その三 新宿の屁
僕は確信犯的に屁をこく人が嫌いだ。
正確に言うと嫌いだった。
トイレでたまに見かける「あっ」と、吐息を漏らしてから、「ブッ」と、屁をこくタイプの人。
「ブッ」と屁をこいてから「あっ」と吐息を漏らすのであれば、自分の不用意な行為を恥じている罪悪感のようなものを汲み取る事が出来るから許せる。
でも「あっ」と、吐息を漏らしてから、「ブッ」と、屁をこくのは、屁をこく前提で尻の筋肉を緩めているような気がして許せない。
「おならは万国共通の笑いだから」と、悪びれる事もなく屁をこく人も嫌いだ。
つまらないし、臭いし、許せない。
「おなら」という、どこか可愛い子ぶった言い方もなんとなく許せない。
握りっ屁に関しては、法で取り締まるべきだと思っている。
とにかく屁をこいたら万国共通で恥じて欲しいのだ。
屁に対してそんな歪んだ思想を持っていたから、ある夜の新宿の公園のトイレでかなり気まずい思いをしてしまった。
友達と二人で飲み歩き、帰りに催したので、新宿西口の公衆トイレに二人で入った。
二人並んで用を足していると、「あっ」という吐息が漏れ、ブッ、という派手な音がした。
僕はてっきり横にいた友達が屁をこいたと思い、「臭せぇな、確信犯的に屁をこくなっ!」と大声で怒鳴った。
そしたら奥の個室から、か細い声で「すいません」と声がした。
慌てて友達の方を見たら、声を押し殺して笑っている。
間違えた。
トイレには僕と友達だけしかいないと勝手に思っていたのだ。
口汚く罵り合える友達に向かって放った一言だったから、かなりきつい言い方だったと思う。
僕は声が低いので、個室にいた人にしたら、素行の悪い酔っ払いに突然絡まれたくらいの衝撃があっただろう。
酔っぱらった小心者が、個室で蹲っている小心者を傷つけてしまった。
僕はこういう気まずい状況を打破するのがすごく苦手だ。
出来れば時を戻してなかった事にしたい。
でもそれは無理だから「こちらこそ、すいませんでした」と、心の中で謝罪し、友達を待たずそそくさとトイレを出た。
後から出て来た友達が、僕の方を見ながら腹を抱えて笑っていた。
僕はこういうつまらない出来事をわりといつまでも引きずる性格だから、それから他人の屁に少し寛容になった。
そして自分だけは絶対に人前で屁をこかないと、固く誓った。
そんな夜だった。
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