小さな亀裂
「ただいま」
龍一に近くまで送ってもらい、静奈は無事に家に着いた。
玄関が閉まる前に一度振り返ったが、当然彼の姿はここにはない。そもそも家が見えた段階で別れたので彼ももう背を向けて帰りを歩いているはずだ。
「……獅子堂君」
その名を呟くと、何とも言えない温かさが心を包む。
つい先日、質の悪いナンパから助けてもらうことがなければこんな気持ちを抱くこともなかっただろう。元々龍一のことは当然クラスメイトというのもあり、彼にも直接言ったが悪い噂はそれなりに聞いて知っていた。
真面目な静奈だからこそ、絶対に関わることがないだろう男子生徒という認識しかなかったのだ。しかし、実際に話をした龍一は噂とは全く違っていた。本人は否定していなかったので間違いはないのだろうが、それでも龍一は間違いなく信頼できるクラスメイトとして静奈は認識した。
「……今日、楽しかったわね」
先ほどまでのことを思い出しクスッと笑みが零れる。
自分としてもどうしてあそこまでしたのか分からないが、一つ言えることは単に放っておけなかったのだ。家に帰って一人きり、カップラーメンを一人で食べる姿を想像して手を差し伸べずには居られなかった。
「……何なのかしらね。この気持ちって」
本人は全く気にしていない様子だったし、決して哀れみを感じたわけでもない。ただ、龍一の為に何かしたかった。あの時助けてくれたお礼の意味もあったが……ぶっきらぼうながらも優しい彼の傍に居たかった。
「大きい腕だったわ。とても力強くて……♪」
龍一の筋肉質な腕に抱かれた時、静奈は今までに感じたことがないほどのドキドキを味わった。あくまで冗談であることを静奈も分かっていたからこそ、龍一に抱かれたことで逆に安心感を得たほどなのだ。
静奈は両手を頬に当てた。
信じられないほどに熱くなっており、心臓の音も聞こえるほどに大きく脈打っている。あの太い腕に抱かれた感覚を忘れることが出来ず、お前をもらおうかと耳元で囁かれたことも鮮明に脳裏に刻まれていた。
「……何よこれ……何なの?」
心のドキドキが収まらず、今までにない感情に静奈は困惑した。そして同時に静奈は気づいたのだ――あの時もその前も、龍一に腕を引っ張られた時に静奈は一切抵抗しなかった理由……彼になら何をされても構わない、少しでもそう思っていたことに気付いてしまったのである。
まだ、彼女は気づけていない。
自分の奥深くに眠っているソレに、まだまだ彼女が気付くのは先になりそうだ。
「何してるの?」
「っ!?」
一人で想像していたのかいけなかったのか母の接近に静奈は気づけなかった。呆れたように目を向けてくる母の姿に恥ずかしくなり、すぐに靴を脱いで家に上がった。
「ごめんなさい母さん、いきなり用事を入れてしまって」
「大丈夫よ。確かにいきなりでビックリしたけれど、あんなに必死なあなたの声を聞いたことはなかったから。ふふ、相手は誰なのかしらね?」
「っ……友人よ」
「ま、そういうことにしておきましょう」
全部分かっていると言わんばかりの母の姿に静奈は顔を真っ赤にした。
静奈の母――
職場でも色々と声を掛けられるらしいが、咲枝には一切興味がないのかその全てを断っているとも静奈は聞いていた。
(……父さんが亡くなって随分経つし、母さんも新しい人生を歩んでも良いと思うんだけど)
静奈の父であり、咲枝の夫は既に他界している。
再婚に関しては少し複雑な気がしないでもないが、ある程度は割り切るつもりでいるのも確かである。まあ、咲枝にはその兆候は全然見られないので静奈の考えすぎではあるのだが。
「じゃあ母さん、私お風呂に行くから」
「えぇ。お湯はそのままでいいからね」
「分かったわ」
咲枝に声を掛け、静奈は浴室に向かった。
母と父からもらった大切な体、いつだって綺麗で在れるようにと美容には気を遣っている。肌も髪の毛も、他の色んなパーツの手入れも決して手は抜かない。そうして風呂を済ませ、愛らしいピンクのもこもこしたパジャマに身を包んだ静奈はベッドに横になった。
「……はぁ」
今龍一は何をしているだろうか、それをずっと考えている。
「……またって言われちゃったな……えへへ♪」
またな、そう言った龍一の恥ずかしそうな顔は本当に可愛かった。自分よりも圧倒的に体格は良いのに、素直になれない子供のような見栄を感じたのだ。不良だとか悪童だとか言われていても、龍一のことを知れば知るほど静奈は彼のことが気になっていった。
「獅子堂君……」
あの太い腕に抱かれたことを想像するとまた体が熱を持ってくる。静奈の意志とは関係なく、手の平が大きく実った女性の象徴に触れた。ビクッと震えた体、僅かに固くなったそれを感じたところで静奈はハッとするように我に返った。
「わ、私は何を……っ」
困惑したが……当然嫌ではなかった。
考えが纏まらない頭だったが、やはり体は正直で再び手が胸に伸びる……そこで静奈のスマホが震えた。
「……宗平君?」
小さい頃からの知り合いである幼馴染からの電話だった。
おかしくなる前に電話をくれて良かったという安心と、どこかタイミングが悪いなと思ってしまった感情に挟まれながら静奈は電話に出た。
「もしもし?」
『もしもし、こんばんは静奈』
「こんばんは宗平君、どうしたの?」
こうして彼と電話をすることは珍しいことではない、幼馴染なのだから面と向かって話をすることも多いし電話もメールも頻度はそれなりだ。
(……そう言えば獅子堂君の連絡先知らないな……教えてもらえないかな?)
せっかく幼馴染が電話をしてくれたというのに、すぐに脳内は龍一のことで埋め尽くされてしまった。だからこそ、ボーっとしてしまって電話から聞こえてくる声を聞き取れなかった。
『静奈? 静奈~?』
「……あ、ごめんなさい。それで、何だったかしら」
『ボーっとしてたのか? 珍しいな静奈が』
「偶にはこんな時もあるわよ」
それで用は何か、続いた宗平の言葉に静奈の機嫌は急降下した。
『最近、あいつ……獅子堂と話してるだろ? 脅されたりしてないよな?』
ついスマホを握る手に力が込められた。
改めてになるが龍一がどんな風に見られているか知っているし、どんな噂が流れているかも知っている。けれど静奈は知っている――龍一のことを。
宗平が知らないのは無理もない、噂は間違いではなさそうなので真に受けているのもおかしな話ではない。それでも何も知らないくせに脅されていないかなどと言われたことが気に入らなかった。
「脅されたりしてないわ。獅子堂君は良い人よ? とても優しい人だし、この前だって私を――」
『いや、だってあいつ色んな女を引っ掛けてるって噂なんだぞ? 授業だってサボりまくってたし先生方への態度だって悪いじゃん。あいつが優しいわけ――』
「ごめんなさい。もう眠たいから切るわね」
『おい静奈――』
ブツッと音を立てて電話を切った。
幼馴染として宗平のことは信頼しているし仲が良いのは当然だ。けれど、龍一のことに関してそのようなことを言ってほしくなかった。それが周りと同じ言葉だとしても、それでも静奈は聞きたくなかった。
「……獅子堂君は優しいわよ。誰が何と言ったって私には分かるもの」
小さな呟きは誰にも届かず空気に溶けていった。
単純に自分が信じすぎなのでは、上辺しか見れていないのではとも当然思う。けれども静奈は龍一のことを信頼していた――それはもう変わらない。
『あいつ、悪い噂が多いから気を付けろよ? 幼馴染として心配なんだ』
『分かってるわ。宗平君には心配を掛けたくないもの、獅子堂君には気を付けるから安心して?』
もう、全てが変わっている。
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