第2話 だまし絵
ともかく入れてしまったのだからと、中を見て歩くことにした。まだ建築資材の匂いが取れない階段を五階まで上り、隣の建物への連絡橋を渡ると、四階に辿り着いた。このややこしさは、僕が大学を離れた頃と何一つ変わっていない。
それにしても、なぜあの学生証で建物に入ることができたのだろう。僕がまだ学生だとでも言うのだろうか。いや確かに、僕の卒業論文は学位の授与に値しないと言われても仕方のない酷い仕上がりだったけれど……。
人生の階段を一つ上ったと思っていたのだけれど、実のところちっとも変わっていない、ということだろうか。この一年間、社会人として新たなステップを確かに踏んできたと認識していたけれど、どうにも自信がなくなってきた。
とすると、この一年間、僕は何をしてきただろう。自分の周囲、手が届く範囲しか見てこなかったように思う。自己満足の卒業論文を書いて何とか卒業させてもらい──今振り返ると、それは指導教員からすると厄介払いだったのかも知れない──会社に入って丁重に扱ってもらい、けれど誰と親しくなるでもなく、目しか見えぬ人々の中で日々のほとんどを過ごし、これから数十年生きる世界に漠然とした不安を抱き、たまの週末は昔の友人を頼って画面越しに酒を酌み交わす……思い返すと、そればかりだった気がする。
そんなぬるぬるとした日々が、この一年の間にあったことは事実だと、つい先刻までははっきりと断言できていた。
と、壁を見ると、案内板が貼ってあった。ステンレス地に黒文字で「←B棟四階 A棟五階→」と書いてあった。この連絡橋を境に、此岸は四階、彼岸は五階である。いずれも同じ高さにあり、連続した床でありながら、世界を異にしているのだ。連続しているように見せていながらいつの間にか元いた階層でなくなってしまうこの
「エッシャーだ」
僕はそうつぶやいた。エッシャーのだまし絵のように、どこも正しく繋がっているのに、いつの間にか何かがおかしな空間になっているのだ。今僕がいるこの空間は、何かが上手く繋がっていない。もしや、ひょっとすると、この僕ですらも…………急に自信がなくなってきた。この一年間の僕の記憶は、それがどの段階でかは分からないけれど、一見つじつまが合うように後付けされたものではなかったか。実のところ社会人になどなっていなかったのではないか。
「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに」
かつて在学中に夢中になって読んだ本の一文が思い起こされた。 記憶もなければ何もない所へ来てしまったと、僕は思った。
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