その二 井の頭公園の二人がけベンチ
井の頭公園が好き過ぎて、休みの日はいつも公園にいた。
池があるエリアを少し上ると、木陰の中にベンチがたくさんある広場があって、僕はそこでよく本を読んでいた。
二人掛けのベンチばかりだったから、一人で座ると、独身がカップルたちの憩いの場を占有しているようで少し気が引ける。
人間の心理にはパーソナルスペースと呼ばれる、他人に近付かれると不快に感じる空間や個体距離、対人距離というものがあり、僕はこの見えないパーソナルスペースを可視化して、周囲に気を遣う。
にも拘わらず、たまに見知らぬ人たちが、老若男女問わず僕の横に平気で座る事がある。
他人同士の二人掛けはパーソナルスペースを完全に犯している。
だからとても気まずい思いをするはずなのだが、その人たちは何も気にせずそのスペースを埋めてしまう。
僕の存在が薄いのだろうか?
先に座っていた僕だけが緊張して、後に来た相手がくつろいでいる、奇妙な関係性のベンチ。
それがやたらと人懐こい高齢者であるとか、そのベンチが自分の定位置で、誰がいようがどうしても譲れない場所なんだ、と主張する人たちなら、まだそんなに気まずくはない。
ただ相手が若い女の子だったり、僕の好みのタイプの女性だったりすると、僕の脳はパーソナルスペースを侵犯された気まずさを誤魔化すため、「大丈夫、僕たちは即席のカップル♡だ」と都合の良い解釈をしようとする。
その日も朝から昼過ぎくらいまで一人ベンチで本を読んでいた。
するとどこからか、スーツを着た綺麗な女性が颯爽と現れ、僕の横の空いているベンチに座った。
香水の良い匂いがして、すぐに緊張がMAXになる。
女性はコンビニで買ったと思われる弁当を持参して、躊躇う事なく僕の横で食べ始めた。
横目に見ると、それはご飯の上にガッツリ肉を盛り込んだ塩カルビ弁当だった。
爽やかな香水の匂いと、ニンニクが効いた塩カルビ弁当の臭いが交互に鼻をくすぐる。
合コンか何かのイベントがあって、どうしても今日スタミナをつけなければいけない肉食系女子だろうか?
女性は塩カルビ弁当をわりと大口で頬張り、しっかり噛んで飲み込むたびに上空を眺めて溜息をついた。
長期間同棲していた彼氏と別れ、傷心。
そんな気持ちを無理やり切り替えるために今晩合コンに行く。
オフィスで食べたら女子力が低いと思われるから、この公園のベンチでこっそり食べる事にした。
そういう隙だらけな女性であると、僕は想定する事にした。
この寂しさが埋まるなら、隣にいる冴えない文系男子でもいい。
最早妄想であるが、それに近い理由がなければ、彼女としても僕の横で大胆に塩カルビ弁当を頬張るのは気まずいだろうと思ったのだ。
鼻先をくすぐる塩カルビ弁当の匂いがもう彼女の素敵な香水の匂いに勝っている。
僕の横にいるのは女子力を捨てた手負いの女性なのだ。
そうじゃないとこのシチュエーションはあり得ない。
気まずいけど、これは千載一隅のチャンスなのかもしれない。
勇気を出して話しかけてみようかな?
そう思った時、ふいに僕のお腹が「グゥ」と鳴った。
思えば朝から何も食べていなかった。
ひたすら読書をし続けて空腹状態に気付かなかったが、彼女が食べる塩カルビの臭いに体が無意識に反応し出したのだ。
「グゥ」
立て続けにまた鳴った。
ひもじくて卑しい文系男子。
彼女にそう思われてしまう気まずさに耐え切れず、僕は逃げるようにそそくさとそのカップルベンチを後にした。
そして池のほとりの弁財天に賽銭をあげ、なぜか縁結びの願をかけていた。
それからしばらくして願いが叶ったのか、運良く僕にも東京で彼女が出来た。
見知らぬ他人が埋めていた二人掛けのベンチに、正式なカップルとして座る。
その座り心地と木漏れ日の風景は格別で、僕は井の頭公園が益々好きになった。
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