離れたくないお姫様

 龍一が静奈に新しい関係の提案をした翌日の朝だ。

 最初に目を覚ましたのは静奈で、目を開けた彼女が最初に見たのは分厚い筋肉質な胸板だった。


「……っ~~~♪♪」


 目覚めたばかりだというのに昨夜のことを思い出して頬を緩む。

 どれだけ我慢しようとしても緩々になってしまい、とてもではないが誰かに見られたら心配されてしまいそうなほどに表情が崩れている。


「すぅ……すぅ……」


 そんな静奈の様子を知ってか知らずか、龍一は気持ち良さそうにまだ夢の中だ。

 こうして近くで見上げても気の弱い人なら決して近づきそうにない顔立ち、けれども実際は他者を思い遣ることが出来る優しい人だと静奈は知っている。


「龍一君……好き♪」


 好き、何度口にしても飽きることのない魔法のような言葉だ。

 静奈にとって初めての恋、初めて好きになった龍一の日々……それは最高の形で静奈の人生を彩るように開花した。


「……?」


 ジッと見つめていたからか、はたまた静奈の強すぎる想いが龍一に伝わったのかは分からない。

 目を開けた彼はまだまだ眠そうな様子で静奈を抱き寄せる。

 お互いに服を着ておらず肌と肌が触れ合いながらも、温かく柔らかい毛布にも包まれ想像以上に気持ちが良い。


「もう、龍一君ったら♪」


 抱き枕のように抱きしめてくる彼が愛おしくてたまらない。

 もっと強く抱きしめてほしい、もっと強く離さないくらいに、そう願いながら静奈は彼が完全に目を覚ますまでされるがままだった。

 結局その後すぐに龍一は目を覚まし、静奈は服を着て朝食を作り始めた。


「……なんつうか」

「どうしたの?」


 台所に立つ静奈に龍一が頬を掻きながらこう言ってきた。


「やっぱり良いもんだな。自分の彼女がこうやって台所に立って料理を作ってくれるってのはさ」

「……彼女かぁ♪」


 改めて龍一にそう言われるとまた頬が緩んできてしまう。

 卵焼きを焼きながらなので緩む頬を抑えられず、恥ずかしい表情はバッチリと龍一に見られていた。


「今凄い顔になってんぞ?」

「し、仕方ないでしょ! 嬉しすぎて幸せなんだから!!」


 きっと龍一も同じ気持ちだし静奈の内心も察しているはずだ。

 だからこそ変に揶揄ったりはせず、彼もまた静奈のように笑みを浮かべて床に腰を下ろした。

 それから出来上がった朝食を食べ終え、その日は特に何もすることなく二人はイチャイチャといつも以上に引っ付いて過ごした。


「……帰りたくないわね」

「明日は月曜日で学校だからな」

「分かってるわ。分かってるけど……帰りたくないの」


 我儘を言っていることは重々承知だった。

 それでも今日はいつも以上に龍一と離れたくなかったのだ。


「……龍一君が悪いわ」

「え?」


 静奈の言葉に龍一はポカンとした表情を浮かべた。

 その表情が可愛いなと思いながらも静奈は頬を膨らませて文句を口にするように彼に伝えた。


「今日の龍一君優しすぎるのよ!!」

「お、おう……」


 静奈の言葉は止まらない。

 龍一の抱擁から抜け出し立ち上がった静奈はビシッと指を差した。


「頭を撫でてくるのも、抱きしめるのも、言葉を掛けてくれるのも全部いつもより優しいのよ! だから帰りたくないって思うの! ずっと龍一君から離れたくないって思っちゃうのよ!!」

「取り合えず落ち着け静奈」

「落ち着けない!」


 龍一からすれば理不尽な静奈の怒りだが言わずにはいられなかった。

 今日の龍一は静奈が言ったように本当に優しいのだ。

 改めて彼氏彼女の関係になったとはいえ、こんなにも変わるのかと言わんばかりに龍一はとにかく静奈に優しかった。


「くくっ、まるで今までと反対じゃねえか? ほら、来いよ静奈」


 愛おしい相手が腕を広げて静奈を誘う。

 残念ながら静奈はその誘惑を振り切ることは出来ず、彼に呼ばれるがままに再びその胸元に飛び込むのだった。


(……私、溶かされそうだわ)


 言いたかった文句は既にどこかに飛んで行ってしまった。

 静奈はそれから家を出るまで、ずっと龍一の抱きしめられることを望んだ。




 さて、反対に龍一も静奈を離したくない気持ちがあった。

 とはいえ静奈ほどではないので明日のことを考えれば彼女を帰すのは当たり前だ。


「……うぅ!」

「やれやれ、こんなに甘えたがりだったか?」


 龍一も今日は静奈に対してかなりダダ甘だった自覚はあった。

 それがまさかこんな風に彼女を変えてしまうとは思っておらず、家が見えてきても全く腕から離れようとしない静奈には苦笑するしかなかった。


「またすぐに明日会えるだろ。だから少しだけさよならするだけだ」

「……分かってるわ。分かってるの」


 それから時間にして数分、静奈は黙り込んでしまった。

 だがそうやって黙り込みながらも龍一から離れなかったのは充電だったらしく、よしっと声を出した彼女は勢いよく離れた。


「もう大丈夫」

「本当か?」

「えぇ」


 どうやら本当に大丈夫のようだ。

 あらかじめ咲枝には静奈が先に伝えておくとのことで、龍一からはまた改めて話をすることを約束した。

 静奈と別れた龍一はいつもよりもフワフワした気持ちで帰り道を歩く。


「……不思議な気分だな」


 今まで多くの女性と関係を持ったようなものだが、そのどんな出会いよりも静奈との時間は色付いていた。

 これが特別ということなのか、そう思った龍一はこの感情をどこまでも大切にしようと心に決めた。


「俺はあいつらとは違う」


 自分を愛してくれなかった父と母、夫婦なのにお互いを邪魔に思っていたあの二人とは違うのだと龍一は笑みを浮かべた。

 その時、ポケットに入れていたスマホが震え着信を知らせた。

 手に取って画面を見ると、どうやら千沙から電話が掛かったみたいだ。


「もしもし」

『もしもし? どうなったの?』


 別に静奈との関係を進めるとは伝えていないのだが、どうも千沙は気になっているらしく電話をしてきたらしい。

 龍一は素直に何があったのか、そして静奈との関係が進んだことを伝えた。


『そうなのね。おめでとう龍一』

「サンキュ」


 もちろん、静奈が言っていたことも伝えた。

 静奈と新しい関係になったが千沙や沙月との関係は何も変わらず、今まで通りに過ごしていくことを。


『それは……あの子、器がデカすぎない?』

「俺も思ったよ。でも少しだけ安心した俺が居る」

『え?』

「俺に温もりを与えてくれたのは千紗も沙月も同じだからな」


 無責任だとは思うがそれでも手放したくない存在だ。

 今までよりは二人と会ったりする時間は減るかもしれないが、龍一に心休まる時間を与えてくれた二人のことも大切にしたいと考えている。


『……アンタもアンタよ。あたしたちのことなんて気にしなければいいのに……いいえ違うわね。アンタにそう言われてとてつもなく嬉しく思うあたしが居る』

「そうか。ま、これから先も何も変わらねえってことだ」

『そうね。また静奈ちゃんに会ったら色々とお話したいわ』


 これは会ったら会話が長いことになりそうだと龍一は笑った。

 また近いうちにみんなで会おうと約束し、龍一は千紗との通話を終えた。


「……はぁ」


 多くの星が輝く夜空を見上げて息を吐く。

 特に今までと何も変わりはしないだろうが、それでも今回の出来事は龍一の中で大きな一歩を踏み出すには十分すぎた。

 龍一にとって大切だと思えるそれを決して手放さないように、手繰り寄せた宝物を失くしてしまわないようにと決意するのだった。


「ま、色々と問題はあるんだがな」


 実を言えばまだまだ龍一の周りには問題が山積みだ。

 祖父母のこともそうだし、相変わらず沙月に異常な気持ちを向け続ける昭のこともある。

 そういった一切のことを考えることなくゆっくりしたいものだ。

 これから先、特に何事もあってくれるなよと龍一は祈るのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る