもそも悠には分不相応な相手だったのだろうか。悠とは付き合う価値がないと見限って、去っていったのだろうか。

 もう二度と、あの笑顔が悠に向けられることはないのだろうか。

「……もう僕のことなんて、どうでもよくなっちゃったのかな……」

 ぽつりと口に出した瞬間、悠は強烈な寂寥感に襲われた。

「――っ!」

 心臓が締め付けられるように痛んで、悠は胸元を押さえてその場にしゃがみこんだ。

「……クルス……クルス……」

 絞り出すように繰り返す。

 悠は、唐突に悟った。

 何人の友だちに囲まれていても、人は孤独なのだ。

 その孤独は、たった一人でいい、まっすぐに自分を見てくれる相手がいるだけで、きっと満たされる。

「……クルス……会いたいよ……」

 もう一度、あの場所で、一緒に弁当を食べたい。

 そして、悠はようやく気付いた。

 クルスこそが、孤独だったのだ。それも、悠よりもずっとずっと深い――。

 でなければあんなふうに一人になれる場所を知っているはずがない。

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