Colorful Days

サカキヤヨイ

第一章 出会いの季節と、それに連なる日常について

第1話 桜色、散々。

 君が僕の手を握って駆け出したあの日から、

 僕の世界は色とりどりに輝きだしたんだ。 


 *


 満開を少し過ぎた桜の花弁が、緩く長い坂道にちらちらと舞っている。

 うつむいた視界の端を、紺色の制服の足元が次々に追い越していく。

「……ハァッ……ハァッ……」

 決して暑くはない陽気だというのに、脂汗が止まらない。息が上がって、足がもつれかける。

 穏やかな春の空の下、月原つきはらゆうは早くもこの学校に入学したことを後悔しかけていた。初日にこの有様だというのに、三年間毎朝この坂を登るのかと思うと気が遠くなる。

「……っ……ハァ……ッ……」

 坂の途中だというのに、とうとう足を止めてしまった。坂道をゆく生徒の群れはいつの間にか姿を消し、遠くから予鈴が聞こえてくる。

(散々だ……入学式から遅刻なんて)

 詰め襟が首に食い込んで苦しい。歴史だけは長いこの高校の、古風な学ランを呪う。

「ハァッ……ハァッ……ハッ、最……っ、悪……」

 今にもアスファルトに倒れ込みそうになる身体を、膝に手を置いて支えた、その時。ふわりと涼しい風が横をすり抜けていった。

「おい、鳴ってるぞ」

 少しハスキーな声がして、悠は顔を上げた。

 ザア……と、風が木々を揺らし、桜の花弁が舞い上がる。その中に、彼は立っていた。

 明るい金に脱色した髪。幾つも並んだピアス。細い眉。学ランの前を全開にして、中には規定の白いワイシャツの代わりに、黒地にでかでかと白い柄が染め抜かれたTシャツを着ている。

 その見るからに不良そうな彼が、悠のカバンを取り上げた。

「あっ……?」

「持ってやるよ。走れ」

 それだけ言って、坂道を駆けていく。

「ちょっ……」

 悠は慌てて後を追った。が、すぐに足がもつれてつまづき、転んでしまった。

(――最悪)

 悠は思い通りにならない自分の身体と、目の前のだらだら長い坂道を呪った。

「おい」

 金髪が戻ってくる。

「……大丈夫、先に」

 先に行って、と言いかけた瞬間、悠は身体をぐいっと引っ張られて、思わず言葉を飲んだ。

 金髪が悠の手を取って立たせ、そのまま駆け出したのだ。

「あ、ちょっ……」

 ちょっと待って、という言葉は、喉を塞ぐような喘ぎに取って代わられた。だが、不思議と疲労も苦痛も感じなかった。彼に手を引かれていると、さっきまで鉛のように重かった両脚が嘘のようになめらかに動いた。桜が降る中を、風のように軽やかに駆けていく。

「着いた」

 本鈴と同時に、二人は私立橘高等学校と書かれた校門に滑り込んだ。

「ギリ、間に合ったな」

 金髪が、意外なほど屈託のない笑顔で悠を振り返った。

「……ッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ……」

 思い出したように汗が噴き出して、喉が酸素を求めてゼイゼイと鳴る。

「ありが……と……」

 差し出されたカバンを受け取って、悠はそのまま意識を失った。


 気がつくと、白い天井から下がったカーテンが視界を囲んでいた。見覚えのない場所だったが、見慣れた風景でもあった。

(医務室……)

 今何時だろう、と時計を探してぐるりと見回すと、さっきの金髪が座っていた。椅子に浅く腰掛け、壁に寄りかかって眠っている。

 起こすべきか迷って、悠は遠慮がちに声を掛けた。

「あの……君……」

 すると、パチ、と金髪が目を開けた。

「おう」

 金髪は何度かパチパチと目を瞬かせ、あくびをひとつして、ぐっと背伸びした。

「目、覚めたのか。悪かったな、走らせて。まさかぶっ倒れるほど具合悪かったとは思ってなくてさ」

「いや、こっちこそ……入学式なのに、付き添ってもらったみたいで」

 そうだ、今日は入学式だ。あらためて壁の時計を見上げると、十時半を指している。式は完全に終わっている時間だ。

「あ゛ー、かったりいから丁度良かったわ。お前、もう平気なん?」

「多分……」

 悠は頷いた。幼い頃から、倒れるのには慣れている。

「先生、さっき出てって戻んねーんだよ。お前が気がついたら教室連れてけって言われてたけど、行けそ?」

「うん」

 医務室を出て、初めての校舎の中をあっちか?いやこっちか?と言いながら教室を探して歩く。

「お前、親とか来てねーのな」

 金髪がおもむろに言った。

「ああ……今日、仕事で……君は?」

「うちもまあ似たよ―なもん」

 そんな会話をしているうちに、一年の教室が並ぶ廊下にたどり着いた。

「お、見っけ。お前、何組?」

「……一組」

「んじゃ隣だな。俺はクルス」

月原つきはらゆうだ。……今日はありがとう」

 金髪はにっこりと笑顔を返して、二組のドアを開けて入っていった。

 悠も教室のドアを開けた。

「ああ、月原か。もういいのか?」

 教室の後ろから遠慮がちに入ってきた悠に気付いて、教師が言った。

「はい」

 悠は軽く礼をして、ひとつだけ空いている席に座った。少し横になったおかげでさっきまでの不快感は消えていた。

 山のような配布物に目を通す合間、ふと窓の外を見ると、春風が桜色の嵐を吹き上げていた。

 今日は入学式だ。

 だが、散々な一日はまだ終わっていなかった。


「見たぞ。お前、男子と仲良くお手々つないで来ただろ」

 放課後、教師の去った教室では、生徒たちが三々五々に雑多な会話をしていた。一人帰り支度をしていた悠は、その教室に響き渡るように言い放たれた言葉が自分に向けられたものだと理解するのに、少しかかった。

「月原ちゃーん、お前だよ!お前、男同士で手つなぐ趣味とかあるんだ?」

 ヒューゥ、と冷やかしの声が上がった。

「え……?」

 悠は声の主を見た。まさか……と思ったが、知らない顔だ。だが、そのいやらしく歪んだ口元や見下すような眼差しが何を意味しているのかは、直感的にわかった。彼を取り巻いていた数人の男子生徒が調子を合わせる。

「なになに?もしかして、あれ?LGナントカってやつ?」

「カマっぽい顔してんもんなあ、月原ちゃーん」

 心拍数が上がり、目眩がする。

(最悪……)

 彼らは周到に獲物を狙ってくる。

 最初の一撃は様子見だ。なんでもいいから絡む。そこで相手が言い返せないと判断したら、執拗に攻め立て、全てを奪いにくる。

(そうなったら、僕の学校生活は終わりだ……)

 悠はぞっとした。

 教室を見回すと、まだ顔も名前も知らない生徒たちが興味深げにこちらを見ていた。誰も彼らの暴言を止めたりしない。ただじっと様子を窺っている。強いのは誰で、近づいてはいけないのは誰か、注意深く見定めている。――自分が生き残るために。

「……っ!」

 その視線が痛くて、咄嗟にうつむいた。机の上に残った配布物をいそいそとカバンに詰める。

(だから嫌だったんだ……偏差値の低い高校は)

 こんな学校、入るつもりはなかったのに。冷たい汗が背中を伝い、後悔ばかりが押し寄せる。

「相手って金髪のヤツ?そいつも式、出てなかったよなぁ?」

「二人して入学式サボって、医務室で何してたん?」

「何って、ナニですかぁー!?」

「違う……何も……休んでただけで」

 必死で絞り出した言葉はしかし、声が小さすぎて誰の耳にも届いていないようだった。

「やっべえ!こいつ赤くなっちゃってんぜ!」

 最初の生徒が、がしっと悠の首に腕を回してきた。

「何?もしかして俺に惚れちゃったあ!?」

「ヤベー!ケータ、掘られんぞ!」

 ぎゃはははは!とけたたましい笑い声が起きる。

「いや、逆じゃね?でも俺、そっちの趣味とかないんだよなあ。ごめんねぇ?」

 甘ったるい声を出して、ケータと呼ばれた生徒が、悠の首に腕を巻き付けたまま腰をくねらせた。

「……っ」

 悠は嫌悪感に怖気おぞけがたった。やめろ、と心の中で叫ぶ。

 その時だ。

 ダァン!と大きな音が響いて、教室は水を打ったように静まり返った。そして教室にいた生徒たちが一斉に音のした方――教室の入り口を振り向いた。

「……え、何?」

「誰?」

 そこには、今朝の金髪――クルスが立っていた。

 さっきの音は、クルスが勢いよくドアを蹴り開けた音だった。悠がからかわれているのを傍観していた女子たちが、ひそひそと囁きを交わす。

「てか、金髪……って、まさか」

「なんかヤバくない?」

 クルスは明らかに機嫌が悪そうなオーラを撒き散らしている。

「うるせえんだよ」

 ぼそりと一言、クルスが言った。低すぎない、ハスキーな声。決して大声ではないのに、その場全体を威圧するような迫力を含んでいる。

「あ゛?」

 ケータが反応する。

 クルスはケータをひと睨みして、入り口をくぐるようにしてのっそりと教室に入ってきた。

「おい、てめえ、何勝手に人の教室入ってきてんだよ!?」

 息巻くケータを毛ほども意に介さない様子で、クルスはまっすぐにこちらに歩いてくると、ケータのすぐ前に詰め寄るように立った。

「うるせえっつったんだよ。ちょっと黙れ」

 そう言って、クルスは悠の首に巻き付いたケータの手をパシッと払い除けた。

「悠、帰んぞ」

「えっ」

 悠は、はたと我に返った。クルスの言葉の意味を理解しようとしている間に、クルスがくるりと踵を返した。悠は慌てて机の上のカバンを抱きかかえ、クルスの後を追って教室を出た。――出ようとした。

「……おいちょっと待てよぁ!」

 背中に襲いかかってきたケータの怒号に、悠はびくっと立ち止まった。

「黙って帰ってんじゃねぇよ!あ!?」

「……あー……うるっせぇ……」

 クルスは、いかにも面倒くさそうに振り向くと、悠の肩を押しのけて自分だけ教室に戻っていった。

「てめーなぁ、よそのクラスの奴が口出してんじゃねぇよ!!月原は俺と話してんだよ!!」

 怒鳴り散らすケータに、取り巻きの一人がこそこそと言った。

「おいケータ、ヤバいって」

 クルスはずかずかとケータに歩み寄る。

「ほんとお前、うるさいな?」

 クルスがケータの襟首を掴んだ。

「……んだよ。やんのか?あ?」

「くだらねぇんだよ。やってることが」

 クルスの声はあくまで静かなのに、異様な迫力がある。

「あ!?」

「うるせぇ黙れ。これ以上あいつに絡んだら、殺すぞ」

 それだけ言って、クルスはケータを離し、廊下に出た。

 悠より上背があるクルスはそれだけ足も速いらしく、悠は半ば小走りで追いかけた。校舎を出て、例のだらだらと長い下り坂でようやくクルスに追いつく。

「あの、……さっきはありがとう」

 思い切って話しかけた言葉は、語尾にかけて萎んでいった。あの場から救い出してくれたことへの感謝の気持ちに嘘はなかったが、入学早々クラスメイトにからかわれている自分の姿は、思い出すだけで死にたくなった。

「あ?ああ。気にすんな」

 クルスは、悠が追ってきていたことに今気づいた、とでもいうように振り向いた。そして思い出したように歩を緩めた。悠が今朝倒れたことを気にしているのかもしれない。

 クルスと並んで歩きながら、悠は何か話したほうがいいのかと逡巡し、だが何を話せばいいのかわからず、口を開けたり閉じたりしていた。

(だいたい、苦手なんだよ、こういう人種)

 悠にとっては、クルスもケータとやらも同じ部類の人間に見えた。制服を着崩して、暴力と大声で相手を支配しようとする。悠とは、根本的に相容れない人種。

「お前、家どこ?」

 気詰まりな沈黙を破ったのはクルスだった。

「あー……帷子川かたびらがわ

「はあ?遠っ!電車で三十分以上あんじゃん?」

「快速で三十分、鈍行だと四十分かな」

「なんでまた……そんなに魅力的なガッコだっけ?橘」

 悠は思わずハハッと笑った。

 相容れない、と思っていたのに、クルスは意外に話しやすかった。高くも低くもない、やわらかな声が、耳に心地いい。

「どうだろ。僕、公立に落ちてさ。私立はここしか受けなかったんだ。学校から奨学金が出るから」

「へえ」

 本当は近くの高校を受けなかった理由は他にもあったのだが、ほとんど初対面のクルスに話すのは気が引けた。正直、話したら嫌われるかもしれない、という恐怖もあった。

(こんな自分、僕だって嫌いだしな……)

 受験の話題を打ち切って、悠は話を戻した。

「……君は?どのへんなの?」

「俺んち?」

「あ、言いたくなきゃいいんだけど」

 悠は慌てて付け足した。

「別に。駅の向こう」

 その時、ちょうど駅に着いた。

「じゃあまたな」

 クルスが改札の向こうの陽だまりで手を振る。

「ああ、ありがとう」

 悠はもう一度礼を言って、手を振り返した。


「あいつ、クルスだよ」

 そう言ったのは、ケータ――斉藤慶太の取り巻きの一人、笠井公仁きみひとだ。

「マジ?クルスって、あの?」

「そう、城南中の来栖未来」

 下校時間はとっくに過ぎて、教室にはケータと笠井しか残っていない。

「え、あいつ、このガッコだったん?」

「俺も今知ったんだけど。城南にいる従兄弟に聞いた」

 笠井は携帯をいじりながら言った。

「いくらタチバナでも、さすがに入学式から金髪とかヤベーっしょ。どうしようケータ、さっきので目ぇつけられたら」

「何お前、ビビってんの?」

 ケータが不敵な笑みを浮かべた。

「気に入らねぇんだよなぁ、あーいう奴」

「マジ?いや、やめとけよケータ。クルスっていや、城南で一番有名だったんだよ?適うわけ……」

「そっちじゃねぇよ」

 笠井の言葉を遮って、ケータは意味ありげな視線を窓の外に向けた。

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