第4話 あるじ

 四年間に渡って我が庵であった建物へと続く道を背にして、僕は駅へと歩み始めた。


 車道まで出たところで、僕の目に蟲惑こわく的な一文が飛び込んできた。それは向かいの寺院の掲示板だった。


「やって反省、やらずに後悔」

「死を前に惜しむは後者なり」


 住職の自筆と思われるそれを読んで足が止まった。確かにどこかで聞いたことがある。何かに対し迷っている場合、行動した後悔より行動しなかった後悔の方が勝るという研究結果があるとかないとか、何やらそんな感じの内容だった。


 人の心は川の流れのようなものと聞く。進路を変えんとする一枚の掲示によって、僕の心は、にわかに澱み始めた。このまま去れば、やらなかった答え合わせをいつまでも悩み続けるに決まっているじゃないか。今振り返ってほんの少し歩けば、無益な逡巡しゅんじゅんをせずに済むのだぞ、何を迷っているのだ。そんな声が聞こえてきた……。


 いつしか僕は、階段を上り始めていた。薄い鋼板を曲げた踏み板は、一段歩む度に軽い音を立てた。


 上りきった先にある鈍色にびいろの扉は静かに佇み、鍵穴は陽に照らされて輝いていた。鍵穴はあるじの留守中を従順に守りつつ、かつその眩しい光は確かに主の帰りを急かしていた。その期待に応えねば。僕が右手を差し出すと、社宅の鍵はすうっと引き込まれ、そして何のこともなく飲み込まれた。そのまま手を右へ回すと、がちゃりという懐かしい音がした。


「ただいま」


 その言葉が、僕の口から滑り出た。

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