第2話   序列1位 バエルからの依頼①

 バエルが案内したのは、彼が普段使っていると言うマンションだった。マジックミラー式の自動ドアに、柔らかいオレンジ色のロビーが出迎える。しかしエレベーターはガムテープで補強しており、ときおり別の階層に止まっても、扉が開かないままに彼らを最上階へと押し上げていった。


「何度も誤作動を……申し訳ありません。聖歌隊の襲撃に遭って以来、まともに直せる技術者に恵まれなくて」


「聖歌隊がこのマンションに来たのか」


「はい……。攻防虚しく突破され、三階まで壊滅的に。お恥ずかしい限りです」


 歪な音を立てて、エレベーターが大きく揺れた。そして停止してしまう。彼が少々苛立った風に、開くボタンを連打した。一度は開いた扉は、彼が押した閉じるボタンで再び閉まる。エレベーターがまた上へと動き出した。


「パパ、聖歌隊って、お歌うたう人たちのことじゃないの?」


「いいや、地上の人間が使う言葉通りの意味は、ないな。やつらは、オンチだ。そして天使の歌声とパイプオルガンではなく、銃声と剣戟を披露してくれる。まあ、見かけたら逃げるのが得策だな。今のお前では敵わんさ」


「怖い人たち、なの……?」


「ああ、そうだとも。建物と我々を、破壊しに来る」


 思いがけない物騒な言葉が父の口から溢れて、小さな少年はゾッとした。


「なんで、そんなことするんだろう……。バエルさんは、何か心当たりとか、ありますか?」


「あるよ。しかし、そうやすやすと攻撃を喰らうつもりはないね」


「……そうですよね。何かしでかしちゃって、恨みを買ってしまったんだとしても、やっぱり痛いのは、イヤですよね」


 ネフィリムは、父が良かれと思って財布をぱんぱんにした日を思い出していた。


「僕も、何かの弾みで聖歌隊の人たちに恨まれる日が来たとしたら、やっぱり逃げちゃいます。武器を持っている大勢が襲ってくるだなんて、全く勝てる気がしません、から……」


 ネフィリムは昨日の警邏隊に呼び止められたときのことを思い出していた。きっちりと武装した集団に取り囲まれたときは、おとなしく従うしかなかった。



 原動力がなんとなく予想が付く、このエレベーターと違い、ネフィリムが育ってきた街は、いったい何がどうなっているのやら、秩序的なモノがあまり定まっていない不思議な景色ばかりだった。ネフィリムはずっとずっと、周囲に違和感を抱きながら生きてきた。

 今は、故障気味でもボタンを押しさえすれば、その階層に停止してくれるエレベーターに、安心する。自分は神経質なのだろうかと、ひっそり思い悩んでいると、「着いたよ。最上階だ」と若々しいテノールボイスに励まされて、顔を上げた。


 バエル氏の微笑と、補乳瓶の中身の右目玉がニッコリ弧を描く絵面に見下ろされていた。


 開くボタンを押してもらって、おっかなびっくり、灰色のふさふさ絨毯へと靴底をくっつける。そのふさふさっぷりは、とても来客を招くために敷かれたとは思えないほど靴底に絡みつき、ネフィリムは何度か転びかけた。


「ふわっ!」


 ついに腹ばいで転んでしまった。手を床について一回転して起き上がったネフィリムの、人形めいた関節の可動範囲に、バエル氏の銀色の双眸が、びっくりまなこで釘付けになる。


「体、すごく柔らかいんだね」


「ククク、こやつに関節技のたぐいは、あまり効果がないかもな」


 片面の壁はマジックミラーのガラス張りで、高所に抵抗がなくても目眩がしてきた。先導するバエルの「こっちですよ」と言いながらカードキーを扉横のカードリーダーへかざす姿に、ようやく安全地に入れるのだと安堵する。


 そして開かれた扉の奥が真っ暗で、バエル氏が先に部屋に入っていっても一向に明るくなってくれないので、もしやとネフィリムが声をかけると、「どうぞ?」と不思議そうに返事をされたので、仕方ない、真っ暗な玄関をくぐっていった。


 光源はテーブルや低い棚に置かれた、金色の燭台に揺れる炎、今し方バエル氏が灯したようだった。そして星座のように夜景が見える大きな窓が、ぼんやりとリビングを照らしている。


(あれ? さっきまでお昼だったのに……この国も、パパの国と同じでヘンテコなのかな)


 薄暗いが不思議と不快感のない、ゆったりとした空気が流れている。壁際のタンスも、文机も、青や黄色などの鮮やかな色彩で、暗がりの中でもその輪郭を主張していた。


「僕が使っている書斎兼リビングです。狭くて、すみませんね」


「いいえ、そんなことは。狭いのか広いのかもわからないくらい暗いので、気にしてませ……あ! いえいえ! なんでもありません! ソファ、ふかふかで気持ちいいですアハハ!」


 一人掛けソファの上で、ぽよぽよと体を上下に揺らしてみせる少年。その際、頭上を浮遊する哺乳瓶に頭頂部をゴチッとぶつけて、親子で目を丸くして固まっていた。


「ごめん、パパ」


「痛かったぞ」


「次から気をつけるね」


 ネフィリムが頭のタンコブをさすっている間に、バエルはテーブルの上の新たな燭台へと、マッチを擦っていた。そっと灯された小さな火は、彼の端正かつ彫りの深い顔を、より妖艶に揺らめかせた。伏せられたまぶたに、長いまつげが影を作って、憂いを魅せている。


 就寝前のような暗さの部屋に、ネフィリムは目をぱちくりしていた。父の私室も暗いが、ここも負けず劣らず、大人は明るい部屋には住まないのかと勘違いしそうになるほどだ。


 部屋の扉がノックされて、バエル氏が声で返事すると、レースたっぷりの白いエプロンを付けた給仕の女性が、お茶を乗せたサービングカートを押しながら入ってきた。あのふさふさの廊下で、車輪を詰まらせずにどうやって進んできたのかとネフィリムは疑問を抱いたが、ここで訊くべきことではないと判断して、ぐっと飲み込んだ。ガラス製のポットに揺れるお茶は、明かりのせいで黒く見えた。白い皿に並んだ紅茶クッキーの、アールグレイの茶葉の粒々まで、あんまり美味しくなさそうに見える。明かりは食事にとって大切なのだと、少年は密かに学ぶのだった。


 でも香りは美味しそうである。鼻いっぱいに楽しみたく思った。



 一人掛けソファが二つ、微妙に斜めで向き合っている。椅子二つの間には、大きな円い大理石のテーブル、その上には高低さまざまな蝋燭たちが、思い思いの色の炎を灯らせ、部屋の壁に人物たちの影を揺らしていた。


 ここまで来るときに検問に引っかかったことを父に暴露されたりと、ネフィリムが散々な目に遭っていると、バエル氏から苦笑まじりに話題を切り出された。


「それで、依頼の件だけど」


 依頼と聞いて、ネフィリムがパッと華やいだ。


「はい! どなたか恋愛に悩んでいるお二方はいらっしゃいませんか? 僕が成就させてきます!」


 えへん、と胸を張る少年だが、セールストークスキルが足りなくて、お客に何も伝わっていない。微笑を浮かべたまま小首を傾げるバエル氏に、哺乳瓶から助太刀が入った。


「以前会ったときに話したろう? この子は恋のキューピットになりたいそうだ。子供のごっこ遊びだと思って、つきあってやってくれ」


「ふふ、はい」


「パパ、僕は本気でキューピッドを目指していますよ。パパの国にいた何名かを、ボウガンで幸せにしてみせたじゃないですか。ごっこ遊びじゃないってこと、バエル氏にも証明してみせますっ!」


 バエル氏が、乾いた苦笑を漏らした。


「きみの実力に不満はないよ。だから僕は、依頼の手紙を出したんだ」


 少年は「あ」と我に返り、「す、すみません、取り乱してしまって……」と小さな声で謝りながら、うなだれた。


 すさまじく落ち込む少年の、頭のてっぺんに、こみ上げる笑いを堪えるバエル氏。少年の目指している将来の夢も愉快ながら、些細なことで一喜一憂する起伏も、じつに子供らしくて……羨ましく思った。


「気にしてないよ。どうか顔を上げて」


 言われるままに、おずおずと顔を上げるネフィリム。バエル氏が席を立ち、文机横の棚から、ファイリングされた書類を取り出し、そのうちの一枚をテーブルに広げて見せた。


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