【裏切られて不幸のどん底に落とされた気分だったけど、こんな結果に終わってくれるなら、人生捨てたもんじゃないと思える】

 日曜日。春樹がリビングのソファーに座り、コーヒーを飲んでくつろいでいると、後ろから康夫が「調子はどうだ?」と声を掛けた。


 春樹は康夫の方に顔を向けると「良い方だと思う」


 康夫は春樹の横に座りコーヒーをテーブルに置くと、微笑みながら「そうか、なら良かった」


 それから会話が途切れ、二人は黙ってコーヒーを飲んでいく。


「──なぁ?」と、春樹が声を掛けると康夫はコーヒーをテーブルに置き「ん? どうした?」と答えた。


「そういえば、親父はどんな恋愛をしてきたんだ?」

「知りたい?」

「知りたくはないけど、興味はある」


 素直じゃない息子の回答が面白かったのか、康夫は「はっはっはっは……」と、大声で笑う。


「そんなに笑うなよ」

「悪い悪い。そうだな──」と康夫は返事をして、過去を話し始めた──。


 ※※※


「高橋君」


 康夫が勤務先の工場に着いて、タイムカードを押そうとした時、後ろから若い女性が話しかける。


 康夫は打刻をしてから後ろを振り向いた。


「笹原さん。おはようございます」

「おはようございます。作業着の襟、立っているよ」

「え、本当?」


 康夫はネイビーの色をした上着の襟を確かめる。


「あ、本当だ」

「だらしない恰好をしていると女の子にモテないぞ」

「教えてくれて、ありがとうございます」

「どう致しまして。それじゃ、お互い頑張ろうね」

「はい」


 笹原は康夫の返事を聞くと笑顔で手を振り、事務所がある二階の方へと歩いて行った。康夫は自分の職場に向かって歩き出す――。


「高橋さん」


 康夫の後ろから若い男性が話しかけ、康夫は立ち止まると、後ろを振り返った。


「小林君か、おはようございます」

「おはようございます」

「第一課の調子はどう?」

「機械の調子が悪くて……」

「何号機?」

「一号機です」

「あぁ……古い設備だし癖があるからねぇ」

「高橋さん、前みたいに手伝いに来てくれませんか?」


 小林はそう言って、両手を合わせる。


「そうは言っても、それは上司が決めることだからねぇ……」

「そうですよね……」と、小林は言って項垂れる。


 康夫は何だか可哀想な気持ちになったのか「まぁ……時間がある時に、こっそり見に行ってあげるよ」と返した。


 小林は康夫の言葉を聞いて、サッと顔を上げ「本当ですか! よろしくお願いします」と、嬉しそうに返事をした。


「はいよ。それじゃ、また」

「はい」


 康夫は小林に背を向けると、また職場に向かって歩き出した――職場に到着すると、まだ始業時間まで10分あるので、電気が点いておらず暗かった。


 そんな中、職場の人たちは携帯をいじったり、会話を楽しんだりと、各々の時間を過ごしていた。


 康夫は挨拶をしながら、奥へと進んでいく――するとまだ時間があるのに、検査台の前でセミロングの艶のある髪を縛り、ポニーテールにしている真奈マナを見かけた。


 康夫が近付きながら様子を見ていると、真奈はネイビーのツバのある帽子を被り、机をハンドモップで拭きだした。


 康夫はまだ入って二年だから落ち着かないんだろうなと、思っているのか、温かい眼差しで真奈を見つめていた。


「おはよう」と、康夫が挨拶をすると、真奈は康夫の方に体を向け、ペコリと頭を下げ「おはようございます」と、元気ではないがハッキリと挨拶をしていた。

 


「まだ時間じゃないよ」

「えぇ、分かってはいるんですが、落ち着かなくて」

「気持ちは分かるけど、疲れない様にね」

「はい。ありがとうございます」


 康夫は真奈の返事を聞くと、自分の席に向かって歩き出した――。


 ※※※


 昼休みが終わり、事務所にコピーを取りに行っていた康夫は、職場に戻る。すると熟練の女性が強張った表情で、真奈の横に立っているのを見かけた。


 康夫は何かあったか事を察したようで、慌てて真奈たちの方へと近づいた。


「何かあったんですか?」

「この子の検査が遅いのよ! おかげで仕事が溜まっちゃって。後工程の事も考えてくれる!?」

「そういう事ですか。すみません、俺の教え方が悪かったみたいで。ちょっと手伝います」

「早くしてね!」


 熟練の女性は怒りながらも、すんなり去って行った。この女性は仕事は出来る人が、短気の人だった。


「ごめんなさい」と、真奈が申し訳なさそうに小さな声で言うと、康夫はチラッと視線を向ける。続いてチラッと熟練の女性が遠くに行ったのを確認すると、真奈の横にあるパイプ椅子に座った。


「俺もあの人に怒られてきたから大丈夫だよ。最近になって、ようやく慣れてきたところ」


 康夫が小声でそう言うと、真奈はクスッと笑う。


「ところで何で検査が遅くなっちゃったの?」

「えっと……私の悪い癖で、判断が付かなくなると何度も見ちゃうんです」

「そういうことね」


 真奈は真面目タイプだが、人見知りの傾向があるから誰にも聞けなかったのだろう。それを察したのか康夫は「そういう時はさ、俺に聞いて貰って良いから。もし居なくても、避けといて貰えば後で見るから大丈夫だよ」


「分かりました」

「あとさ、口は悪いけどあの人の言う事も間違えじゃないから。人と人との繋がりで仕事は回っているからね。慣れてきたら、そういう所も意識しようね」

「はい、分かりました」

「さて、どれが心配だったか見せてくれる」

「はい」


 ――真奈は康夫が教えることをスポンジのように吸収していく。経験が浅いから悩むことが多かっただけで、ちゃんと時間を掛けて教えてあげれば良いだけだったのだ。

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