第10話 周到

 准教授の助言を得た僕は、卒論を書き始めた。大まかな章立てを決め、まずは序章の執筆に取りかかったところで、あることを思い出した。


「待てよ、自分宛てに送信してたような」


 そう、一年前の僕は、自分の学内アカウントから個人アカウントに向けてメールを送っていたのだ。卒論を一章ごとにメールに添付し、大きな修正を加える度に送信していった。卒論を阻害するあらゆる不測の事態に備えて……。


 巷でよく言われることだが、卒論・修論・博論の時期には魔物が現れるのだそうだ。締切前の実験装置は突如として壊れ、USBは折れ、実験データは破損し、パソコンは煙を吐き、学生は寝坊し、交通事故に遇い、インフルにかかり、学内のプリンタは全て詰まるのだ……。大学とは、ともすれば象牙の塔と評され机上の空論ばかり並べ立てていると受け取られがちであるが、少なくともこの現象については空論でも何でもなく、所属した誰もが体験する真理なのである。


 魔物に対する有効な策として、一年前の僕は常にバックアップを取ることにしていた。メールやUSBを始めとしたさまざまな手段で、実験の生データや論文の各章、発表スライドを物理的に二カ所以上に逐一保存した。また修正前後のファイルはその過程を後々追跡できるよう、逐一名前を変えて保存した。だからファイル名後半の「第2稿」「第2稿_完成版」「第2稿_最終版_改」「第2稿_一部修正中」などを見れば、それらを書いた僕本人であればどの時点でどう変えたものか識別できるはずだ。

 今でもそれらを参照できるだろうか。できたならば、作成に要する時間を大幅に短縮できるかもしれない。


 僕は、メールで絞り込み検索をやってみた。


──────────

1122/03/34

──────────


 ところがそれはあり得ない日付だった。一年前に僕が書いた卒論は確かに保存されていたが、その更新日時は真に僕が書いた日時ではないことが明確だった。


「修正しすぎておかしくなったかな……中身が読めればそれで良いのだけれど」

 一縷の望みを託しつつ、僕は文書ファイルを開いた。


「繧ウ繝斐?縺吶s縺ェ繧ッ繧ス驥朱ヮ縲り?蜉帙〒譖ク縺」


 どうにも訳が分からない……一体どうなっているのか。

 何とか復元して読めないだろうか。それ自体が魔物と化した卒論の文字列をコピペし、再変換を試みた。これらは現在の僕には読めないけれど、一年前に執筆した時点では可読な文字列だったはずである。であれば、一年前の僕がキーボードで「あ」と打ち込んだ行為自体は今更変わりようがないのだから、「あ」の打鍵で発生した電気信号を今日は別の変換則に則って「縺」と表してしまったのかもしれない。両者の変換則の対応さえ分かれば、何とか解読できるのではないか?


 0と1の世界……この分野には全くの素人だけれど、僕なりに小一時間取り組んでみた。


「全く分からん……」


 学生部屋に悲壮な声が漏れた。それは笹鳴りと思われるほどに小さかった。


011011100011011100011011100011011100…………


 無限に続く0と1の世界は、予想通りと言おうか、初学者には随分と敷居が高かった。何となく分かると思えるレベルまでに要求される前提知識は、決して少なくない分量であった……。

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