第4話

「あらー、行けなくなっちゃったんですね」

「はい。だからちょっと、ご迷惑をおかけするかもしれません。ごめんなさい」

「いいですよー。このご時世じゃ、サイン会も難しいですしね。書影ができたらまたご連絡しますね」

「ありがとうございます。では」

 液晶の向こうで明るく笑う担当編集にようやく救われて、通信を終えた。二十五歳だったか、今時のかわいらしいお嬢さんだ。でも新卒で大手出版社へ就職したのだから当然、大卒だろう。一単位も漏らさず単位を取得し卒論を提出して就活もして、勝ち抜いて今そこにいる。猛者だ。

 直哉にはもちろん大卒なんて強要するつもりはないし、高卒は願っているものの、強制したくない。ただそのせいで人生の選択が狭まることは、知っておいて欲しい。私は運良くこの武器で金を稼いでいるが、再現性は著しく低い武器だ。

 私は丸四年不登校で一年はほぼ家に引きこもり、社会で働き始めるまでに二年かかった。それを直哉に当てはめると二十歳くらいには回復する予定だが、こちらも再現性は著しく低い。ただ、良い方に転じる可能性だってないわけではない。

 幸い、直哉の「なんか、無理」は勉強には及ばなかった。中学の頃は通信教材を使って私が勉強を教えたが、決められたことはきちんとやった。通信制ではなく普通科の高校進学を望んだのも本人で、私立専願で受験に臨んだ。合格を一番喜んだのは、間違いなく直哉自身だった。きっと「もう大丈夫」だと、思いたかったのも。

――明日からしばらくオンライン授業のみになったので、彼も参加しやすいのではないでしょうか。本日分の課題が出てますので、ログインするよう声を掛けていただけると助かります。

 今朝連絡した私に、担任は動揺することなく返して通話を終えた。まあそうだ、高校だもの。義務教育ではないんだもの。でも私立だから、「お客様」なんだけどね。

 思いきり凭れたら椅子ごとひっくり返りそうになって、慌てて体を起こす。びっくりした、死ぬかと思った。

「……あー、お昼か。何にするかな」

 時計を一瞥して時間を確かめ、進まない原稿を保存して腰を上げる。書斎のドアを開ければ、向かいが直哉の部屋だ。

 一息ついて胸を整え、小さくドアを叩く。

「お昼ごはん、こっちで食べる? 部屋で食べる?」

「部屋」

「分かった」

 小さく聞こえた返事に答えて、キッチンへ向かう。夕飯だけは一緒に食べるのが決まりだが、朝と昼は自分で選ばせるようにしている。あまり、選択肢は投げすぎない方がいい。私が一番ひどかった時は、ゲームの選択肢すら煩わしかった。

 辿り着いたキッチンで食パンのストックを確認し、冷蔵庫を開ける。直哉は多分ゲームをしているだろうから、片手で食べられるものがいい。

 不登校時代に作り出した「ゲームしながら食べられるごはんレシピ」は、それなりにある。まさか、あの頃のスキルが今になってこれほど役立つとは思わなかった。

 苦笑しつつ、野菜室からキャベツとレタス、トマト、きゅうり、残り四分の一ほどのたまねぎ、チルド室からスライスチーズを取り出す。あとはやきとりの缶詰とマヨネーズ、粒マスタード、そして食パンだ。

 たまねぎはみじん切りにして水に晒し、二人分の食パンを取り出す。四枚切りを菱形に置き、頂点から半分手前までスライスしたあと包丁を差し込んで丁寧に中を広げた。

 サンドイッチは手軽だが、具材がこぼれ落ちるところがゲームのお供には不向きだ。でもこれなら底が閉じているから、多少杜撰に扱っても問題はない。

 キャベツとレタス、きゅうりは千切りに、トマトはほどよい大きさに刻んで混ぜておく。缶詰のやきとりはトースターにアルミホイルを敷いた上で加熱、少し焦げ目がつくくらいがちょうどいい。

 開いた食パンの内側にマヨネーズを塗ってスライスチーズを敷き、野菜を載せる。再びマヨネーズを絞って、食欲をそそる香りを立ち上らせるやきとり、粒マスタード、水気を絞ったたまねぎのみじん切りを残りの空間に詰めれば完成だ。

 名付けて「それなりにちゃんとしたものを食べている気持ちになれるサンド」は、試行錯誤の上にできあがった一品だった。不登校で昼夜逆転でゲーム漬けで今更「ちゃんとした」も何もあったものではなかったが、なんとなく、食べるものだけは気をつけなければならない気がした。まあそれも、親の教育の賜物だろう。

 飲み物は、麦茶とコーヒーが定番だ。サンドを食べている時は麦茶の方が喉を通りやすいし、後口を整えるにはコーヒーの方がいい。

 不登校経験者の親が率先して不登校の息子に快適なゲーム環境を整えるなんて、馬鹿なのかもしれない。でも今の直哉を一番救うものがゲームなら、私は二番目以降で構わない。

「直哉、お昼できたよ。開けていい?」

 ドアを前に尋ねると、「うん」と返事があった。日によっては「置いといて」の日もあるが、今日は踏み込んでもいいらしい。

 部屋に入ると直哉は予想どおりテレビ画面に向かいコントローラーを操っていたが、ローテーブルの上には学校用のタブレットが置かれていた。もう、ログインはしたのだろう。

 行きたくないのではない、「行けない」のだ。それも、身に沁みて知っている。

「ここ、置いとくよ。『それなりにちゃんとしたものを食べてる気持ちになれるサンド』」

「ありがと。あとここさ、勝てないんだけど。マジでむずい」

 言われて確かめた画面には、斧を大振りしているボスの姿が見える。

「……斧を大振りした時、体が半分後ろ向くでしょ。回避で回り込んで一回刺して引いて、チクチク削るしかないんじゃない? あと薙ぎ払う動きの時は、できるだけ逃げとく」

「やっぱそれしかないかー」

 直哉は納得した様子で頷き、再び画面へ向かう。

 普通に、アドバイスしてしまった。

 実際のところ、私自身はもう一切ゲームはしていない。四年間あまりに密に付き合ったせいか興味が完全に失せてしまった上に、集中力と忍耐力が続かないのだ。もうあんな風に辛抱強く敵を倒して経験値を稼ぎ続けたりカンストするまでコイン稼ぎ続けたりなんて、とてもできそうにない。もう無理。

 とはいえ興味を持った直哉にゲーム機を与えて以降は、ゲームする姿を眺めたり「先達」としてのアドバイスを与えたりしている。父親でなく母親が、と大抵は驚かれるが、中学時代世話になったスクールカウンセラーには「とてもいいです」と褒められた。

「さっき、父さんからメール来たよ」

 口調は変えないまま、直哉はあまりいい予感のしない報告をする。

「なんて?」

「お父さんはよく分からないけどお母さんはプロだから、今回もプロに任すって」

 お前清一郎、一度日本海に沈んでこい。

「仕事が忙しいみたいでね。さっきメール送ったら、慌てて電話はかけてきたんだけど」

「いいよ、知ってる。気にしないで」

 あっさりと返すが、気にはしているだろう。

 表面上は「性格の不一致」で別れ、浮気とその理由についてはお互い一切口にしないと公正証書に記した。互いの両親にも秘密にしていたのに浮気相手が清一郎の実家に押しかけて全てバレ、私の両親の知るところとなって、結局直哉にも知られてしまったのだ。

 あの時は本当に、二人まとめて日本海の藻屑にしたくてたまらなかった。この手で。

 言葉を選びかねている私の向こうで直哉は「それなりサンド」を掴み、早速かぶりつく。うめえ、と満ち足りた声が聞こえて、安堵した。

「これ、うまいよな。甘いタレのいい匂いがしたから、多分これだろうなって思ってたけど」

「ゲームしながら食べるなら、やっぱりこれでしょ」

「すごい名前だけどな」

 直哉は笑い、また大きくかぶりつく。ちゃんと食べられるなら大丈夫だ。今は、まだ。

「まあ、ゆっくり食べて」

 嬉しそうに食べる表情を見ていたいのはやまやまだが、あまり長居するのも良くない。気持ちよく消えていくサンドを見ていたら、私もお腹が空いてきた。

 もう少しで倒せそうなボスを確かめ、ドアへ向かう。母さん、と聞こえた気がして少し振り向いた。

「ごめんな」

 小さな詫びが聞こえた途端、ぶわりと涙が湧いて慌てて唇を噛む。

「謝られるようなこと、してないでしょ」

 どうにか答えてドアをくぐり、堪えきれず伝ったものを指先で拭う。固くなっていた眉間を揉みほぐし、深呼吸を数度してダイニングへ向かった。

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