第9話 研究の意義
ガス透過試験はおろか、引張試験さえできないなんて。こんな状況下ではどう頭をひねっても名案などあろうはずがない。これまでに得たデータから何とかするしかない。「何の成果も得られませんでした!!」などという恥さらしな論文を挙げる他ないだろう。それで構わなければ何のことはない。第一稿は来週にでも書ける。だが、だが……一年前の実験結果を僕は既に知っている。 実験設備さえ無事なら、別の材料を試してもっとマシな結論を書けるのだ。分かっていながらそれについて何も触れずに卒業してしまうのは、一生後悔することになるんじゃないか……。
自席に飾った鉄道模型をぼうっと眺めていると、准教授が学生部屋に入ってきた。珍しいことだ。
「ああ、お疲れさま。設備はまだまだ復旧しそうにないね」
「はい……」
「今後のことなんだけどね、今から新しい材料を試そうとするのは、やはり難しいと思う。君もミーティングで答えていた通りね。したがって卒論は、この材料とこの材料は従来材料以上の性能を恐らく持っていない、とするとまとまりが出てくるだろうね」
「でも先生、それでは本研究は優れた成果を残せなかったということを前面に出すことになります。それは卒論としてあまり前向きでないように感じます」
僕の返答に対し、准教授はちょっと苦笑いしてこう答えた。
「いや君がそう思うのも無理はなくてね、それはその通りなんだ。だけどね、『この方向は進んでもうまく行かない』という知見を得られたじゃないか。それだって十分立派な成果だよ」
「そうでしょうか……」
そう言われても、何だか釈然としない。僕を慰めるために言ったに過ぎないのだから、当然かもしれないけれど。
「不思議そうな顔をしているね。よし……つまりね、こういうことなんだ。
君がこの一年間目指してきたのは、都市ガスの配管用の材料としてガス透過性が良好で経年劣化しづらく環境負荷も低い優れた材料を見つけることだ。その観点からだけ見れば、君が発表したように、君の研究では従来材料よりも優れているとする結果は得られなかった、つまりうまく行かなかった、となるわけだ。
だけどね、そもそも科学の発展はそういう無限の失敗の積み重ねの上に成り立っているものだから、そう悲観することはないし、思う通りの結果が出なかったことについて君が責められるべきでもない。重要なのは、その結果から分かったことを後世に残そうとすることだよ。これこそが、研究で最も大事なことと言っても良い。
君は現行材料の分子構造に注目して、単位体積あたりの水素結合が多い分子を採用したわけだね。中でもHーO同士の結合にだ。なぜかって、SやClを付加して強化するよりも処分が容易だからね。生産から廃棄までの全行程を考えたサステイナブルな社会の実現に向けて、これは必須の条件だ、ということだね。
この考え方は全くもってその通りだし、それに基づいてxxxx系の高分子を選定したことも妥当な方針だ。重要なのはそこから先だ。見方を変えると「現行以上の性能を得るにはxxxx系はどうも向いていなさそうだ」という知見が得られたわけだ。これだって重要な知見と言えるわけでね、君はもうすぐ卒業してしまうからこの研究はこれ以上やらないと思うけど、君の卒論を読んだ他の人が「この人はxxxx系は不適って報告してるな。じゃあ別系統の高分子ではどうかな」となって、そこから新たな研究が始まるかもしれないでしょう。君のやったことが誰かの刺激になって、そこから人類にとって大きな成果が生まれるかもしれない。だから、この研究で当初意図していた結果が得られなかったことのみを以て『失敗』とは捉えないでほしいな」
言い終わると、准教授はニコッと笑って出て行ってしまった。マスク越しとはいえ、学生と科学の発展を願う気持ちが感じられた。
(注:この分野には詳しくないので高分子の分類等を空欄にしています。良さそうなものをご存じの方は、ご一報いただけると嬉しいです)
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