第1話 帰福

 焼きたてクロワッサンの香りに満ちた博多の大ターミナルを、僕は久々に駆け抜けた。見慣れた売店、見慣れた行列、見慣れた階段……ほんの一年前まで過ごしていたこの街は、かつてと殆ど変わらず、僕を迎え入れた。続く天神の街並みも、再開発が進んでいるとはいえ、変貌ぶりに驚くほどではなかった。


 ああ、これこそが我が青春の地だ。確かに帰ってきたぞ。心の中で、そう呟いた。


 一年前と大きく異なるのは、道行く人が皆マスクで顔を覆っていることだ。無論この一年間大流行している感染症の予防のためである。頭では分かっていても、記憶と同じような街並みで行き交う人だけが大きく変わっていることに、酷く違和感を覚えた。あの福岡の街とそっくりの、平行世界に来てしまったかのような錯覚に陥る。この地もまた、激動の一年間を経て変わったのだと実感した。


 天神の街から更に一時間、六年間通った象牙の塔へ戻ってきた。この辺ではまあまあ広大な土地を持つ、玄海げんかい大学 壱岐里いきさとキャンパスである。名前ばかりの最寄り駅や市街地から徒歩一時間のこのキャンパスは、お世辞にも住み良いとは言い難い立地であるし、バス代も上昇する一方で、その不便さに学生たちは「限界大学」などと評したものであった。僕の在学中より更に運賃は上がっていたが、社会人になり多少の財力を得た僕には、それらはいずれも些末な問題であった。


 サークル棟の一室に入り、永らく置きっ放しにしていた荷物を回収した。これこそが今回の帰福の目的であった。在学中に製作した自称「便利工具」を取りに来たのである。一年前は引っ越し先の社員寮の収容能力が分からないという名目で、一旦大学に残すことにした。けれどその後後輩から「早く撤去してくれ」「何とかしろ」との言葉を轟轟ごうごうと浴びせられ、やむなくこの度撤去しにせ参じたという次第である。卒業後一年目にしてクソOB扱いされてはたまらないということで、渋々撤去しに来たのだ。


 さて回収が終わってしまうと、もうやることはない。時節柄、知り合いとの再会もためらわれ、一人でぼうっとするより他にない。ならば思い出の地を巡ろうと、キャンパス内を適当に歩き始めた。


 玄海大学壱岐里キャンパスは山の上を更地にして造ったものだから、麓から頂上に向かって至る所で段差が付いている。建物間には丁度一階分の段差があり、B棟の一階は隣のA棟の二階の高さにある、といった具合である。僕たち玄海大学生たちは常々「壱岐里キャンパスは時空が歪んでいる」などと言ってわらい合ったものである。そんな記憶を懐かしく思いつつ、A棟とB棟の境目にふらりと立ち寄った。


 どこかで、ぼん、という音が聞こえた。


 今日は休日であり、入館には学生証が必要である。在学当時の学生証を、扉の読取り部にかざしてみた。

「はは、開く訳ないか」

 と、その時、ゴゥ──ンと音がして扉が開いた。他に人もいないというのに。卒業と共にIDが無効化されたはずの学生証が、何かの誤作動なのか、認識されてしまった。

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