第5話

 椅子の一つに腰を下ろし、私も「それなりサンド」にかぶりつく。キャベツときゅうりのしゃきしゃきとした食感に、トマトの酸味と甘辛いやきとりが絡む。ああ、おいしい。

 再びかぶりついた次の一口は、玉ねぎと粒マスタードが効いていた。粒マスタードはなくてもおいしいが、やっぱりあった方がいい。やきとりとの相性もいいし、なんとなくおしゃれなものを食べている気分にもなれる。

 当時「それなりにちゃんとしたものを食べてる気持ち」になるには、付加価値へのこだわりも必要だった。今となっては安いこだわりだが、二十数年前の大学生にとって「粒マスタード」は、それなりに意識の高そうなアイテムだったのだ。

 親になった今は、そんなものにこだわる前にと言いたくなるし滑稽にも見える。まるで、本質を見失っているかのような。でもあの頃の私には、少なくともシラバスより必要だった。

 麦茶で後口を流し、一息つく。

 試行錯誤しつつ作り続けていたが、おいしいと思えるようになるまで二年かかった。おいしくなかったのではなく、感受するための何かが欠けていたのだ。

 泣きながら、作ったこともあったな。

 またかぶりつき、あの頃と変わらない味を確かめる。私が作った、私を救った味だ。直哉も何か、誰のものでもない自分だけの救いを作り出せたらいい。

――生きていればいい、生きてくれてたらそれでいいんだ。

 あの時はあまり胸に響かなかった父の言葉が、今頃になってよく響く。言われる方は、案外そんなものなのかもしれない。あの時も自分の命に両親が願うような価値があるとはとても思えなかったし、その点は正直今も変わらない。そのくせ直哉には父のようなことを思うのだから、不思議なものだ。

 気づくと残り一口となっていた「それなりサンド」を頬張り、指先に残るパンくずを軽く払う。やっぱり、このサンドは優秀だ。

 満足して飲み下したあと、飲み物をコーヒーに変える。ほろ苦い香りに癒されながら、少し冷めた赤墨色を啜った。

 ああそうだ。今晩は、「うちの息子を部屋から誘い出すレシピ」を作らなくては。

 こちらは直哉の最初の不登校時代に作り出したレシピ集だ。いろいろと試した結果、一番直哉の食欲を刺激しストレスなく部屋から誘い出す最強の相棒は、にんにくだった。

 鶏もも肉のストックは冷凍庫にあるはずだし、今日は最強のアレを作ろう。「絶対部屋から出てくる唐揚げwithにんにくダレ」だ。

 そうと決まったら、午後からの仕事前に下ごしらえをしておかなければ。

 思い立って腰を上げた時、携帯が揺れる。手に取ると、清一郎からのメールだった。

 『今晩、8時くらいに行けそう。ごはんよろしく』

 ……お前にも食わさねばならんのか……。

 まあいい、今日明日は無理と言っていたのをこじ開けたのだから、その誠意は買うべきだろう。個人的には厳冬の日本海に沈めたい相手でも、直哉にとっては父親だ。離婚してからの方が「まだ」父親らしいのは皮肉だが。

 噴き出しそうになる不満を追いやり、冷凍庫を開ける。一パックの予定だったもも肉を二パックにして、下準備に取り掛かった。

 鶏肉をレンジで解凍している間に、チャック付きの保存袋で漬け込み用のタレを作る。酒と砂糖、醤油、今日は思い立ってカウンターにあったオレンジも半分、皮を剥きぶつ切りにして加えてみた。爽やかな香りが辺りに漂い、呪いに傾きそうになっていた胸を癒やしてくれる。最後に生姜とにんにくのすりおろしをたっぷり入れて混ぜ合わせれば、完成だ。今日はいつも以上に香りの良い、満足できるタレができた。

 解凍を終えた鶏もも肉は一口大に切ったあと、漬け込み用のタレに入れて揉み込んで放置する。にんにくダレはあとでいいし、ほかは根菜ごろごろ味噌汁でも作ればいいだろう。あれ清一郎をもてなすかのような食事だけは、絶対に作らない。

 溜め息をついて再び書斎へ戻り、原稿へ向かう。今月の仕事はあと一本、地元新聞の連載のストックを書き溜めておかなければならない。大手に比べれば遥かに安い仕事だが、仕事が完全に途絶えた自主産休明けに助けてもらった恩がある。

 仕事で帰れないって、あいつぜんっぜん手伝わなかったからな。

 ふと蘇る産前産後の恨みに溜め息をつき、その勢いで仕事へ向かった。

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