家に来てほしい

 昼休みを終えてから静奈はずっとドキドキしっぱなしだった。


『抱けるに決まってんだろ。これで満足か?』


 龍一から言われたその言葉が頭の中で木霊している。授業に集中しないといけないのに、少し気を抜けばその言葉がずっと響き続けるのだ。頬を赤くし、切なそうな吐息を零す静奈を隣に座る友人は気になっているらしく声を掛けてきた。


「……静奈、大丈夫?」

「……え? あ、ごめんなさい」


 友人の声にハッとするように静奈は我に返った。どうやら周りに心配されるほどにボーっとしていたらしいことを今になって実感した。静奈は大丈夫だからと笑顔で告げ、黒板の文字をノートに写す作業に戻る。


 ……しかし、また静奈の脳内で龍一の声が響いた。

 そして静奈が気付いた時、彼女のノートは黒板の文字を写していない。


“龍一君龍一君龍一君龍一君龍一君龍一君龍一君龍一君龍一君龍一君龍一君龍一君龍一君龍一君龍一君龍一君龍一君龍一君龍一君龍一君”


「……私ったら何を」


 ノートには龍一の名前が埋め尽くされていた。

 一体何をやっているんだと静奈が頭を抱えそうになったところで、授業の終わりを知らせるチャイムの音が鳴った。


「……ふぅ」


 まああんなことを昼休みに言われてしまったのだから仕方ないのだ。

 昨夜、バーから帰って来た咲枝と龍一についての話をした。咲枝は静奈に深い部分を一切伝えるつもりはなかったらしいが、龍一から聞いたのなら話は別として静奈に話してくれたのだ。


 その時の表情は綺麗な笑顔で、久しぶりにあんな輝くような笑顔を見たと静奈が思ったほど咲枝は幸せそうだった。自分にとって大切な母のそのような顔を見れるのは凄く嬉しいことだが、同時に静奈の胸に宿ったのは嫉妬の心だった。


「……はぁ」


 思い出すだけでも胸がチクチクしたのを覚えている。

 自分だって龍一とそういうことをしたい、女としての喜びを龍一に刻んでもらいたい、そんないやらしいことを考えてしまったのだ。当然その後にベッドの上で静奈は悶えたわけだが……そこで彼女は一つの答えを導いた。


『……私、龍一君のことが好きなのかしら』


 そう呟いた時、ドクンと再び心臓が大きく脈打ったのだ。

 そして、そんなドキドキが鳴り止まないうちに今日を迎え、学校で彼と出会った時にそのドキドキは最高潮に達したのだ。


「ふふっ♪」


 それを思い出して静奈は微笑んだ。

 決して嫌な気持ちではなく、むしろ心が温かくなる感覚がクセになりそうだった。ずっと浸っていたい、そんなことを想ってしまうほどに。


「ねえ静奈、さっきからニヤニヤしてるけど本当に大丈夫なの?」

「……だ、大丈夫よ」


 おっといけない、そう思った静奈は頑張って口元を引き締めた。

 次の授業が始まるまでの間、友人との会話を楽しんでいた静奈は自然と龍一の方へと視線を向けた。彼も友人と楽しそうに……いや、少し面倒そうに対応しているが仲の良さは相変わらずのようだ。


「……恋……か」


 恋、正直なことを言えば静奈にそんな経験はない。一番仲の良い異性は間違いなく幼馴染の宗平と言えるだろう。昔から彼は静奈の傍に居たし、頼りない部分は確かにあるがそんな彼をなんて考えることもあった。


「……?」


 そこで静奈は視線を感じてそちらに目を向けた。そこには宗平が居るのだが、彼は静奈をジッと見つめていた。目が合ったことで嬉しそうに笑っているが、静奈は特に何も反応することなく彼から視線を外した。


「……ちょっとお手洗いに行ってくるわね」

「うん。いってらっしゃい」


 静奈はとにかく少しだけ落ち着きたかった。

 トイレに向かい、個室に入ったところでふぅっと息を吐いた。他の利用する生徒たちの声が騒がしい。しかし気分を落ち着けるには十分だった。トイレを済ませ廊下に出ると、ちょうど龍一と真もトイレの帰りのようで前を歩いていた。


「……ちょっと悪戯しようかしら♪」


 ゆっくり、気付かれないように彼の背後に立った。

 そのまま肩を突いてやろうと思った矢先、まさかの龍一が振り向いたのだ。ただ龍一も静奈が居るから振り向いたわけではないらしく、普通に背後に居た静奈の存在にびっくりしていた。


「お前……闇討ちか?」

「ち、違うわ! ちょっと驚かせようと思ったのよ……」

「珍しいな。お前もそういうことするんだな」


 確かにこのような子供っぽいことをしばらく静奈はやっていない。というより高校生になってからは一切してなかった。龍一を見つけて不意に芽生えた悪戯心に従っただけに過ぎないのだから。

 どうしてこんなことをしたのだろう、それを考えていた時に静奈は額に小さな衝撃を受けた。龍一に軽くデコピンをされたのだ。


「悪戯をしようとした罰な?」

「……あ」


 昼休みに見せた獰猛そうな眼差しとは違い、どこか優しさを孕んだその瞳に静奈は幼き頃に亡くなった父の面影を見た気がした。静奈にとって明確に頼りになる男性は父親だけだった。静奈を愛し、咲枝を愛し、家庭を守る大黒柱だった父は交通事故で亡くなった。

 咲枝はもちろん、静奈にとっても父親の死はとてつもなく大きかった。


「……………」


 それ以来、子供らしく誰かに甘えたことはない。咲枝に対してもあまり困らせないようにと逆に気を遣ってしまうほどだ。だがここに至り、静奈は少しだけ……甘えたいと思った。頼りになる龍一に、あの大きな背中に抱き着きたい、その大きな腕で抱きしめてほしいと願ったのだ。


「……なあ真」

「なんだ?」

「今日のアレ、やっぱりパスな」

「ふ~ん? 了解。気が向いたら言えよ。お前を待ってる子も多いからな」

「あぁ」


 ヒラヒラと手を振って真は歩いて行った。

 静奈は今の会話の内容に心当たりはないが、龍一のことを知った上で今の会話が何を意味したのかはある程度理解できた。


「……今のって」

「あぁ。俺や真がよく行っていたパーティのことだ。今朝誘われたんだけどやっぱり行かなくていいかなってな」

「そう……なんだ」


 僅かに感じた胸のモヤモヤは消え去った。

 本当に龍一と知り合ってから静奈は多くの感情に悩まされている。もう少しで答えが出そうなのに、それを認めてしまうと自分自身が変わってしまいそうで怖い。今よりももっと、龍一のことしか考えられなくなりそうなのだ。


「それで、何を考えていたんだ? 浮かない顔してただろ」

「……分かるの?」

「何となく?」

「……ふふ、何よそれ」


 亡き父親のことを考えてセンチな気分になっていたのは本当だ。既に乗り越えた過去のはずなのに、時々こうやって寂しくなるのは咲枝と同じだった。そんな静奈に何かを感じたからこそ、龍一も確証はなかったが静奈に問いかけたんだろう。


「……ねえ龍一君」

「あん?」

「今日……私の家に来ない?」

「何言ってんだ?」


 ポカンとしながらも龍一はそう口にした。

 静奈自身、どうしてこんなことを口にしたのか分からない。ただ、少しでも一緒に居たいと思っただけだ。お話がしたい、少しでも接したい、少しでも……龍一と時間を共有したいと思ったのだ。


「ご飯!」

「ご飯?」

「作ってあげる! ハンバーグとか、色々!」

「……っ」


 ごくりと、龍一が唾を呑んだ音が聞こえた。

 以前に静奈が作った肉じゃがをそれはもう美味しそうに龍一は完食した。あの時に静奈は確かな手応えを感じていた。龍一があの時見せてくれた笑顔、それがまた見たいとも思ったし単純に作った料理を食べてほしい気持ちもあった。


「お母さんともやっぱり積もる話もあるじゃない? 私は気にしないわ! むしろ隣で聞いているから!」

「いややめろよ……」


 たぶんだが、静奈自身どうにかして龍一を家に招きたくて何を言っているのか分からない状態だ。必死な様子の静奈に龍一はため息を吐き……そして頷いた。


 ぱあっと、大輪の花が咲いたような笑みを静奈は浮かべるのだった。

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