【裏切られて不幸のどん底に落とされた気分だったけど、こんな結果に終わってくれるなら、人生捨てたもんじゃないと思える】

 それから順調に手続きや引き継ぎを進め、お世話になった部署にあいさつ回りを済ませると、康夫は退職をした。職場の人達が、送別会を開いてくれたが正直、複雑な気持ちが強すぎて楽しむことが出来ていないようだった。


「はぁ……」


 康夫は仕事終わりに立ち寄った公園で、ベンチに座りながらため息をつく。


「あの飲み会の時に、真奈さんの連絡先を聞いておけば良かった……」

 

 退職してからもうすぐ一年が経つが、康夫はまだ真奈への想いを断ち切れずにいるようだった。


「あの時、何で意地なんか張ったのだろ……」


 飲み会の時、康夫と真奈は運が悪く、離れた席だった。だからといって飲み会が始まると、それぞれが好きな所に移動するので、真奈の近くに行く事はいくらでも出来た。


 だけど恥ずかしさと、もう別れると分かっているのに、仲良くなるのは辛いと思ったのか、康夫はジッと、自分の席から動かなかった。


「よっこらしょ」と、康夫は呟き立ち上がる。

 

「まぁ、後悔しても始まらないよな。近くのスーパーで買い物して、帰るか」と、康夫は呟いて、公園の駐車場に向かって歩き出した。

 

 ※※※


 康夫はスーパーに到着すると、とりあえず野菜売り場に向かう。


「たまには野菜も食わないとなー……」と、眺めていると、反対側からカートを押す女性が近づいてきたので、サッと避けた。


 その時に女性の顔をみて、康夫は驚く。


「真奈さん」

「え?」


 真奈はカートを止めると、目を丸くしながら、康夫の方に顔を向けた。


「高橋さん……どうしてここに?」

「どうしてって、ここが会社から一番近いからだよ」

「あー……なるほど」

「会社の方はどう?」

「えっと……」

 

 真奈はそう返事をして、うつむく。康夫は上手くいっていないのかな? と、思ったようで、眉を顰めた。


「あの、高橋さん。この後、忙しいですか?」

「いや、大丈夫だよ。独り身だしね」

「良かった……じゃあ近くの喫茶店に付き合ってくれませんか?」

「いいよ」


 真奈は嬉しそうにニコッと微笑むと「じゃあ急いで買い物を済ませてしまいますね」


「いや慌てなくても大丈夫だよ。俺は来たばかりだから」

「あ、ごめんなさい。嬉しくて焦っちゃった」と、真奈は言って、照れ臭そうに髪を撫でる。


 久しぶりに出会ったからか、何気ない会話なのに、康夫は妙に嬉しそうな表情をしていた。


 ※※※


 二人は買い物を済ませると、カントリー風の喫茶店に向かった。店員さんに窓際に案内されて、椅子に座る。外はすっかり暗くなり、車がライトを点けて行き交っていた。


 康夫はメニューを手に取ると「何にする?」


「夕飯はまだですか?」

「うん」

「じゃあ一緒に食べませんか?」

「そうだね」


 ――康夫はハンバーグセット、真奈さんはカルボナーラに決め、食後用にコーヒーを2つ頼む。康夫は世間話をしながら、楽しい時を過ごしているようだった。最後にコーヒーが届き、康夫は砂糖とミルクを入れ、かき混ぜる。


「楽しい一時って、アッと言う間ですね」

「そうだね」

「えっと……本題の仕事についてですけど」

「うん、どうなの?」

「ボロボロです。高橋さんが一人抜けるだけで、こうもバラバラになるの? って言うぐらいです」


 康夫はそれを聞いて、ざまぁみろと思ったのか、コーヒーを飲みながらニヤけていた。


「会社の上の人達は、高橋さんのコミュニケーション能力で、他部署を含め、色々と回っていた事を知らなかったんでしょうね」

 

 康夫はそれだけは自信があったようで、笑顔でウンウンと頷いていた。


「事務所の笹原さんや第一課の小林さんなんて、怒って戻して欲しいって言ってましたよ」

「そう……それ聞くと嬉しいな」


 真奈はコーヒーをジッと見つめ、混ぜながら「ねぇ、高橋さん」


「なに?」

「その……もし戻って来て欲しいって会社に言われたら……戻ってきますか?」

 

 あの会社には康夫を慕ってくれる人達がいる。それに心を寄せる真奈も。だけど、あの会社は康夫を裏切った。康夫は今とても複雑な気持ちに違いない──康夫は残ったコーヒーを飲み干すと、テーブルに置いた。


「ごめん。何を言われようとも、あの会社に戻ることはない」


 真奈は持っていたコーヒーカップをテーブルに置くと「そう……ですよね」


「ごめんね」


 真奈は何も返事をせず、黙ったままコーヒーを飲んでいく――康夫はそれを黙って見つめ、飲み終わるのを待ち続けた。


「こちらのお皿、片付けて宜しいでしょうか?」

「あ、はい。どうぞ」


 店員が黙々と空いた皿を片づけていく――。


「ごゆっくり、どうぞ」

 

 テーブルの上が綺麗になると、早く帰らないといけない気分になる。康夫はそれが嫌なのか、眉を顰めていた。


「行きます?」

「あ、うん。そうしようか」


 ――二人は会計を済ませると外に出た。


「今日は楽しかったです。ありがとうございました」

「いや俺の方こそ、ありがとうございました。──あ」

「どうしました?」と真奈は首を傾げる。


「あのさ、連絡先……教えてくれない?」

「あ、はい。良いですよ」


 二人はお互いの電話番号とメールアドレスを交換し、送れるか確かめる。


「大丈夫そうだね」

「はい」

「──真奈さん。明日は仕事?」

「はい、仕事です」

「だよね。じゃあ……解散しますか」


 真奈は名残惜しいのか、眉を顰めるが「――そうですね」


「それじゃ」

「はい、また……」


 康夫はゆっくり真奈に背中を向け、歩き出す――すると後ろから、ガシッと真奈が腕を掴んだ。


「待ってください!」


 康夫は驚いた表情のまま、真奈の方に顔を向け「どうしたの?」


「あの……さっきは返事が出来なかったですけど、正直に私の気持ちを言います。私は……私は高橋さんに戻ってきて欲しいです!」


 そう言った真奈の目がウルウルと湿り始める。


「もうあんな殺伐とした職場や会社、嫌です! それに高橋さんが居なくなって、寂しくて……辛くて……より一層、孤独感を感じるようになっちゃったんです。だから……我儘だと分かっていても、戻ってきて欲しいです!!」

「真奈さん……」


 康夫は胸がキューっと締め付けられ切ない気持を感じながらも、どこか温かい気持ちを感じているのか、複雑な表情で真奈を見つめる。

 

 自分を頼ってくれているのは凄く嬉しい。だけど今の自分、何をしてあげられるのだろうか? 康夫はそう思っているのか、なかなか返事をしなかった。


「――ごめんなさい。何か困らせてしまったようで」

 

 長く返事が無かったからか、真奈は不安に思ったようで、眉を顰めてそう言った。


「あ、いや、大丈夫だよ」

「その雰囲気だと駄目……ですよね?」


 答えづらい、だけど誠実な康夫は嘘を言って、期待を持たせて傷つけるのはもっと嫌だと思っているのだろう。だから「うん。もう戻るつもりはない」とハッキリと口にした。


「そうですか……」と、真奈は返事をして、腕で涙を拭った。キリッと真剣な眼差しに変わったかと思うと、「じゃあ、最後に一言だけ言わせてください」


「うん、良いよ」

「私、会社を辞めます!」

「え……?」

「そして高橋さんをサポートしますから。だから……私と結婚を前提にお付き合いしてください!」


 まさか人見知りで大人しい真奈が、そこまで大胆の事を言ってくるなんて思ってもいなかったようで、康夫は驚きを隠せないようで目を丸くしていた。


「あの……返事は後日で良いので」


 言い終わって急に冷静になったのか、真奈はいつものように、しおらしくなる。康夫はそんな彼女が愛おしくなったのか、ギュッと抱き寄せていた。


「仕事を辞めるかどうかは、後日にゆっくり話し合えば良い。それより先に、今は自分の気持ちを伝えたい」

「分かった。お願いします」

「俺も前から真奈さんの事が好きでした。こちらこそ、宜しくお願いします」

「あぁ……嬉しい……」


 そう言った真奈の表情が見えないのは残念そうだったが、康夫は今、とても幸せそうな笑顔を浮かべていた。


「君の気持ちに応えるために、頑張るからね」

「はい、私も頑張ります」


 ※※※


「まぁそんな感じで、俺達は結婚したって訳よ」と、康夫は言って、コーヒーカップを左手に持ったまま立ち上がる。


「思ったより凄い、恋愛してたんだな……」

「だろ?」


 康夫はそう返事をして歩き出だし、春樹と途中で参戦していた梓の頭を優しく撫でると、「あの時は不幸のどん底に落とされた気分だったけど、こうして家族と過ごせる結果に終わってくれたんだから、人生捨てたもんじゃないと思えるよ」


「親父……」

「お前たち、これから色々と嫌な事あると思うけど、頑張れよ」

「うん」


 康夫は二人の素直な返事を聞くと、嬉しそうな表情を浮かべて、台所の方へと歩いて行った。

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