第3話 くらくら青空。

 帷子川から橘高校の最寄り駅までは普通列車で四十分、一時間に二本ほどの快速でも三十分かかる。

 その日の朝、悠は少しだけ遅く家を出た。季節の変わり目は身体が重い。いつも通り目は覚めたのだが、しばらくベッドから起き上がれなかった。それですべての調子が狂った。

 朝食を半分残して家を出て、春の終わりの汗ばむような陽気の中を、急ぎ足で駅へ向かう。いつもは普通列車に乗るのだが、その日はたまたま来た快速列車に乗ってしまった。

 悠は、すぐに後悔した。

 次の駅で、快速列車はすし詰め状態になった。

 通勤客の群れが、ぎゅうぎゅうと悠の身体を押しつぶしてくる。つり革に捕まるどころか、足の置き場すら心もとない。そんな状態でドアは閉まり、発車した。

(苦しい……)

 物理的に圧迫されている苦しさに加えて、しばらくすると息苦しさが襲ってきた。悠は呼吸のために、口を軽く開けた。

「……ハァッ……」

 酸素が薄い気がする。

 電車が揺れるたびに、ぎっしり詰まった乗客が右へ左へと押し寄せる。そのたびに、悠は自分を囲む人々の体重に圧迫された。

 胸のあたりに、軽いえずきがこみ上げてきた。額に脂汗がにじむ。

 悠は乗客の頭越しに、天井近くの壁面にある路線図を見上げた。それによると、快速が次に停まるのは、降りる駅のひとつ手前の駅だった。あと十五分近くはかかる。

(……やばい……)

 吐き気が酷くなって、悠は両眼を閉じた。こんな場所で吐くわけにはいかない。

(あと……何分だろう……)

 祈るような気持ちで、次の駅に着くのをひたすら待つ。時間がやたらと長く感じられる。

「……ッ、ハァ、ハァ、ハァッ……」

 呼吸が荒くなって、悠の周囲にいる乗客たちが怪訝そうに振り返るのがわかる。だが、そんなことを気にしている余裕は、どこにもない。胃から突き上げてくる蠕動ぜんどうを呑み込むのに必死だ。

 キィン――と耳鳴りがして、気が遠くなりかけた時。

 車内アナウンスが何かを喋って、それからようやく、電車が止まった。

「ねえ君、一回降りよう」

 唐突に声を掛けられた。ピンポン、という音とともにドアが開き、サアッと新鮮な空気が流れ込んできた。声の主は、悠の背中を支えるように手を添えて、ホームに降りた。

「大丈夫?」

 ホームのベンチに悠を座らせてそう言ったのは、橘高校の制服を着た女子生徒だった。

「あったかいのと冷たいの、どっちがいい?」

 女子生徒はペットボトルのお茶をふたつ、悠の前に差し出した。

「すみません……あったかいほう、いただきます」

 お茶を飲むと、ようやく人心地着いた。吐き気も収まった。

「良かった。さっきは顔が真っ白だった。紙みたいに」

 女子生徒がにこりともせずに言った。

 肩までの黒い髪に、膝丈のスカート。真っ直ぐな姿勢と着崩していない制服が、彼女をより美しく見せている。

 女子生徒は携帯を取り出して、学校に電話をかけた。

「……二年一組、庄司すみれです。体調を崩した生徒と一緒に大岡駅にいます……はい……はい……」

 電話を切った女子生徒――庄司菫は、しばらく何事か携帯に打ち込んで、それから悠に声を掛けた。

「次の電車、もうすぐ来るけど。乗れる?」

「……ちょっと……まだ無理そうです……あの、よかったらどうぞお先に」

「そういうわけにもいかないでしょう」

 庄司はそう言って、悠の隣に腰掛け、文庫本を取り出して読み始めた。

 結局、そのまま三十分ほど休んだ後、ふたりは歩いて学校まで行くことにした。庄司は帰宅することを提案し、次にタクシーを使うことを提案したが、悠は今はどんな乗り物にも乗れる気がしなかった。

 気が抜けるような青空の下、二人は特に会話もなく歩く。

「あれ、悠?」

 聞き慣れた声に、悠は驚いて振り向いた。見慣れた金髪が、軽そうなカバンを肩に乗せて歩いてくる。

「え、なんでここにいんの?」

 追いついてきたクルスは、二人の顔を見比べて言った。

「電車で貧血起こして、途中で降りたんだ」

「え、大丈夫?」

「なんとか」

「ま、倒れたらおぶってってやるから、安心しな」

 クルスはそう言って、悠の手からカバンを取り上げた。

「うわ、重っ。なにこれ、辞書でも入ってんじゃねーの?」

「え、入ってるけど」

「あなたのは随分軽そうね」

 庄司が、やはりにこりともせずにクルスに言った。

「誰、お前」

「二年の庄司です」

「センパイか。悠の知り合い?」

「さっき倒れかけた時に助けてもらったんだよ」

 悠が説明した。

「何、お前、そんなにヤバかったの?」

「もう大丈夫だよ」

「おんぶする?」

「……それは、いい」

 だが、やはり学校の手前の坂道で、悠はまた歩けなくなってしまった。クルスが悠に肩を貸し、庄司が悠のカバンを持つ。

 ようやく保健室に着いて、二人は悠をベッドに寝かせた。

 悠がすうすうと寝息を立て始めた時、「失礼します」と男子生徒が入ってきた。

「戸田さん」

 庄司が言った。

「大変だったね、庄司」

 戸田は、メガネを掛け、詰め襟の一番上まで止めて、いかにも優等生といった風情だ。

「彼が月原くん?」

 庄司が頷く。

「へえ、こんな子だったんだ」

 戸田が眠っている悠の顔を覗き込んだ。それからくい、とクルスに顔を向けた。

「そして君が、来栖未来くんか」

「誰だ、あんた」

 クルスは戸田を睨みつけた。

「俺は戸田雅也。生徒会長をしてる。庄司も生徒会の後輩だ」

「生徒会長って生徒全員の名前覚えてんの?」

「まさか」

 戸田が笑う。

「有名人だからね。君も、月原くんも」

「有名?」

「君ら、入学式出なかったでしょ」

「それが?」

 デフォルトで喧嘩腰のクルスに、戸田は全く動じることなく続けた。

「新入生代表が入学式を欠席って、なかなかないからね」

「新入生代表……って、こいつが?」

「入試トップだったからね。君、月原くんと仲いいの?」

「ダチだよ。悪いか」

 クルスが即答する。

「悪くないよ。――ああごめん、そういう意味じゃなくて」

 戸田はちらりとベッドに視線を走らせ、悠が眠っていることを確認して続けた。

「センシティヴな問題だから、あまり誰彼構わず広めてほしくないんだけど……こういうことが頻繁に起こるようなら、君が彼の友だちなら、知っておいてもらおうかな。彼は心臓に疾患があって、医師に激しい運動を止められている」

「えっ……?」

 悠は身体があまり丈夫な方じゃないのだろう、くらいにしか思っていなかったクルスは、心臓疾患、という言葉を理解するのに少しかかった。

「えっと……そういや体育とか、見学してた……かな?」

 戸田が頷く。

「激しい運動、って言ったけど、今朝の様子を聞くと、たぶん健康な高校生なら運動とも思わないようなことでも、彼の心臓にとっては負担なんだろう。例えば満員電車に乗ったり、階段を登ったり」

「マジか……」

「まあ、細かい話は俺が話すより本人から聞くほうがいいだろうけど、いざという時にはフォローしてもらえると助かるよ」

「ああ……わかったよ……」

 生徒会の二人が教室へ帰っていった後も、クルスは保健室に残って、ずっと悠の寝顔を見つめていた。


「なんだよ、今日は月原、休みかよ」

 休み時間、机に腰掛けたケータが苛々と言った。

「お前もこだわるねえ、月原に」

 携帯ゲームをしていた笠井が、視線を上げずに言った。

「あいつ見てっとイラつくんだよ。あー、マジ殴りてぇ」

「やめとけって。こないだもクルスにやられてたじゃん」

「あ゛あ゛!?」

 ガン!とケータが椅子を蹴ったので、クラスメイトが一斉にそちらを見た。

「それがムカつくっつってんだよ!なんだよあいつは。なんであんなヒヨヒヨにムキになるわけ?」

「月原にムキんなってんのはお前もだと思うけど……」

「んだと!?」

「怒んなよケータ。冗談だし。それに、言っただろ?クルスはやべーんだって」

「知るかよ」

「お前、知らねえの?あいつ中学ん時、ヤクザボコボコにしたって」

 笠井は声のトーンを落として、意味ありげに言った。

「……いやいや、さすがにそれはねーわ。ホントだったら生きてられるわけねえだろ」

「だから怖えんじゃん。なあケータ、月原はどーでもいーよ。でもクルスを怒らせんのは、やばいと思うぜ、俺は」

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