第2話 だって今私、泣きそうなんだもの。
もう一度誉めて欲しい。また話しかけてくれないかな。伸ばしたこの髪で彼の目を奪えたらいいのに。
綺麗に伸びてゆけ。風に靡いて。誰もが振り返るくらいに美しく。
これは全部、彼に振り向いて欲しい。自分を、自分だけを見てほしいということが根っこにあった気持ちだったのだ。きっとこれは恋心だ。
だけどこの心は。たとえ恋心だと気付いたとしても。捨てなければ。あの人にはもう彼女がいるのだ。私に入れる隙など小説の単行本の一ページ分の薄さもない。
(もう少し早くこの恋心に気づいていたのなら、何かが変わったのだろうか)
考えても分からなかった。なんせ、私は恋愛初心者だ。初恋だったのだ。あの人に対して自覚した恋心が、自分の中で初めて芽生えた恋心だったのだ。
(初めてだったんだもの。あんなに他の人を想って過ごしたのは)
毎晩風呂に入り髪のケアをする時、願掛けのように思っていた。美しく髪を伸ばせばまたあの人が綺麗だと声をかけてくれるのではないかと。
もちろん今日も同じように淡い期待を込めて手入れするつもりだった。明日も想うつもりだった。
(だから、この気持ちの正しい終わらせ方が分からない)
ずっと続くと思っていたのだから。根拠なんてない。ただ終わりを考えるのが怖かったのかもしれない。それでも終わるなんてことは考えていなかったから、勿論終わらせ方も考えてなかった。だから髪を切ることにしたのだ。それが正しいことかは分からない。
チャイムが鳴った。五時間目の終わりの合図だ。先生は教科書を読むことをやめ、生徒は各々帰る準備を始めた。三年生になってから全員共通で受ける授業は減り、選択科目を最低限しかとらないのであれば、午前中だけで終わる。それに合わせてホームルームも四時間目が終わった昼休みの初めに終わっているから、担任を待ってホームルームを受ける必要がない。教室からはどんどん人が減っていく。
「香澄。準備できた?」
髪を切ってくれる予定の親友、穂花が声をかけてきた。今日は穂花の家で切ってもらうことになっているから、一緒に帰る約束をしていたのだ。
「ええ。できたわよ」
私は穂花に今日の朝、ただ一言「髪を切って欲しい」とだけ伝えた。穂花は理由を聞かずにいいよ、と快諾してくれた。それから放課後まで移動教室や体育の着替えで忙しく、話すタイミングはなかった。帰り道も一度たりとも髪を切る理由は聞いてこなかった。
私たちの間で共有されているのは、穂花が私の髪の毛を切るということだけだった。
家に着くと穂花の部屋に通された。
「ジャケットちょうだい。荷物は椅子から離れた場所に置いて。髪の毛飛んじゃうかもしれないから」
そう言われてジャケットを渡して荷物を置くと、あれよあれよという間に椅子に座らされ、タオルやらなんやらを巻かれ、ちょっと待っててと放置されてしまった。
穂花は私を放置している間に、椅子の周りに新聞紙を敷き、机の中から道具を出し、着実に準備が整えられていった。
「この道具はね、お母さんに選んでもらったものだから安心して」
穂花の母親は美容師だ。その背中を見て育った穂花も美容師を目指していて、高校を卒業した後は美容師の専門学校への進学を希望している。
「でも本当に私でよかったの? 自分の髪の毛とか兄妹の髪の毛切ったりすることはあるけど、資格も持ってない素人だよ。ちゃんと美容室行った方がいいんじゃないの? 香澄通ってるとこあるでしょ」
「いいの。だって今私、泣きそうなんだもの。髪の毛切ってるときにいきなり泣き出されたら、美容師さんも困るでしょう?」
「あら、私の前だったらいいの?」
「だって受け止めてくれるでしょう。あなた、優しいんだもの」
「まあね。泣いてる人に寄り添うくらいならできるよ。じゃあ前を向いてね。始めるよ。本当に切っていいんだね」
「ええ。肩くらいまで、バッサリお願い」
私が前を向いて体勢を落ち着かせた後、一呼吸置いてジャキン、という音がした。それから髪が体を包んでいるシートをパラパラと滑り落ちる音も。
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