第3話 小鳥遊 刀也

 小鳥遊グループの御曹司、跡取り息子、優等生、将来の生徒会長候補。

 小鳥遊たかなし刀也とうやという人物を表す言葉は数あれど、そのどれもが彼の本質を示すものではなかった。

 地位、立場、期待。そんなものばかりに囲まれていながら、重圧に押しつぶされることもなく凛と立つその姿は、まだ高校一年生だとは思えないほどだというのに。そこに対する評価は手放しで称賛されてもおかしくはないはずだろうに、現実にはあまりにも少ない。むしろ気づいている人間の方が少ないのだろう。

 だが同時に、彼は理解していた。自分の立場やあり方が、不特定多数からの嫉妬の対象になり得るということを。そしてそれが自らだけでなく、愛する家族にも向けられているものだということも。


「刀也さん」


 槍矢そうやからは豪邸と呼ばれた自宅の廊下を歩いていると、後ろから柔らかな声で名前を呼ばれる。それに振り返れば、長く艶やかな黒髪を腰まで伸ばした女性が微笑みかけていて。


「姉さん。帰ってたんですね」

「えぇ。ちょうど今帰って来たところなの」


 並ぶと刀也よりも少しだけ背の低い彼女は、小鳥遊皐月さつき。刀也の四つ上の姉だった。

 刀也同様まだ学生の身である彼女は、平日のこの時間は大学に通っている。今日はたまたま講義数の関係で、刀也と同じ時間に帰宅となったようだ。


「お帰りなさい」

「ただいま。刀也さんも、お帰りなさい」

「はい。ただいま戻りました」


 学校ではお堅いだの真面目だのクールだの言われている刀也も、姉の前では柔らかい表情を見せる。現に今の彼は、とても優しく微笑んでいた。

 だが同時に、素早くその後ろに目を向ける。姉の後ろに何も見えないことを確認して、そっと小さく安堵あんどのため息をついた。


「もうすぐ夏休みね。高校生活にはもう慣れました?」

「そうですね。時折友人を家に招くくらいには、慣れたと思います」

「そうでしたね! 刀也さんがお友達を我が家にお招きするのは珍しいもの。そういうお友達ができて、私は嬉しいわ」


 おっとりとした口調で、けれど本当に嬉しそうに笑う姉。その姿を微笑ましく思いながらも、通り過ぎる窓の外に注意を向けることは怠らない。日がまだ出ている時間だからといって、油断はできないのだ。

 小鳥遊刀也は知っていた。自分も嫉妬の対象になり得るのだと。

 だが同時に、決して自分は『異形いぎょうのあやかし』に狙われることはないのだということもまた、知っていた。

 なぜならば自分の姉である皐月こそが、狙われる人物だから。そして彼女は特別に『憑かれやすい』側の人間だ。だからこそ、彼女の周りにいる人物で『異形』に狙われる者は存在しない。

 そしてまた不思議なことに、誰か一人『憑かれやすい』人物がいると、その血縁は『異形』に狙われなくなる。そのおかげで、小鳥遊家の他の家族たちは問題なく日々を過ごせているのだが。逆を言えば、皐月だけが被害を被っている状況なのだ。


「姉さんも、時折友人を我が家に招いていますよね」

「えぇ。皆さんとても良くしてくれるのよ」


 そう言って微笑む姿は、身内から見ても美しく女神のようだというのに。だからこそ彼女は『ねたみの異形』に特に『憑かれ』やすい、つまり狙われやすい性質だったのだ。

 しかも質の悪いことに彼女には何一つ非がないからこそ、より多くの『異形』が寄ってきてしまい『憑かれ』てしまう。

 小鳥遊グループの令嬢だから。誰からも好かれる人物だから。優しく笑顔の絶えない女性だから。美しい見た目だから。


(だからこそ、油断はできないんです)


 初めて能力に目覚めたのも、皐月が『異形』に大量に『憑かれ』ていた時だった。しかも本人には見えないらしく、指摘しても何のことか分からないようだった。

 最初はあまりの異様さに、訳も分からず切り捨てていたが。ほどなくして『麒麟きりんひづめ』のメンバーと出会い、その詳細を知ることとなってからは常に、姉の周りに『異形』が近寄ってきていないかを確認するようになっていた。

 唯一の救いは、どの『異形』も夕方から日が出るまでの間にしか活動しないということだろうか。

 昼間にまで活動されては、お互い家を出ている状態なので確認ができなかった。だが夕方からの活動となれば、基本的に二人とも家にいる時間帯になる。だからこそ常に警戒していられるのだ。


「お兄様! お姉様!」


 刀也が皐月と和やかに会話を交わしつつも日暮れ前のこの時間だからと警戒していると、丁字になっている廊下からひょっこりと姿を現したのは、二人と同じ黒髪をツインテールにしている可愛らしい少女。

 彼女の名前は小鳥遊陽芽歌ひめか。小鳥遊三兄弟姉妹の、一番下の妹だ。

 溌剌はつらつとした性格とハッキリとした顔立ちは、ツリ目気味なのも相まって普段は少しきつめに見えてしまうのだが。今は嬉しそうに上がった口角と少し緩んだ目元のおかげで、可愛らしさの方が勝っていた。


「陽芽歌も帰っていたのか」

「はい! お二人は今お帰りですか?」

「えぇ。ちょうど刀也さんを見かけたから、一緒に食堂に向かおうと思って」

「そうなんですね! それなら私もご一緒していいですか?」

「私は構わないわ」

「僕も」

「わーい! ありがとうございます!」


 無邪気に喜ぶその姿は、二人からすればまだまだ子供そのもの。それもそのはずだろう。何せ陽芽歌は、まだ中学生になったばかりなのだから。

 先ほどまで警戒していた刀也の心が、可愛い妹のその笑顔に少しだけ余裕を取り戻す。小鳥遊家の末の妹は家族だけでなく、まさに誰からも可愛がられる存在だった。それは彼女自身の人懐っこい性格も相まっているのだが。

 その証拠に。


「そうそう! さっき厨房に挨拶に行ったら、今日は私の好物を出してくれるって料理長が教えてくれたんですよ!」

「それはよかったな」

「はい!」


 使用人に対しても分け隔てなく接する小鳥遊家の中でも、陽芽歌は特にその傾向が強い。家に帰れば使用人を含め、必ず全員にただいまを言ってまわるほどだ。見た目と相まってその性格はとても好意的に受け取られており、結果ついつい大勢の人間が甘やかしてしまう。

 だが決して、彼女はその状況に胡坐あぐらをかくような人間でもなかった。だからこそ、小鳥遊家の誰もがこの状態を微笑ましく見守っているのだ。特に一番上の皐月など、弟妹たちの会話のあまりの可愛さに終始笑顔が絶えないのだから。

 ちなみに陽芽歌に対してだけ、刀也は名前を呼び捨てにし敬語で話すこともないのだが。実はそのことを密かに喜んでいる妹がいるのだということには、彼はまだ気付いていない。


「そういえば、お兄様。今日はどちらの道場にも寄らなかったんですか?」

居合いあいの師範は、今日は法事だということで前々から休みだと決まっていたんだ。弓道の方も建物のメンテナンスが入るらしく、今日明日は全員自主練習もなし、だ」

「じゃあじゃあ! 夕食後に少しだけお時間もらってもいいですか? 宿題を、見ていただきたいんです……」


 最初は勢いが良かったのに、言葉の後ろになるにつれて少しずつ申し訳なさそうになっていく陽芽歌の様子に、刀也は小さく苦笑する。上目遣いで目をウルウルと潤ませながらだと、普段少しだけツリ目がちで勝気に見えてしまう表情が、一気に雰囲気を変えてしまうのだから不思議だ。


「そんなことならいつだって。可愛い妹のためだからな」

「わーい! お兄様大好きー!」


 それが陽芽歌の甘えている姿だと知ってはいるが、だからと言って要求している内容に問題があるわけではない。それならば断る必要などないだろうと、こころよく頷いた刀也だったのだが。

 まさかその一連の様子を、姉の皐月が常に微笑ましそうに見ていたなど。陽芽歌はもちろんのこと、刀也も気付いていなかった。当然彼女が、私の弟妹たちがとても可愛いわ、などと考えていることにすら。


 一見とても平和で、問題がなさそうな小鳥遊家。だが実際には刀也が常に目を光らせ、この温かで幸せな家を守り続けているのだ。

 彼が戦う理由はただ一つ。大切でかけがえのない、愛する家族を守るために。


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