第5話 エントロピー
室内は大学生の時分そのままであった。食べ終わったままの食器が積まれたシンク、展示品処分価格で買ったノートパソコン、無数の本──それらの多くは未だ読まれぬままに
ともあれ、ひとまずは衣食住の心配がなくなった訳だ。当座の生存に支障はなくなった。飯を食って寝て、それから考えよう。酷く汚れが付着した冷蔵庫を、僕は漁り始めた。
炊飯器のスイッチを押した僕は、足の踏み場もないような部屋の奥に広がった敷きっぱなしの布団に腰を下ろした。元より薄手であったその布団は、耐用年数をそろそろ越えたと見え、生地を通してなお床の硬さがありありと伝わってきた。
スマートフォンを開くと、LINEの通知が来ていた。研究室の同期からだった。
「スマホの調子悪いん? まあ話してたのは明日のミーティングのことだよ。進捗なくてやばいなって話」
おお、そうだ。この感じだ。最早驚きよりも懐かしさの方が圧倒的に上回っていた。 続いて他のメンバーからの返信もあり、状況が掴めてきた。どうやら明日は毎週恒例のミーティングがあり、同期が進捗を報告する番のようだ。そして彼は進捗がない、と。まあ頑張ってくれ、と思った。ひとまず僕の番ではなかったことに安堵した。
「明日はちょっと早めに行くわ。色々気になることができたから」
そう返信して間もなく、また同期から返信が来た。
「いや、明日は俺ら学部四年はオンライン参加の日でしょ。急ぎの用なら誰かと交代になるけど、どうする?」
オンライン参加、とは……? そんなのあったか?
「コロナが流行ってるから、学内も人数制限してるじゃん。忘れたん?」
あ、そうだったそうだった、と返信したものの、実のところ、その言葉は僕を動揺させた。
一体、今はいつなのだろう…………
どうも訳の分からないことばかりだが、ここに至ってますます頭が混乱してきた。事態は想像以上に複雑なようだ。
大学に荷物を取りに来た時点までの認識では、僕は丁度一年前に大学を卒業して、現在は会社員として働いていると思っていた。ところがその後起きた不可思議な出来事を踏まえ、実はこの一年間の記憶そのものが偽物であって、実際は一年前の時間を生きているのだと認識を改めた。会社員生活の記憶をいつどのように擦り込まれたのかはこれから探る必要があるが、とにかくそういう状況だと無理矢理に理解することにした。
ところが今、同期は確かにコロナのことに触れた。コロナが流行り始めたのは一年前、つまり僕が卒業する前後である。したがって一年前である現在にオンライン会議や人数制限の話などあるはずがない。一年前でありながら一年前でなく、現在でありながら現在でない。それが一体どのような解釈の基に成り立つのだろうか。僕が生きる現在この時点は一体どの時間軸に乗っていて、どの座標で表せば良いのだろうか。
時間という無限に広い曲面の上を、僕から見える世界だけが急に滑り始めた。何だかそんな気さえしてくるのだった。
もう今日は寝てしまおう。夢の世界に入ってしまえば、次に目が覚めるまでの間、嫌な現実からしばし目をそらすことができるのだから。久しぶりの薄い布団は存外に心地よく、僕の意識はすぅっと消えていった。
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