第12話 リバースエンジニアリング

「あゝしんど」


 その一言が、実験手法の説明まで書いた僕の口から漏れた。論文とはこんなにも面倒なものである。脳内ではあれとこれを説明すれば十分と算段を立てているのだが、いざ書こうとするとその何倍もの時間を要するのだ。用語の定義や細かい言い回しを調べながらの作業である上に、文書作成ソフトが言うことを聞いてくれない頑固者である──そして時には要らぬお節介焼きでもある──などの理由で、見込みよりも随分遅くなってしまうのだ。もっとも、見込み自体も甘かったのだろうけれど。


 何より、不可抗力とはいえ内容を妥協せざるを得なかったことがモチベーション低下の最大の原因だった。実験装置さえちゃんと使えたなら、もっと前向きな内容にできるのだけれど。別の高分子を使って、幾分ましな結果を残せたはずだからだ。分かっていながら実行できない歯がゆさは、僕を苛立たせた。  


 こんなもの……書く意味はあるんだろうか。薄暗い学生部屋で一人、僕はそう呟いた。


「書かなくてもいいじゃないか。卒論を提出しなけりゃあ、これからも学生でいられるんだから」


 耳元で誰かがそう囁いた気がした。蠱惑こわくてき的で甘美な声だった。


 その考えが全くなかったと言えば、それは偽りになるであろう。卒論を提出し、十五分間の卒研発表を乗り切らなければ卒業要件を満たせないことは明白だったから、では乗り越えられなかった場合に何が起こるのか、気付けないはずがなかった。


 けれど、恐らく僕は気付かないふりをしてきたのだと思う。何となれば、蓋の押さえを取りその選択肢を直視してしまえば、未来へ向かう意思が削がれると理解していたからである。


 僕の頭の中には、確かに労働の記憶がある。それはたった一年であったし、今となっては夢想とも現実ともつかないけれど、学生としての僕が経験し得なかった責任、圧力、社会性その他……それらが四六時中つきまとい、飛蚊症の如く視界にちらつき続けたのだった。治療法はなく、恐らく死ぬまで続くであろう。死んでようやく解放されるとも言える。


 もっとも、それはほとんどの人間が通る道であるから特殊でも何でもないのだけれど、この数十枚と十五分を乗り切らずにやり過ごせば、しばらくはこの「病」の発症を遅らせることができるという選択肢を直視した時、僕は果たしてその選択をせずにいられるだろうか?

 その場しのぎの勉強で単位を取ってばかりだった自分という人間を内省すると、答えは恐らく否だ。だからこそ、無事に卒業する以外の選択があることを考えてこなかったのだ。その道しかないことにすれば、迷わずに進めるのだから。


 恐らくはそんなところなのだろう。自分自身の無意識の思考を言語化する習慣はなかったけれど、改めて整理してみると、自分という人間の動作プログラムが少し分かったように思う。見ようによっては、自分で自分を鹵獲ろかくしてリバースエンジニアリングしているような、ある種のループに陥ったような、不可思議な気分になった。

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