それは暑くも温かい夏の夜
「昭、どうしたの!?」
「うるさい!!」
沙月にハッキリと拒絶された昭は真っ直ぐに家に走って帰った。
玄関を開けて靴を脱ぎ捨てた昭を母親はどうしたのかと声を掛けたが、昭は一切耳を貸すことなく部屋に駆け込んだ。
そのままベッドに顔を埋めて悔し涙を流す。
「くそ……くそっ!!」
それは行き場のない怒りの矛先を求める昭の涙だった。
ずっと昔から……それこそ、もっと幼い時から昭はずっと実の姉である沙月のことを想っていた。
血の繋がりがあるからこそ諦めていたが、それでも沙月が他の男のモノになることがどうしても納得できなかった。
「姉ちゃん……姉ちゃん!!」
だがあそこまで言われてしまえば嫌でも理解してしまう――もう自分の気持ちは沙月には絶対に届かないのだと。
どうしてこうなった、どうしてこんなことになった……頭に思い浮かぶのは憎き龍一の顔だった。
「あいつだ……あいつのせいだ!!」
そうだ、全部龍一のせいだと昭は思った。
優しかった沙月は龍一と知り合ったせいで変わってしまい、それはまるで親友である宗平と親しかった静奈が変わってしまったことと同じに見えた。
「全部あいつが悪いんだ……全部あいつが!」
今日沙月と龍一を見たのは本当に偶然だった。
宗平は居なかったが友達とファミレスにご飯を食べに行った帰りのこと、寿司屋から出てきた沙月にまず目が向き……そして龍一を見た。
最近になって変わって来たのかクラスでも人気者なっている龍一だが、昭からすれば自分から大切な姉を奪った存在にしか思えない。
『美味かったな』
『はい。龍一君が傍に居るから尚更美味しかったです♪』
親しそうに店から出てきた二人に唖然としたが、当然すぐに怒りが沸いた。
二人が一緒に居るのが我慢出来なくて噛みついたが結果はあの通りだ。
「……姉ちゃん……なんでだよ」
なんであんな最低な奴と一緒に居るんだと昭は意味が分からなかった。
静奈が一緒に居ることもそうだし、宗平も最近では龍一と仲良さげに話をしていることすら理解できない。
たった少し人が変わっただけであんなにもみんなに慕われていることも全然理解が出来なかった。
「姉ちゃんは俺のモノなんだ……俺だけのモノなんだ!!」
沙月は自分のモノだと、絶対に渡さないと昭は考えている。
だがそう考えると決まって思い出すのが龍一の言葉でもあった。
『沙月はモノじゃねえよ』
その言葉は昭の心を切り裂くようだった。
お前に何が分かる、お前に俺の何が分かるのだと文句も言いたくなる……それでも何も言えないが昭だった。
「……………」
どこまでも気が弱く、どこまでも優しい沙月のことを昭は支配したかった。
可愛らしい顔も、大きな胸も、形の良い尻も、その心さえも全てを昭はこの手で支配したかった。
この考えがおぞましいものであることに気付いていても、最終的に沙月は絶対に拒むことはしないと昭は思っていた。
それでも、彼女は昭を拒絶した。
「……許さねえ……絶対に許さねえ!!」
自分と沙月の仲を引き裂くなら誰だって許さない、どんな方法を使ってでも龍一に一泡吹かせてやると考えたが結局昭はどこまで行っても臆病だった。
一時の感情に身を任せて沙月を襲ったまでは良いが、あんな風に拒絶されるともう何をしてもダメなのだと心が諦めていた。
「……くそ……くそぉ!」
良い意味でも悪い意味でも沙月が言ったことは的中していた。
昭はもう過激なことをするほどの度胸は持てず、ただただ悔しさに涙を流すことしか出来なかった。
これは一つの諦め……彼にとっては認めたくない悲しい現実だが、姉に抱いた幻想との決別とも言える瞬間だった。
「そう……ううん、何でもない。うん、おやすみ母さん」
そんな風に昭が悔しさと共に諦めの中に居た頃、沙月も弟のことがやっぱり気になるのか母に電話をしていた。
別に気になると言っても優しい言葉を掛けたり、或いは接しようとは考えていないが確認くらいはと思ったのである。
「大丈夫だったか?」
「はい。たぶん大丈夫だと思います」
彼は決して大それたことをするような度胸はないと沙月は言ったが、流石は姉とも言うべきか沙月の勘は当たっていた。
スマホを置いた彼女は傍に居た龍一の大きな胸に飛び込む。
弟のことは忘れ、今はただ龍一の胸の中で安心していたかった。
「……静奈ちゃんが羨ましいです。いつもこうやって龍一君と居れるんですから」
「まあ静奈は……」
彼女だしなと龍一は呟いた。
だがいくら静奈の許しがあるとはいえ、こうしていると本当に自分はどうしようもないなと苦笑してしまう。
それからしばらく沙月が満足するまで抱きしめ続けてから離れ、アパートに帰るために沙月の部屋を後にした。
「夜だってのに夏は暑いなやっぱ」
辺りは暗いのに生暖かい風が吹き抜けていく。
こんな日はきっと夜中もかなり温かそうだし、寝ている間の熱中症なんかにも気を付けないといけない季節だ。
まあ幸いにも龍一の住むアパートは風通しが良いので、少し窓を開けて網戸にすれば程よく涼しい風が入り込む。
「それにしても白鷺のやつ……あれで落ち着くと良いんだがな」
沙月の言葉があるとはいえ、少し不安に思うのも当然だ。
彼もまた宗平とベクトルは違うにせよ、しっかりと姉の幻影から目を逸らし前に進めることを祈ることしか出来ない。
そうしてくれれば面倒なことにはならないし、何より沙月も安心出来るだろう。
「さてと、俺も帰るか」
沙月の住むマンションから出て龍一は帰路に着いた。
しかしその途中でまさかの人物と出くわした。
「……マスター?」
「あん? 龍一か」
龍一以上の筋肉を見せつける男、その名もマスターだった。
彼が座っているのはおでんの屋台であり、偶然その近くに立ち寄って暖簾の間から顔が見えたのだ。
今日はクラブが休みなのでマスターが出掛けているのは別におかしな話ではないのだが、どうやら今日は更に奥さんと娘さんも一緒らしい。
「どうも」
「こんばんは」
「こんばんはお兄ちゃん!」
実を言うと二人と会うのは初めてではなく、マスターを通じて会ったことは何度かあったのだ。
これから帰るので背を向けようとしたが、マスターが少し付き合えと言ってきたので龍一は仕方なく隣に座った。
「夕飯の後か?」
「寿司を食った後だぜ」
「そうか。じゃあ少しおでんを食ってけ」
じゃあってどういうことなんだよと龍一は笑い、せっかくなので付き合うことにするのだった。
マスターの隣に座った龍一のことを娘がジッと見つめており、その表情からしてほしいことを察した龍一は彼女を持ち上げて膝に乗せた。
「えへへ~♪」
「あらあら、ごめんなさいね」
「いえ、これくらい余裕っす」
小さい子に恐れられる男ではあるが、この子に関しては龍一に前からそれなりに懐いていた。
マスターも満更ではなさそうにしながら酒を飲んでいる。
「何を食おうかねぇ」
「何でもいいぞ。俺のおごりだ」
そういうことならと龍一は定番とも言えるこんにゃくや豆腐、ちくわを皿に乗せて息で冷ましながらゆっくりと口に運んだ。
「美味いなぁ」
「だろ? ここは結構穴場でな。きったねえ佇まいだが味は保証できる」
「汚いは余計だぞ」
「はっはっはっは」
確かに美味しいなと龍一は頷いた。
こういった屋台は主に会社帰りの大人が利用するような場所だが、これほど美味しいのなら静奈を連れて二人でお邪魔するのも悪くはないかと思える。
マスターを含め、奥さんや娘さんと話をする時間は温かった。
「ふふっ、まるで息子が一人増えたみたいね」
そんな奥さんの言葉に、こんな不出来な息子は止めておいた方が良いと龍一は苦笑しながら口にした。
とある夏の夜は龍一にとって心を温かくしてくれる夜へと変化した。
マスターに関してはいつも龍一を気に掛けて助けてくれる存在でもあるので、もしも結婚式などを開くときはマスターのような人に付き添ってもらうのも面白いかもなと人知れず龍一は考えるのだった。
「なあ店主、オレンジジュースはあるか?」
「あると思ってるのか?」
「ねえよな流石に」
龍一と店主は笑い合ったが、まさかのマスターの一言が炸裂した。
「あるよ」
「え!?」
「なんでそっち!?」
このマスター、本当に何者なんだと龍一と店主は思うのだった。
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