第10話 桜降る季節

 総合病院の病室からはにぎやかな声が聞こえる。アンタカラから帰ってきて三週間後、新太たちは百々花の病室にクリスマスの飾りつけに来ていた。百々花をまじえてクリスマスパーティーをするためだ。

 男の子が折り紙の輪っかの飾りを手に持ち、

「これ、どこつける? どこつければいい?」

「それはそっちの壁にたるませてつけて」

「わたし、手伝う」

 男の子と女の子、低学年の女の子は飾りつけの担当だ。病室の隅で新太と喜一はダンボール製のクリスマスツリーを組み立てていた。本当は木で作りたかったが、予算的に各家から持ち寄った段ボール製となった。

 新太はツリーの幹を組み立てながら、

「なんとかできそうだな」

「うん! 楽しみ!」

 病室のドアが開いて、仁が現れた。手にはセロハンテープを持っている。

「ほら、ナースステーションでセロハンテープ借りてきたぞ」

「サンキュ、仁」

「ジン、ありがとう!」

 仁はふたりの前に座ると、新太と同じように幹に枝をさし始めた。グラグラするものはセロハンテープで固定する。

 真剣な仁を見て、喜一が、

「ジン、良かったね。サッカー、続けられそうで」

「まあな。その分、結果ださねえとだけど、プロになるヤツが結果だす、ださないじゃねぇよな。結果はだすものだろ」

「仁、言うようになったな、お前」

 新太と仁は握りこぶしを突き合わせた。そこに喜一も加わり、三人でくすぐり合戦にななる。もみくちゃになりながらプロレス技をかけあっていると、

「ちょっと、遊んでないで早くやってよ。百々花ちゃん帰ってきちゃうでしょ」

「本当、これだから男子って困る」

 女の子たちから注意を受けて、新太達は姿勢を正した。一言謝ると、再び、ツリーの組み立てに入る。

「百々花ちゃん、いつ帰ってくるんだっけ?」

「あと、三十分後だよ。お母さん、百々花と病院の図書館行ってくるって」

「よし、時間は充分だな」

 子ども達は時間を気にしつつ、クリスマスの飾りつけを進めた。新太と仁、喜一も順調にツリーを組み立てる。最後に喜一がアンタカラから持ち帰り、金色の折り紙だけを張り替えたトップスターをクリスマスツリーの天辺に乗せた。

「できた!」

「こっちも準備終わったよ!」

 新太は病室をぐるりと見まわした。二人部屋を個室にした八畳ほどの病室の壁には、折り紙でできた色とりどりの輪っかを繋げた飾りが取りつけられている。その下には、画用紙を切って作ったサンタクロースとトナカイが壁一面に張られていた。窓には折り紙を切って作った雪の結晶と雪だるまが張られている。

 新太はさらにクリスマスツリーを見た。一メートル程の段ボール製のツリーには、黒色の厚紙とセロファンでできたオーナメントが飾られている。天辺には金色の折り紙が張られたトップスターが輝いていた。

「よし、いいな!」

 新太の携帯電話がなりメッセージアプリに、喜一の母親からあと五分ほどで戻ると連絡が来る。

 新太はそれを見て、

「あと五分で来るって! 皆、準備しろ!」

 子ども達はクラッカーを持って、扉口に隠れた。病室の時計はあと四分を示している。三、二、一……と子ども達は心待ちに過ごした。

 ガラリと扉が開いた。新太と子ども達はすかさず、パーンッとクラッカーを鳴り響かせる。色とりどりの紙吹雪が舞い散り、母親に付き添われ、車いすに乗った百々花が驚いたように目を丸くしていた。

新太と喜一、仁、子ども達は百々花に笑顔を向け、

「メリークリスマス! 百々花ちゃん!」

 百々花はきょとんとしたような顔をして、ついで、弾けるような笑顔を見せた。

「なに? きいちゃん、クリスマスパーティー?」

「そうだよ。百々花、クリスマスパーティー! 皆で用意したんだ」

「こんにちは、百々花ちゃん」

「こんにちは! 初めまして! 会えてうれしい!」

「どうも。お初にお目にかかります」

「こんにちは! おにいちゃん、おねえちゃんたち!」

 新太が百々花の前に立ち、片膝をついた。百々花と同じ目線になり、

「どーも、百々花ちゃん。加納新太です。どうぞよろしくね」

 と言って、百々花と握手をする。ついで、後ろに立っている仁を見た。仁は中腰になり、

「仁だ。よろしく」

 喜一が仁と新太の後ろから抱きつき、

「ぼくたちマブダチトリオなの! アラタとジン! よろしくね!」

「マブダチトリオ? アンタカラの?」

「そう! アンタカラの!」

百々花は信じられないといった様子で、子ども達を見まわした。

「じゃあ、こっちのお姉ちゃん、お兄ちゃんも?」

「うん! そうだよ。皆、アンタカラの仲間だよ!」

 その言葉に、百々花は見る間に顔を輝かせる。

「すごいすごい! おはなしきいてる! アンタカラ! もっときかせて」

「うん! でも、まずは中に入ってパーティーの続きをしよう」

「うん!」

 母親が百々花の車いすを押して、ベッドに寝かせる。新太が携帯の音楽アプリを操作すると、自宅から持ってきた小型スピーカーから陽気なクリスマスソングが流れだした。

「さあ、クリスマスパーティーの始まりだ!」

 子ども達は百々花を囲んで、看護師から借りたスツールのイスに座った。喜一の母親が備え付けのサイドテーブルで、紙袋から手作りのシュトレンを取りだす。それを薄くスライスし、紙皿に切り分け、最後にホイップクリームを乗せた。紙コップに入ったジュースとともに、子ども達に手渡しで回しながら配る。

「本当はシュトレンってクリスマス前日までに食べるお菓子なんだけど、美味しいし、クリスマスっぽいからいいよね」

「うん! ぼくシュトレン好き」

「モモも!」

 全員にシュトレンとジュースが行き渡ったのを確認して、子ども達はいただきますをした。新太はシュトレンという菓子パンを初めて見たが、パン生地の中にナッツやドライフルーツがたっぷり入っていておいしそうだ。一口食べると、粉砂糖の軽やかな甘さが口いっぱいに広がる。次いで、ほんのりと洋酒を利かせたドライフルーツがバターと小麦の生地にあいまって、なんともいえないまろやかな甘さを見せた。時々訪れるナッツの触感も歯ごたえを楽しめて美味しい。備え付けのホイップクリームをつけて食べると、ミルクの甘さとパン生地の甘さが倍増し、さらに美味い。

「おいしい!」

「うん、わたし、初めて食べた」

「おれも初めてなんだな」

「毎年手作りしているの。そう言ってもらえてよかった」

 仁がフォークを持つ手を止めて、

「オレも、母さんがデパートで買ってくるけど、それよりおいしいです」

「仁、お前上手いこというな」

「別に、そんなんじゃねぇよ」

「ふふっ、ありがとうね。皆。ゆっくり食べてね」

 子ども達は返事をすると、それぞれシュトレンを食べて楽しんだ。皆が食べ終わると、ゲーム大会になる。新太が声をかけると、喜一がリュックからトランプを取りだした。

「よし、ババ抜きやるぞ! 負けた奴は変顔な!」

「よっしゃぁ! 変顔変顔! 上手くできるかな」

「え、やだ。絶対負けない」

「変顔おもしろそう」

 新太はベッドに座る百々花に近づくと、視線を合わせて頭をなでた。

「百々花ちゃんも、ババ抜き、一緒にやろうな」

「うん! モモ、たのしみ」

 新太はうなずくと、その場を離れ、自分のイスに座った。じゃんけんをして一番勝った人から時計回りにトランプを引いていくこととなる。喜一が勝って、喜一、仁、子ども達、百々花、新太の順に引いていくこととなった。皆、それぞれ順番にトランプを引き、百々花と新太の番になる。新太は百々花にトランプをさしだした。百々花は少し迷って、一番真ん中のトランプを引く。

「そろった!」

 と嬉しそうに言って、そろったトランプを膝の上に置いた。次いで、新太は喜一の差し出すトランプを引こうとする。

 新太が真ん中のトランプを引こうとすると、喜一が困ったような残念そうな顔をした。ついで、端っこのトランプを引こうとすると、喜一がニコニコと笑顔になる。

 新太は思わず吹き出し笑いをし、

「喜一、お前、顔に出ているぞ。ババ持っているだろ」

「え? 持ってないよ、全然」

「嘘つけ。顔に全部書いてあるぞ」

「本当?」

 喜一は驚いたように、トランプを持っていない方の手で、顔を触った。それを見て、皆は爆笑する。

「喜一、もろバレだぞ」

「きいちゃん、おもしろい」

 そう言って、百々花はコロコロと笑った。それを横目で見ながら新太は、喜一をいじるのだった。

 それからしばらく席替えをしたり、トランプ遊びをしたりし、最後にクリスマスプレゼントの交換となった。ひとり5百円を予算にそれぞれ用意したのだ。百々花の分のプレゼントは、母親が用意していた。

 クリスマスの音楽に合わせてプレゼントを回していく。ある程度回すと、母親が途中でスマフォの音楽を止めた。子ども達はわっと歓声をあげ、自分の手の中に留まったプレゼントを見つめる。

「自分の来ている子はいない? じゃあ、開けて」

子ども達は待ちきれない様子で、いそいそとプレゼントの包装紙を開けた。

「かわいい! フレークシールセット!」

「動物の消しゴムセットだ! やった!」

「マグカップ! ありがとう!」

「おい、誰だよ。鼻型の鉛筆削りと鉛筆入れた奴。面白すぎんだろ」

 喜一が隣に座る新太をのぞきこみ、

「アラタは? 何もらったの?」

「おれは……」

 そう言うと、新太は包装紙からシャープペンシルを取りだした。ただのシャープペンシルではない。クルクル芯が回って、いつでも尖った状態で書けるという、ちょっといいシャーペンだ。それにシャーペンの芯もついていた。

「アラタ、いいのもらったね!」

「まあな。喜一は? なにもらったんだ?」

「ぼく? ぼくはね……」

 そう言うと、喜一は包装紙から取りだした物を頭から被って見せた。暖かそうなボーダー柄のネックウォーマーだ。

「ネックウォーマー! 暖かいよ」

「あ、それ、おれのだ」

「本当! ありがとう、アラタ」

「どういたしまして。百々花ちゃんは? なにもらった?」

「モモ、バスボールとアヒルさん! おふろであそぶっ」

「そっか。のぼせないようにほどほどにな」

 そう言って、新太は百々花の頭をなでた。

「うん!」

 皆でわいわいとプレゼントを見せ合っていると、喜一がスクッと立ちあがり、皆の前に出た。喜一はどこか誇らしいような、自慢しているような顔で、

「ここでぼくたちから、百々花にプレゼントがあります。いつも入院生活頑張っている百々花にお礼の気持ちです。どうぞ受け取ってください」

 そう言うと、新太達はイスを壁際に片付けた。各自、分担した場所へ散らばる。女の子は扉口へ、男の子と低学年の女の子は窓辺へ、新太は病室の隅に置いてあるクリスマスツリーへ、仁は自分のリュックから大型と小型の懐中電灯を二つ取りだした。

 新太がクリスマスツリーを部屋の隅から真ん中の辺りへ移動させる。場所が決まると、仁がツリーから少し離れた所に菓子箱を置いて立った。

設置が終わったのを確認すると、新太は子ども達に目配せをした。子ども達は頷き、女の子が部屋の電灯のスイッチを切る。男の子と低学年の女の子はカーテンを閉めた。部屋は薄暗くなる。

「おまたせ、百々花。百々花が希望した天までとどくクリスマスツリーだよ。よく見てね!」

 新太がしっとりとしたクリスマスソングを流した。それに合わせて、仁が大型の懐中電灯をつける。病室の白い壁にクリスマスツリーの影が現れた。セロファンでつくったサンタクロースやトナカイ、ボールの形のオーナメントが光に照らされて、赤や緑、黄色の影を落とした。そして、仁が懐中電灯を天井に向けて斜めに上げていくと――……。

 クリスマスツリーの影が伸びて、天井をおおった。セロファンの影が柔らかで淡い輝きをもって揺らめく。

 百々花は歓声を上げた。

「わあっ! そらまでとどくクリスマスツリーだ!」

「どう? 百々花。ここにいる全員で作ったんだよ」

「すごいすごい! ほんものだ! きれい!」

 百々花が瞳を輝かせて見つめる。仁が菓子箱に大型の懐中電灯を固定すると、もう一つの小型の懐中電灯を手に持った。懐中電灯には円錐形の黒色の画用紙が取りつけられている。画用紙は、雪の結晶と星の形の穴があけられ、そこに青いセロファンが張られていた。

 仁はそれを天井に向けると、スイッチを入れた。天井に冬の夜空が映しだされる。

 百々花が感嘆の声をあげ、

「うわぁっ! おそとだ。ふゆのおそときた!」

 瞳を輝かせる百々花を見つめながら、喜一が、

「百々花、去年の冬に行ったスキー場覚えている? そこのツリー、とっても感動していたよね。ぼく、覚えているよ。だから、ぼくはがんばる百々花にそれをプレゼントしたくて、皆に協力してもらったんだ。百々花、いつも治療、がんばってくれてありがとう! ぼく、百々花と出会えて、妹として生まれてきてくれて、本当にうれしい! 百々花、大好き! ぼくの大切な一番の妹!」

「きいちゃん……」

 喜一は百々花を抱きしめる。百々花は最初きょとんとしていたが、次第に気持ちが伝わったのか、喜一の背中に腕を回した。ぎゅっとしがみつく。

 それを見て、母親がふたりを包み込むように、喜一の背中側からそっと抱きしめた。

「百々花、喜一、生まれてきてくれてありがとう。お母さん、ふたりとも大好き。病気のことは、家族みんなで乗り越えて行こうね」

「うん!」

「ママ」

 母親はうるむ目を押さえながら、新太達を振り返り、

「皆も、ありがとう。喜一と百々花のために色々してくれて。本当に嬉しい。ありがとうね」

 新太は少し照れながら、

「いえ、別に」

「当然のことです! なあ」

「うん。それにとっても楽しかった」

「うん! 今度は百々花ちゃんもいっしょにつくろう」

「そうだな。また、皆で何かやれればいいな」

 子ども達は互いに目配せしあいながら、照れ隠しする。

 皆でしばらくの間、冬の夜空とツリーを楽しんだ。

「あ! 雪!」

 夜空とツリーを楽しんだ後、女の子がそう叫んだ。部屋に明りを入れようと、窓のカーテンを開けたのだ。

雪という言葉につられて、新太達は窓辺に集まった。窓の外を見ると、大粒のわた雪がちらほらと降ってきていた。

「本当だ、雪だ」

「雪のライトをつけたせいかな? 本物の雪がふってきた!」

「ホワイトクリスマスだね。すてき」

 見たいという百々花を抱っこしながら、喜一も窓際にやってきた。百々花のために子ども達は前をあける。百々花は雪を見て、目を輝かせた。

「ほんものだ。ほんもののゆきふってきた!」

 新太は興奮する百々花の頭をなでた。微笑みながら、

「来年は一緒に外で雪を見ような。百々花ちゃん」

「うん! モモ、たのしみ」

 そう言って、百々花は弾けるような笑顔を見せた。新太はそれを見て、頷く。窓の外を見ると、しんしんと雪が降り積もっている。新太にはそれが来年に向けた希望の光のように思えた。



 あれから数か月が過ぎた。凍てつくような冬の寒さは和らいできたが、空気はまだまだ冷たい。だが、日差しの暖かさや、路面に張り出た枝の萌えいずる若芽のみずみずしさが春の気配を伝えていた。

 学校への登校時間、新太は喜一と一緒に住宅街の通学路を歩いていた。庭の垣根から張り出す梢を見つめる。朝の柔らかな日差しとあいまって、ぷっくりと膨らんだ新芽の緑が目に鮮やかだ。新太は思わず目を細めた。

 アンタカラから戻って以来、時折、新太は喜一と一緒に登下校をしていた。友達と一緒に登下校することができるなんて、夢にも思ってこなかった新太だ。いまだに気恥ずかしいような嬉しいようなむずがゆい思いをする。つまり、友達と一緒に通学することに慣れていなかった。

 喜一が左隣を歩く新太を振り返り、

「でね……って、アラタ、聞いている?」

「いや、悪い。聞いてなかった」

 もーしょうがないな、アラタはと喜一は言って、一歩前に出た。その場でクルリと一回転する。嬉しそうに、

「あのね、アラタ、百々花ね、退院することになったの! お家に帰ってこられるんだよ」

「! 本当か!」

「うん! 病気も良くなったからって。時々、病院に通うけど、普段通りの生活でいいみたい」

「……そっか。良かったな。頑張っていたもんな、百々花ちゃん」

「うん! それにあとはアラタや皆のおかげ」

 喜一は手を広げて、

「アラタやみんなが、時々、遊びに来てくれたでしょ。あれ、百々花、とっても楽しみにしていたの! だから、それも元気のもと!」

「そっか。なら、嬉しいけど。でも、本当に良かったな」

「うん! 春から一年生なの。一緒に通える! アラタ、百々花のことよろしくね」

「ああ。任せろ」

 小学校の予鈴が聞こえた。ゆっくり歩きすぎたと新太は慌てて駆けだす。喜一もそれにならって駆けだした。通学路をふたりで走っていく。それはちょうど仲の良い子犬がじゃれ合っているようにも見えた。



 その日、新太は夢を見た。女神アンダルファとアースラが出てくる夢だ。

 女神は若返っており、アンタカラで見た最初の頃の、豊かな髪と肉づきのいい体をもつ美しい女神に変わっていた。

 アンダルファは、片手をあげて、

「うん、新太君、元気にしている? 今回、この地上を離れることにしたんだ。仲間の元に帰ろうと思って」

「アンタカラに飲みこまれた魂の清算はついたしな。全ての者を天(そら)に連れていくことにした」

 天に連れて行くと言われても、ピンとこない新太だ。はあ……と、あいまいな返事をする。

「それでね、新太君や他の子ども達にお礼がしたくて」

「女神直々の礼だ。まずないことだ。ありがたく受け取るといい」

「はあ」

「でね、お礼というのがね、アンタカラを解体して、魂もすべて取りだしたけど、やっぱりまだ、エネルギーが余っているんだ。それはもう、膨大なね」

「もともと、魂と魂が生み出したエネルギーをアンタカラは原動力にしていたからな」

「それでね、この余ったエネルギーを君たちにあげようと思うんだ。なに、悪いものじゃない。ぼくが良いように使うから良いエネルギーだよ」

「……もらったら、どうなるんだ?」

「そうだね、君の人生の中で願ったことがなんでも叶うよ。もちろん、他の子にも分けるから、全部じゃないけど。願い事によるけど、大きければひとつだけ。小さい願いならそれなりにたくさん叶うよ」

「そうなのか……」

 新太はうつむいて考えた。現実世界で願いが叶うなら、それに越したことはない。なら、自分はどうしたい? 何を願う?

 新太はしばらく考え、顔をあげた。最初から、新太の願いはただひとつだけだったのだ。新太はゆっくりと口を開く。

「なら、おれは――……」

 肩を揺さぶられて、新太は目を覚ました。顔をあげると、目の前に先生がいる。三時間目の国語の時間、暖房の効いた教室の暖かさに、どうやら自分はいつのまにか眠ってしまったらしい。

「加納さん、起きた? 授業はしっかりと聞いてね」

「はい」

 バツの悪さと恥ずかしさに、新太は視線をさまよわせる。後ろを振り返ると、後方の窓際の席に座った喜一と目が合った。喜一はどんまいと言うように、親指を立てる。それを見て、新太は、ふっと笑った。

「はい、じゃあ、七十八ページ二行目から。加納さん、読んで」

 先生が新太を指名してくる。新太は立ちあがり、慌てて教科書をめくった。

 学校が終わり、下校の時間、新太は喜一と一緒に帰路についていた。住宅街の通りを歩く。

「授業中、寝ちゃうのなんて、めずらしいね! アラタ」

「ああ。まあな」

 新太はぼんやりと、

「なんか、夢を見た気がするんだよな……」

「それって、どんな夢?」

「いや、覚えてない。でも、なんか楽しい夢だったよ」

「そっか、良かった!」

 喜一は商店街とは反対の道へ足を向ける。

「じゃあ、アラタ、ぼく病院寄って帰るから」

「ああ。百々花ちゃんによろしくな。また、お見舞いに行くわ」

「うん!」

 喜一は少しだけ小さく感じるランドセルを弾ませながら、走っていく。新太はその背中を見つめる。春になれば、ここにもうひとつランドセルが加わるのだ。それは、新太にとって、なんだか、心待ちにするような、硬いつぼみが膨らむようなあたたかな気持にさせた。



 喜一と別れ、商店街の通りを歩いていると、肉屋の店主が声をかけてくる。

店主はカウンターから身を乗りだし、

「よっ、新太君。調子はどうだい? お父さん、元気か?」

「おじさん。おれは元気。親父はまあまあ。以上です」

「そっか。ならよかった」

 そう言うと、店主は新太に顔を近づけて、ないしょ話をするように、

「ここだけの話だけどよ、新太君のお母さん、帰って来ているぞ。駅前のホテルに入っていくの見たっていう人がいるんだよ。ほら、お母さん、目立つから」

「そうですか」

「今日、明日にでもお父さんのとこに行くかもしれねぇ。新太君、どうする?」

「え?」

「お母さん来たらどうするって、聴いてんだよ」

「それは……わからないです」

 正直、母親が来ていると言われてもピンとこない。実際、新太が見たわけでもないし、その人の見間違いもあるからだ。それに、父親と離婚して、母親は都会で充実した日々を送っていると風の噂で聞いた。その母親が自分に会いに来る? もしくは迎えに来るとでも……?

 沈黙する新太に、店主は優しく声をかけた。

「まあ、いざという時のために、考えておいたほうがいいかもな。自分が困らないようによ」

「……はい。そうします」

 新太は一礼して、その場を離れた。店主が心配そうに新太の背中を見守る。新太は心がざわざわしながら、家に帰った。

 結局、その日は母親は来なかった。やっぱり、見たという人の勘違いかもしれない。新太は自分にそう言い聞かせる。父親と一緒に夕飯をとったが、なにも言わなかった。新太はごちそうさまを言い、食器を洗うと、二階の自室へと向かった。学校の宿題をするためだ。

 机に向かい、宿題のプリントを広げる。シャーペンを握り、宿題にとりかかろうとして、新太はぼんやりとした。つい、母親のことを考えてしまう。

――新太君、どうする?

――お母さん来たらどうするって、聴いてんだよ。

 肉屋の店主の言葉を再び思いだす。どうするかって? 母親がおれに会いに? あの母親が?

 心が落ち着かなくて、新太は椅子から立ちあがる。

「ダメだ。全然、集中できねえ」

 気晴らしに、窓のカーテンを開けた。窓の外を見て、新太は驚き目を見開く。

 新太は急いで階段を駆け下りた。リビングのソファで寝ている父親を叩き起こす。

「……なんだよ、新太」

「いいから、ちょっと、こっち来いって」

 しぶる父親の右腕をつかみ、新太は強引に玄関へと向かう。サンダルをはき、ふたり庭先へと出た。白い息を吐きながら、冷ややかな空気に身を震わせる。夜空を見上げた。するとそこには――……

 満点の星空に流星群が流れてくる。それはまさに、星のしずくのように、降っては消え、降っては消え、同時に流れては消えていく。それが幾果てぬ瞬きとなって、無数に降り注ぐのだ。

 新太は感嘆の声をあげた。

「すっげ。初めて見た」

 降り注ぐ流星雨に、心惹かれ、吸いこまれる。新太はほうっとため息をついた。いまだかつて、こんなにも星が流れる夜空を見たことがあるだろうか。

 隣を見ると、父親もぽかんと口を開け、吸いこまれるように星を見ている。

 新太にはそれがなんだか、とても嬉しいことのような、喜ばしいことのように感じた。

 それから、しばらくの間、庭先に立って、ふたり星降る夜空を眺めた。


――新太君、これはぼくが起こした奇跡。でも、君が起こした奇跡でもあるんだ。

――君は願った。全ての人々に希望がありますように。世界中の全ての人々が希望を見出して生きていきますようにと。だから、ぼくは君に協力したに過ぎない。

――だから忘れないでほしい。ぼくが起こす奇跡は、ほんのささいなきっかけにすぎない。本当の奇跡は、君の、君自身の中にある、君の力が起こすんだ。君自身が起こすんだ。

――それを絶対、忘れないで欲しいな。



 翌朝、新太は自室のベッドの中で目が覚めた。なにやらまた夢を見た気がする。それも大事な夢だ。だが、起きあがり、ベッドから離れると、それもささいなことのように思えた。

 パジャマ姿で一階のリビングに向かう。リビングの扉を開けると、めずらしく父親が新聞を読みながらスウェット姿で起きている。思えば、アンタカラから戻って以来、かれこれ三、四か月ほど、父親が酒を飲んでいるのを見ていない。それはとても良いことだと新太は思う。

 おはようと父親に声をかけて、カウンターキッチンに立つ。父親は朝ごはんを食べないので、自分の分の朝食を作るためだ。朝はごはんにみそ汁、納豆もしくは目玉焼きと決めている新太だ。

 目玉焼きを作るため、小型のフライパンを取りだすと、テレビからニュースが流れてくる。天文所の前にリポーターの女性が立ち、研究員と思しき男性に話を聞いている。

「昨夜の流星群、すごかったですね。まさに星の雨が降っているようでした。世界各地で観察できたようですが、今回の流星群、珍しいものなのでしょうか?」

「はい、これだけの規模のものが突然見られたのです。おそらく小惑星同士が激突したのでしょう。流星群ではなく、流星雨、流星嵐といっても過言ではないでしょう」

 研究員はやや興奮気味に話している。それからしばらく昨夜の流星群についての解説が流れ、天気予報に変わった。

 父親が新聞から目を離し、

「やっぱり、あれって、めずらしいことだったみたいだね」

「そうみたいだな」

 新太はお盆にごはん、みそ汁、目玉焼きと朝食を乗せると、リビングのテーブルに置いた。クッションに座ると、みそ汁に口をつけた。

 ピンポーンと玄関チャイムが鳴った。新太はなんだろうと、席を立ち、玄関に向かう。玄関ドアの中央にはめこまれたすりガラスに人影が写った。新太は宅配便かなと思いながら、ドアを開ける。

 目の前に母親がいた。赤いチェックのロングワンピースに白味に近いベージュのカーディガンを羽織っていた。髪は二年前に別れた頃より、伸びている。胸元まであるロングヘアーはパーマがかかり、毛先がゆるく巻かれていた。二年前と比べて目元の化粧がやや濃くなった印象だが、他は変わらぬ美しい姿だった。

 新太は驚愕する。

「かあ……さん」

「新太、あっくん! 会いたかった!」

 そう言うと母親は新太を抱きしめた。思いっきり抱きしめられて、新太は胸を圧迫される。呼吸が苦しい。深く息を吸おうとすると、甘ったるい香水の匂いがした。

「あっくん、お母さんと一緒に暮らそう。迎えに来たの。都会で私のマンションで暮らそう」

「母さん、苦し……っ」

「あ、ごめんね。新太」

 母親はそう言うと、新太を腕の中から離した。新太はひとしきり、深呼吸する。朝の冷ややかな空気が肺に刺さった。新太は慎重に、

「ババア、なにしに来た。それに、おれ、あんたと暮らす気ないから」

「え? なんで? あっくん」

「あんた、男と別れてないよな。大方、男と派手にケンカして、逃げてきただけだろ。おれに会いたかったのもウソだ。ただ、あんたは自分をなぐさめてくれる都合のいいペットが欲しいだけなんだ」

「は? 何をいっているの? あっくん」

 きょとんとして、理解不能といったような顔をしている母親に、新太はいらだちを募らせる。思わず声をあらげた。

「あんたはさ、昔から自分勝手な奴だったよ。気分によって言うことがコロコロ変わる。おれは、そんなあんたに愛されたくて、必死だった。あんたが飯をつくらないから、飯を作るようになった。家事をしないから、家事をするようになったよ」

「あっくん……」

「でもさ、喜一にであって、喜一のお母さんや家族を見た時にさ、おれの母さんは、ダメな人間なんだって気づいたよ。自分のことしか見ていない、子育てに向いていない人間だって」

 新太は自分をあざ笑うように、

「これでもさ、あんたが迎えに来るのを待っていた時があるんだよ。でも、あんたが出て行って、一か月経ち、二か月経ち、一年が過ぎて、一緒に住んでいたばあちゃんが亡くなった時、おれ、わかったんだ。おれは、本当に母さんに捨てられたんだって。おれの母さんは子どもを捨てるような人間なんだって。心の底からわかったよ」

「な、なんでそんなこというの」

「おれ、あんたに手紙を書いたんだよ。ばあちゃんが死んだとき。それをあんたの友達のおばちゃんに渡してってたのんだ。おばちゃんは、ちゃんと渡したって言ってくれた。でも、あんたは来なかった。ばあちゃんが死んで、ずっと待ってた。それでも、あんたは来なかったんだ」

 母親は目を泳がせる。わずかに動揺しながら、

「は? なにそれ、私、貰ってない。友達って、誰? リカ?」

 新太はゆっくり首を振る。

「二回目は、おれが届けに行ったんだ。おばちゃんに住所教えてもらって、携帯で検索して、ひとりで新幹線に乗った。あんたに会いに行ったんだよ。あんたの住むマンションのポストに直接手紙を入れた。あんたが読むのを期待して。でも……」

 新太は当時を思い出す。寒空の中、母親が帰ってくるのを近くの塀や電柱の影に隠れてじっと待っていた。夕暮れ時、やっと帰ってきた母親の姿を見て、飛び出していこうと思った。でも、隣には見知らぬ男性がいて、新太は我慢した。そのまま、母親がポストを開けるのを祈るような気持ちで見ていた。だが……。

「帰ってきたあんたが、手紙をチラシごとゴミ箱に捨てるのを見たよ。なんの興味もなく、ためらいもなくあんたは捨てた。だから、おれはそれを見て、思ったよ。おれはあんたにとって、その程度の存在だったんだって。あんたに愛されたくて必死だったのに、バカみてぇ。おれのあんたに対する期待はそこで終わり。ろくでもない親とろくでもない子どもがいる。ただ、それだけ。それでおしまい」

「新太……」

 新太は母親を真っ直ぐに見た。気持ちを切り替えるように、強い眼差しで、

「でも、おれは喜一に出会った。喜一の家族や肉屋のおっちゃん、仁に出会った。学年のちがう友達もできた。その人たちは、おれに誠実に対応してくれる。あんたみたいに、おれに嘘をつかない。言うこととやることが一致している。おれはそう言う人たちを大事にしたい。おれはそういう人たちを大事にできる自分自身を大事にしたい。自分を幸せにしたい。だから、あんたのことはクソだ。その辺に転がっている犬のうんこと一緒だと思うことにするよ」

 母親は一瞬、何を言われたのかわからないといったような顔をした。ついで、体を震わせ、顔が真っ赤になる。まさに激怒といった表情で、右手を高くあげた。

「このクソガキッ! 誰が生んだと思ってんだよ!」

 新太の顔めがけて思いっきり、右手を振り下ろす。新太は反射的に目をつぶった。だが、いくら待っても、ビンタが振り下ろされることはない。新太は恐る恐る目を開けた。

「かず……し……」

 新太の父親が新太を守るように、母親の右腕をつかんでいる。新太は驚いて目を見開いた。

「親父」

 父親は右腕をつかんだまま、

「新太が戻ってくるのが遅いから来てみたけど……みきちゃん、久しぶり。こっち来ていたんだね」

「和志……」

 母親はうろたえ、罰が悪そうに、父親の手を振りはらった。力が強かったのか、そっとつかまれた右腕をさする。

 父親は悲しそうな目で、

「こんな形で再開したくなかったな。もっとハッピーで喜びあふれたものにしたかった。残念だよ。みきちゃん」

 そういって、父親は新太を守るように、そっと自分のほうに抱き寄せた。母親はわずかに動揺し、

「和志、あんたアル中でしょ。悪いけど、新太はもらってくから」

「新太が行きたいのなら、別だけど、新太は行かないと言っている。なら、話は別だ。みきちゃん、都会に帰ってくれ」

「は? アル中のあんたに、子どもが育てられるとでも思っているの? バカじゃない」

 父親は首を横に振った。静かな声で、

「みきちゃん。確かに僕は君を好きだった。君を愛していた。今でも思いだすよ。グランドに舞い降りた君は、まさに、天女のようだった。でも、今はちがう」

 父親は新太と目と目を合わせる。

「今は大事な者ができた。こうしてダメな親父でも寄りそってくれる家族がいる。それはきっと、野球選手じゃなくなった僕をあっさりと見限る君じゃないんだ。辛い時、大変な時、辛抱強く寄りそってくれた新太なんだ」

 父親は一息深く呼吸をすると、母親を真っ直ぐに見た。力強い眼差しで、

「だから、僕は新太を大切にしたい。僕を大切にしてくれる人を大切にしたい。それを、今、新太を見て思ったよ。新太が教えてくれたんだ。僕も僕を幸せにしたい。僕を幸せにする、僕を好きになる義務がある。それを思いだしたよ」

「は? なにそれ?」

 新太、ちょっと……と父親は、新太に指示を出して、リビングの棚から用紙を持ってこさせた。A3サイズの大きさだ。そこに新太に持ってこさせたペンで記入し、印鑑を押す。

 父親は用紙を母親に突きつけた。それは離婚届けだ。『加納みき』のサインと印鑑の横に、『加納和志』のサインと印鑑が入っている。

「遅くなったけど、離婚届。サインして印鑑も押したから、あとはみきちゃんが市役所に持っていけばいい。今まで待たせてごめんね」

 母親は受けとると、サインを見て、離婚届を持つ両手をわなわなと震わせた。父親はそんな母親を冷静に眺めた。新太の肩を抱きよせ、告げる。

「これからは新太を大事にして過ごすよ。アルコールもやめる。完全に断酒だ。これでいいかい? 君の気はすんだ?」

「は、はあ? 別に気がすむもなにもないけど」

 母親はそう言いつつ、手早く離婚届を折りたたむと、バックにしまった。いそいそと玄関のドアノブに手をかける。

「じゃあね。新太、また来るから」

 そう言って、扉を開けて出て行った。バンッと、車のドアが閉まる音がする。そのまま、エンジンがかかる音がして、走行音とともに消えて行った。

 父親は閉まった扉を見ながら、

「あれはもう来ないな」

「まあ、それだけの女だったってことだろ」

 飯が冷めると言って、新太は踵を返した。口の中で小さく、

「産んでくれてありがとう。そのことだけは感謝するよ」

 そうつぶやいて、今ではもう母とは呼べぬ人の名前を呼んだ。

 父親はそんな新太の背中を見つめて、

「僕もいい加減、前を向かないとな。後ろばかり見るのはもうやめだ」

 天井(そら)を見上げて、そうつぶやく。その顔はどことなく晴れやかさに満ちていた。



 四月、桜の季節になった。朝の空気はまだ肌寒く、霞がかったようなうすらぼんやりとした青空が広がっている。だが、空の底は青く、これから段々と暖かな春になるのだと予感させた。

 小学校の通学途中、桜並木のある道を新太と喜一は肩を並べて歩いていた。その少し先を百々花が、背負っているというより背負わされているといった様子で、ピンクのランドセルを弾むように揺らしながら歩いている。その揺れるランドセルを見ながら、新太と喜一は顔を見合わせて微笑んだ。

 喜一が思いだしたように、

「そういえば、アラタのお父さん、公園で見たよ。子どもたちに野球教えていたね」

「ああ。地元の野球チームの監督になったんだ」

 都会からこっちに引っ越してきて以来、前々からオファーはあった。だが、父親は全部断っていた。だが、最近になり心境の変化か、受けることにしたのだ。

「毎日、仕事に野球チームの監督に、忙しいって言っていたよ。酒飲むくらいなら、勉強したほうがいいって、ずっと本読んでいる」

「そっか。よかったね!」

「ああ、そうだな」

 新太は立ち止まり、桜を見上げた。薄い水色の空に桜の花びらのピンクが目にまぶしい。新太は桜の花をよく見ようと、目を細めた。視界から余計な光の侵入を阻止する。

 喜一が一緒に桜を見上げて、

「ねえ、アラタは夢ってあるの?」

「夢?」

「そう、将来何になりたい? ぼくはね、お医者さん。百々花みたいに病気の子どもを治して、元気にするの。それか、イラストレーター! ぼく、絵を描くのが好きだから。たくさん絵を描いて、皆を喜ばせたいんだ!」

 喜一と将来の夢の話をするのは、初めてだ。新太は感心して、

「へー、いいじゃん。どっちもいけるよ、お前なら」

「本当!? アラタ、ありがとう!」

 アラタは?と喜一が小首をかしげて再び聞いてくる。新太はあごに手を置き、上を向いて、

「うーん、そうだな……」

 将来の夢、自分には何かあるだろうか。小さい頃は野球選手だった気がする。だが、今となっては、それはただの父親に対するあこがれであり、やりたいわけではなかった。

「うーん……」

 新太はしばらく考えたが、これといって何かやりたいこともない。正直、今の生活が続いてくれるだけで十分だ。将来のことは今、考えるべきことじゃないように思えた。けれども――……。

 新太は願う。いつか自分にもやりたいこと、将来の夢ができればいいと。なにか夢中になれる、一途に好きだと言えるものに出会えればいいと。

 それはまだ、遠い未来のことで、今にはない。けれど、生きていれば確実にこの先起こりうることだと、新太は思った。

 新太は喜一に向き直り、にやりと笑った。

「今は保留。でも、つくる予定だぜ!」

「そっか!」

 いつの間にか、ずいぶんと先に行ってしまった百々花が手を振り、新太と喜一の名前を呼ぶ。ふたりは顔を見合い、駆けだした。ふたりの行き先には真っ直ぐな道が伸びている。

「行くか! 喜一」

「うん! 行こう! アラタ」

 ふたりは同時に一歩踏みだす。やがてくる未来に向かって――……。

満開の桜の花が風に吹かれて揺れている。それはまるで子供たちのこれからを祝福し、微笑んでいるようだった。〈完〉

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奇跡の町アンタカラ つかだあや @ricorabbit

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