第2話 新緑の季節。

 入学早々あんな絡まれ方をして、翌日学校へと向かう悠の足はすこぶる重かった。

「でも行かなきゃ……奨学金打ち切られたら困るしな……」

 私立橘高校には独自の奨学金制度がある。スポーツ特待生で遠方から入学した生徒、全国大会で記録を残した生徒、そして成績優秀な生徒に、返済不要の奨学金が給付されるのだ。

 悠は学校の最寄駅に着いて、そっと辺りを見回した。

(今日は、いない)

 嬉しいような、ちょっと残念なような、複雑な気持ちで坂道を上る。

 昨日あんなことがあった後で、教室に入るのに少し勇気がいったが、幸い悠に注意を向ける者はいなかった。

 午前の授業は何事もなく過ぎた。ただ、教室の後ろの方から粘りつくような視線を感じて、そちらはどうしても振り向けなかった。――ケータの席だ。

 昼休みのチャイムが鳴ると同時に、悠は弁当を持って逃げるように教室を出た。

(また絡まれたら、今度こそ堕ちる……そんなのは御免だ)

 もうには堕ちたくない。その思いが、悠を教室から――ケータの視線から遠ざけた。

 ひと気のない場所を探して校内をうろついていると、唐突にぽん、と頭に何かが乗った。

「よう、悠」

 低すぎないハスキーボイス。

 悠はぱっと振り向いた。頭の上に置かれたのはクルスの手だった。

「クルス……くん」

「ははっ、何それ。クルスでいいし」

 クルスは爽やかに笑った。昨日ケータに凄んだ顔つきからは想像もできない、屈託ない笑顔だ。

「今からメシ?」

 クルスが悠の手元の弁当袋を見て言った。

「あ、うん」

「一緒食う?」

 悠が答える前に、クルスはすたすたと歩き出した。

 廊下の突き当りを左に曲がると、すぐにまた右に狭い廊下がある。そこから先は旧校舎らしく、壁も床も古くて傷だらけだった。狭い階段には半円形の踊り場があり、白いペンキが剥げかけた、アール・ヌーヴォー調の曲線を描く手すりがついている。その階段を上ると、小さなテラスのような場所に出た。半円形に突き出したガラスの壁面の向こう側は、中庭が見下ろせる。

「うわ……すごいな」

 悠は思わず感嘆の声を上げた。

「いいだろ、ここ」

「なんで知ってるの?こんな場所」

「さっき見つけた」

 そう言って、クルスはガラス戸を開けて外へ出た。中庭へ下りる石段に座り込むと、階段に背中を預けてぐーっと伸びをした。

「昼寝できる場所探しててさ」

 ……と、いうことは、午前の授業に出ていないということか。悠は呆れたが、春の陽射しに温められた石段の上でネコ科の何かみたいにくつろぐクルスを見ていると、教室に閉じ込めておくことのほうが間違っているのかもしれないな、などと埒もない考えが沸き起こる。

 クルスは購買で買ってきたらしいパンを出してかじりついた。

「悠、弁当?」

「ああ」

「いいなあ、弁当」

 あっという間にパンを食べきってしまったクルスが、物欲しそうに悠の弁当を覗き込んできた。

(距離、近っ……)

 クルスはパーソナルスペースが狭いのだろうか、と悠は思った。初対面で手を握られたし、さっきだって頭を撫でられた。あまり他人と直に接触しない悠にとって、クルスの距離感は単純にびっくりするし、どこかこそばゆくもある。

「……ちょっと食べる?」

「いいの?」

「いいよ、どうせ食べきれないし」

 悠が言い終わる前に、クルスの手が肉団子に伸びる。

「うまっ!何これ、手作り?」

「昨日の残りだよ」

「卵焼きも一個、いい?」

「いいよ。よかったらブロッコリーも」

「あー、それはいいや。嫌いなんだ、緑の野菜」

「……緑じゃない野菜って?」

「芋とか?あと、かぼちゃとか」

「それって野菜っていうか炭水化物……って、あ!最後の一個!」

「あっ、悪い。もしかして月原、食べてなかった?」

「最悪……もういいよ」

 見下ろした弁当箱には、見事に緑色しか残っていなかった。

「まったく、おいしいとこだけ食べるんだな、君は」

「それね。よく言われる」

 にかっと笑って、クルスは石段にごろりと寝そべった。

「お前さ、教室でメシ食わない人?」

「えっ……」

 悠はどきんとした。さあっと血の気が引いていく。友だちがいないことを見透かされたのだろうか。昨日の騒ぎを聞いていたなら、こんな自分をどう思っただろうか。

「なん……で……?」

「いや、明日もまたここ来ねぇかなーって」

「それは……えーっと……なんで?」

 まさか今までのは悠を懐柔するための罠で、明日からパシリにされるのだろうか、と不穏な警戒心が頭をもたげる。

 だが、クルスは声を上げて笑った。

「なんでって、メシ食うに決まってんじゃん。他なんかあんの?」

「だよね。ははは」

 悠もつられて笑う。

「いや、無理しねぇでいいけど」

「無理なんかしてないけど……ただ、クルスこそ僕なんかと一緒にいていいのかなって」

「なんだそれ。卑屈か」

 クルスはまた笑った。

 その笑顔が眩しくて、悠は何故だか少しだけ泣きたくなった。


「あら珍しい。全部食べられたのね、お弁当」

 その日、仕事から帰ってきた悠の母が、空っぽの弁当箱を開けて言った。

「ああ、ごめん。今洗うよ」

 ダイニングテーブルに参考書と辞書とノートを広げていた悠が顔を上げた。

「いいよ、夕ご飯のお皿と一緒に洗っちゃうから。勉強してたんでしょ?」

「うん。でももう終わるから」

 橘高校の偏差値は決して高くはない。だが奨学金を受け続けるためには、常にトップクラスでいなければならない。母子家庭の月原家にとって、私立高校の授業料は到底払いきれるものではなかった。

 悠は参考書の類を片付けると、母親の隣に立って洗い物を始めた。

「ねえ母さん、もしできたらさ、弁当、もうちょっと多くてもいいかも。……肉とか、かぼちゃ……?とか」

「まあ」

 母親は息子の顔を見上げると、嬉しそうに笑って夕食の準備に取り掛かった。

「高校、遠いものね。お腹すくのかしらね。わかったわ」

「ありがと」

「でも悠、かぼちゃなんて好きだった?」

「……最近ね」


 翌日から悠は、昼休みは旧校舎のテラスでクルスと過ごすようになった。

 午後の選択授業のタイミングが合えば、帰り道も一緒になることもあった。逆に、午前中に会うことはほとんどなかった。クルスは大抵一時間か二時間は遅刻してきたし、眠くなると授業を抜けてどこかに昼寝しに行っていた。一組二組合同で行われる体育の授業などは、一度も見かけたことがない。

 その体育の授業で、壁際で見学していた悠のところに、ボン!とバスケットボールが飛んできた。

「わっ!」

 辛うじて直撃は避けたが、壁に跳ね返ったボールが膝に当たって、あらぬ方向へと飛んでいった。

「おっとお、わりわりい、月原ちゃーん」

 全く悪びれない声がして、悠は声の主――ケータを見上げた。

(……最悪……)

 体育館に教師はいない。指示だけ出してどこかへ行ったようだった。

「月原ちゃんさぁ、ずーっと見学してっけど、さすがにテストは受けんだろ?練習相手、してやろっかあ?」

「……いや、いいよ」

「あ゛あ゛!?お願いしますってえ!?」

 悠の前に立ちはだかったケータは、大仰に耳に手を当てて怒鳴った。その周りを、取り巻きたちがニヤニヤしながら取り囲んでいる。

 ボン!とボールが飛んできた。

「……っあ!」

「ほらほら、パスの練習だぜえ?月原ちゃん、ちゃーんとキャッチしなきゃ!」

「次、行くぞおぃ!」

 ボン!バン!と、悠の左右の壁に次々とボールが投げつけられる。

「ちょっ……やめ……!」

 悠は両腕で頭をかばいながら言った。腕の隙間から、困ったようにこちらを窺っているクラスメイトの姿が見える。

(……結局、僕はここから抜け出せないのか……)

 自らの両腕で作った闇の中で、悠は悔しさと惨めさに奥歯を噛み締めた。


「おい、来栖」

 呼びかけられて、クルスは目を開けた。

「なんすか……?」

 声の主が教師だったので、クルスは仕方なく起き上がった。

「ようやく見つけたぜ。お前、いつもこんなとこでサボってんのか?」

 教師は旧校舎のテラスを見回して言った。数年前に学校の大部分の機能が新校舎に移されてからは、旧校舎を訪れる者はほとんどいない。いい穴場を見つけたもんだ、と感嘆すら覚える。

「さっさと着替えて体育館に来い。体育は最低テストだけは出席しないと、単位やれないぞ」

「……マジか……」

「こっちも体育ごときで留年されたくないんだよ。今日は室内球技のテストだ。それだけでも受けとけ」

「……うーす」

 面倒臭さに辟易としながら、クルスは初めてこの学校の体育館に足を踏み入れた。

 しかしそこでは、信じられない光景が繰り広げられていた。

 生徒たちが遠巻きに眺める中、複数の男子生徒に囲まれて、バスケットボールをぶつけられているのは。

(悠――!!)

 気がついたら、跳んでいた。

 ドカッ!

「……っえ……!」

 背中に飛び蹴りを食らったケータは、大きくよろめいたが、なんとか倒れずに踏みとどまった。

「てめぇ……クルスか!」

 ざわ、と体育館に緊張が走った。

「てめえ、何してやがる!!」

 そう怒鳴りながらケータに殴りかかるクルスを、ケータの取り巻きたちが囲んだ。が、クルスは目にも留まらぬ速さで彼らの攻撃をかわすと、一人目の腹に一発拳を打ち込み、振り向きざまに二人目に回し蹴りを食らわせ、三人目はふっとんだ二人目の下敷きになって、またたく間に三人が床に転がった。と思う間もなく、クルスの拳がケータの頬を捉えた。

「ざけんな!」

 ケータも拳を繰り出す。クルスはそれをかわして、ハイキックを繰り出した。顎にまともに蹴りを食らって、ケータはのけぞった。

「おいおいおいおい!やめろって!」

 教師が慌てて走ってきて、二人の間に割って入った。

「こいつに手ぇ出すなっつったろ。殺すぞ?」

 クルスが凄む。

「うるせぇよ……何ムキになってんだよ、ちょっとじゃれてただけじゃねーか」

 ケータは顎をさすりながら言った。そしてクルスの耳元に顔を近づけ、小声で付け足した。

「このゲイ野郎」

「……ってめえ!」

 ケータに殴りかかるクルスを、再び教師が止めた。

「あーもう、やめろって!おいクルス!お前、今日はもう帰れ」

「……っ」

 クルスは教師の腕を振り払うと、壁際に座り込んでいた悠の方をちらりと見て、足早に体育館を出ていった。

「ってか、授業出た途端に揉めるなよ、もー……なんなんだよ」

 教師は頭を掻いて、それからパンパンと手を叩いた。

「はい!おしまい!みんなこっち並べー!テストするぞー……」

 悠は、静かに立ち上がると、クルスを追ってそっと体育館を出た。


 悠が二組の教室をのぞくと、そこにはクルスだけがいた。

 席に座り、机に両足を上げて、窓の外を眺めている。

「あの……さっきはありがとう」

 悠が声を掛けると、クルスは外を見たまま言った。

「あいつ、何ていうの?」

「え?何、って?」

 悠は質問の意味がわからずに聞き返した。

「あいつ、絡んでた奴の名前」

「ああ……ケータくん?」

「なんでクン付けなんだよ。いじめられてんのに」

 ずきん、と悠の胸が痛んだ。

(――いじめ……そうだよな……)

 惨めさが襲ってくる。恥ずかしくて、クルスの顔をまともに見られない。

「お前さ、ああいうの、いつもやられてんの?」

「……クルスには、わかんないよ……」

「はあ?話もしてくれねーで、わかるわけねえだろ」

「……ごめん」

「だから。謝んなって」

「ごめん」

「謝るなよ」

 それから、少し間を置いて、クルスは下から覗き込むように悠の顔を見た。

「……話せよ」

「……話したらきっと、クルスも僕のこと嫌になるよ……」

「はあ?なんでだよ」

「だって……っ」

 涙がこみ上げる。

 惨めで、情けなくて、消えてしまいたい。

 こんな自分は、自分ですら嫌いなのに。

「話せよ。そんでもって、俺にはわかんねーとか言うな。嫌になったりしないから。絶対」

「……っ……」

 悠は、ぎゅっと両眼を閉じて、涙を呑み込んだ。

「絶対。約束する」

 クルスは、少しだけ優しい声で付け足した。

「……僕、さ」

 悠は、ゆっくりと話しだした。

「うん」

 クルスが、優しい声で頷いてくれる。低すぎないハスキーボイス。

「なんで帷子川から通ってるか、ってさ」

「うん」

「中学で……なんていうか、いじめ……られてて」

 そこで悠は言葉を切った。喉にこみ上げるものを呑み込んでから、再びゆっくりと話し出す。

「学校、あんまり行けなくて」

「うん」

「高校は、いじめてた奴らが来ないとこ、受けたんだけどね。公立の」

「うん」

「前、言ったっけ……試験の日に具合悪くなってさ。落ちちゃって」

「……うん」

ここはさ、地元から遠いから、うちの中学から来る生徒もいないし、奨学金が出るってことで、受けたんだ。同じ中学の生徒がいる高校に通うのは……やっぱ、キツくて」

「うん」

「……引くよね。引いたでしょ」

「いや?」

「嘘だ」

「引いてねえよ。頑張ったんだなーって思っただけ」

「……え?」

「だってさ、そいつら、いじめてた奴らから離れるために、すげえ勉強して、遠いとこから毎日通ってんだろ?俺、よく知らねえけど、ここの奨学金って一人か二人しかもらえないんだろ?それってすげえじゃん」

「……いや、逃げてるだけだし……クルスみたいに強くないから」

「はあ?俺と比べるなよ」

「ごめん」

「だから謝んなって。怒るぞ?次、謝ったら」

「ごめ……あっ」

「……ぷっ」

 とうとうクルスが吹き出した。

「ふふっ……」

 悠も笑いを漏らす。

「はは!あははは!」

 二人は同時に笑いだした。

 しばらく笑い転げた後、クルスが言った。

「よし、決めた」

「え?」

「俺がお前を守ってやる。いじめとか、もうないから。お前の人生」

「……えっ……」

「いやー、お前、強いわ。勝てねぇ。だから、俺がお前を守る」

「……言ってることがおかしいから」

 悠はまた笑った。目尻に涙が浮かぶのを、精一杯ごまかしながら。


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