その八 市ヶ谷フィッシュセンター
僕の好きな作家である石田衣良さんが、デビュー前に広告代理店で働いていた経歴を知り、僕もそれに倣い、ダメ元で広告代理店の求人に応募してみた。
市ヶ谷で面接が決まり、とりあえず履歴書を書いてみたけど、肉体労働ばかりの経歴しかない事が不安で、ブログで連載していたギャグ小説を印刷して履歴書と一緒に持参する事にした。
ギャグ小説の内容はなんとなく響きが面白いデタラメな言葉を並べて架空のスポーツを想像させるもので、自分で読み返してもそんなに面白くない。
文章能力も笑いのセンスもないけど、とにかく文章を書く事が好き。
スキルも経験もない僕がアピール出来る事はそれくらいしかない。
当日、総武線に乗って市ヶ谷駅で降りた僕は、予定の時間より早く着きすぎ、時間を持て余した。
とりあえず皇居の外堀の川に沿ってぶらぶら歩いていると、テレビドラマで何度か見たような釣り堀が見えた。
市ヶ谷フィッシュセンター。
僕に釣りの趣味はない。
友だちに誘われて海釣りをやった事があったけど、仕掛けをセットする手間や釣り糸を垂らしてひたすら待つ暇に耐えられないうえに、何も釣れない虚しさだけを味わい、その時は釣りの楽しみを理解する事が出来なかった。
大人一時間780円。
レンタル竿110円。
餌110円。
1000円で楽しめる気軽なレジャー。
休日ならまだしも、都会の平日の昼過ぎにこんなところで釣りをする人なんているのだろうか?
ドラマで見るこの釣り堀のイメージは刑事が情報屋と並んで釣りをしながらタレコミの情報を得たり、会社をクビになったサラリーマンが、妻にその事を言えないままとりあえず出勤しているふりをして、スーツ姿でしょんぼりと時間を潰しているイメージくらいだ。
釣り堀を覗くと確かにそんな感じに見える人たちが何人かいて、ジッと釣糸を垂らしている。
みんな一人孤独に水面と向き合い、何かを熟考しているのか、ただ茫然としているのか判然としない状態で、時間だけがただ静かに流れていた。
これから面接を控えてやたらと緊張していた僕はその光景が羨ましく、縁あって市ヶ谷で働く事になったら、いつかそちら側の光景になってみようと思った。
自分が釣り堀で釣りをしている姿を想像しながら面接会場に向かうと、待っていたのはみるからにキャリアウーマンな感じの面接官だった。
僕の緊張はその時点でMAXになり、シュミレーションして来たあざとい質疑応答のセリフは全部飛び、容疑者がベテラン刑事の取り調べに応じるように特に聞かれていない事までボソボソ自白する羽目になってしまった。
志望の動機を聞かれたのに「吉祥寺の町が気に入り、この町で小説家になりたいと思いました」などと上京した理由を答えてしまい、面接官の女性にクスクス笑われる。
「夢があっていいですね」
緊張する僕を気遣って、面接官の女性がフランクな雑談を始めたので、多少リラックスした僕はここぞとばかりに持参した小説を彼女に提出した。
「ブ、ブログに書いた小説を持って来たので、よ、良かったら見てください!」
面接官の女性は小学生が書いた作文を読むように微笑ましい表情で読み始め、その表情をキープしたまま徐々に困惑していった。
それでも最後まで目を通してくれて、一言「面白いですね」と感想をくれた。
当然お世辞なのは分かっているけど、読んでもらえただけでありがたい気持ちになった。
「それでは採用の合否を後日連絡させていただきますので、本日の面接は以上になります。ありがとうございました」
面接終了。
手応えはまったく感じなかったけど、素直に自分をアピール出来た事で気持ちが軽く、すっきりしていた。
帰り際、もう一度釣り堀に立ち寄り、自分がそこで釣りをしている姿を想像した。
会社の昼休みに締め切りに追われた僕が釣糸を垂れ、一人呆けている。
根拠はないけど、そんなイメージを浮かべていたらなぜか受かる気がして来た。
後日面接官の女性から電話があり、結果は見事に採用。
「吉祥寺の町が気に入り、この町で小説家になりたい」
彼女曰く、この志望動機がとても気に入ったらしく、その一点だけで採用してみる事にしたようだった。
石田衣良さんと同じ経歴になっただけだけど、夢に一歩近づいた気がした。
ただ広告代理店で働き始め、行きと帰りに毎日釣り堀の前を通るようになると「いつでも出来る」という余裕が生まれたからか、なぜかそこで釣りをしたいという気持ちはなくなってしまった。
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