第13章-⑤ 巻返し

 国都アルジャントゥイユ、そして王宮たるレユニオンパレスに帰着したロンバルディア教国遠征軍は、即日、1ヶ月の休暇に入った。本来、3万人近い正規軍が一斉に休暇を取るなど考えられない状況だが、これはクイーンの温情とでも言うべきものであろう。彼らはデュッセルドルフでの奇襲戦以降、最も困難な3ヶ月を経て、無事に王宮に戻ってくることができたのである。帰らぬ者となった同胞の分まで、存分に休み、存分に楽しむ、その資格があり、あるいは義務があった。将校や兵卒を問わず、全員に一時金も下賜かしされた。

 どの帰還兵も、生還や再会の喜びをはじけさせ、宮殿、市街のあちこちで思い思いの休養を過ごした。

 エミリアも、ヴァネッサも、無論クイーンも、あらゆる公務から逃れ、慣れ親しんだ王宮の寝台に寝そべって、その極上の寝心地に身を預けて惰眠をむさぼっている。

 平和で、豊かで、穏やかな、戦時中とはまるで思えぬ本国での暮らしがそこにはあった。

 ただ、それは言わずもがな、国境を死力を尽くして守る精兵がいればこそではあるが。

 翌朝、クイーンは早くもその日課から一日を始めることで、心身の若々しい活力を取り戻そうとしているように見える。戦地を彼女とともに駆け抜けた愛馬アミスタにまたがる姿に、遠征の疲労は少なくとも表面的には微塵も感じられない。

 この朝、乗馬の供は旗本のクレアとサミア、身辺の護衛責任者はクイーン留守中の宮殿を預かった百人長のフェリシアが務めている。

 エミリアやヴァネッサは当然のように、それぞれの務めを果たそうとしたが、クイーンの厳命で、休息することとなった。どの道、翌日からは山積した政務や軍務に忙殺されることになる。せめて帰還の翌日くらいは完全休養にあてるのがよいとの判断である。およそ遠征に参加していた者は例外なく、任務に就くことを禁じたのであった。

 クイーン自身、政務はフェレイラ議長とロマン神官長、軍務はランベール神殿騎士団長に従前通り預け、いくつかの急を要する報告を受けたほかは、誰とも面会の予定を入れず、日中は乗馬から始まり、チョコレートを飲み、ドレスを選び、香水をたしなみ、庭園を散策し、花をで、夜は肩まで伸びた栗色の髪を短く整え、好物のラザニアを楽しみ、入浴をし、読書をし、星空を眺め、一日を私人としての時間で埋めつくした。恐らく、クイーンにとってはプリンセスの時代を含め、公務からほぼ完全に隔離された初めての日となった。

 翌日からは、クイーンは文字通り秒単位でスケジュールをこなした。

 まず、朝の乗馬のあとは、フェレイラ議長とロマン神官長から政治向きの事柄について報告を聞くとともに、緊急度の高い案件はその場で即断し、決裁を下している。午後は国都と宮殿を守るランベール神殿騎士団長とフェリシア近衛兵団百人長に軍の配備状況等について聴取を行った。さらに各国の常駐使節と面談し、夜は義妹のコンスタンサ王女と会食するなどして、ようやく息がつけたのは夜も深まってきた頃である。

 その時間、クイーンはエミリアとともに食後の紅茶を楽しんでいたところ、ヴァネッサがやや不安げな面持ちで現れて、

「クイーン、おくつろぎのところ申し訳ございません。私が帝国領で引き合わせたヴァイオレットという者が、ダフネを通じて急ぎの面会を求めているようです」

「レティさんが」

 クイーンは、その不思議な力を持つ老婆の名前を、よく覚えていた。

 すぐに、レティは現れた。部屋に入って早々、

「光の術者は籠絡ろうらくされた。もう世界の災難を救う方法はないよ」

 クイーン、エミリア、ヴァネッサは、彼女のまるできつねにでもかれたような異様な気配に一様にたじろいだ。胸が苦しいのか、時折うめきながら、ひたすらに絶望を口にしている。

 クイーンは老婆の苦しげに震える背中に掌を添えた。

「レティさん、どうされたのです。ダフネからの報告書を読みました。サミュエルさんは、単身で王国へ旅立ったと。彼の身に何かあったというのですか」

「お嬢さん、もう希望はないかもしれないよ」

「まさか」

「お告げでは、光の術者はその輝きを失い、闇は力を増したとある。光が闇に食われたんだろうさ」

「それではサミュエルさんは亡くなったと、そういうことですか」

「分からない。ただもう世界に光はない。闇の氾濫を食い止めることはできないよ」

 レティの言を、非現実的な妄言だと断ずることは、彼女らにはできなかった。何しろ氷の術者は偉大な預言者であり、自らをそう称するこの老婆の言葉に信憑性しんぴょうせいを持たせる材料は揃っている。レティが、世界に光はないと言う以上、それはもはや動かしがたい事実なのであろう。

 クイーンが、不安、というよりはうそ寒さを隠しきれない声で尋ねた。

「レティさん、本当にもう希望はないのですか。本当に何も?」

 レティは答えもせず、しばらく苦しみもがくように弱く速い息を繰り返していたが、やがて突然、顔を上げた。丸い顔のなかで、まぶたがさらに丸く大きく開かれ、瞳孔が激しく揺れ動いて、その表情はとても正気とは思われない。

「ある」

「どのような?」

「言えない、言えないよそれは」

 あとはどう問いかけても術者の幻想世界から帰ってくることはなく、ぶつぶつと小声で何事かを漏らしながら、部屋を出ていってしまった。

 希望はある、と言いながら、それは言わない。

 三人は不穏な予感と憂慮のためにもやもやした気分を共有しつつ、最終的にクイーンが不吉な空気を振り払うように、指示を下した。

 つまり、諜報局のマニシェ局長をして、王国への密偵を増員し、特に王宮の内実を探るように命じたのである。皇妃スミンの動向やサミュエルの消息は無論のこと、王都トゥムルの様子を調査し、変わった点がないかを報告させることとした。

 しかし実のところ、間諜を配置する以外は、打つ手がない。場所ははるか彼方の王国領であり、敵国の根拠地である。王宮の警備や防諜も厳しいに違いない。

「シュリアさんが戻ったら、彼にも王国の動きを探ってもらいましょう」

 シュリアは帝都ヴェルダンディでメッサーシュミット将軍の流言を広め、それを特務機関やヘルムス総統に信じ込ませることによって、目論見通りに将軍を解任させることに成功した。以来、未だ合流できずにいるが、あの男ならば活路を見出し、王都トゥムルの、しかも王宮の内部にまでたどり着けることであろう。たとえ泥水を飲んででも、危地を脱し、しぶとく生き続ける男だ。

 また、いつまでも術者の件に気を揉んでいられるほど、彼女らに時間がないのも事実である。目を通すべき報告、決済すべき案件はそれこそ気の遠くなるほど多く、かつは傷ついた軍備の立て直しと、帝国への反攻計画を立案するための情報収集や兵站の構築も手配りせねばならない。

 軍は、少なくとも遠征軍の出撃前の規模に戻すのに加えて、拡張も必要である。キティホークの会戦で大打撃を受けたとはいえ、帝国軍はなおも強大であり、教国単独では抗しえない。軍をさらに強化し、武具を整え、糧食も備蓄する必要がある。

 このため、やむなく戦争終結までの一時的かつ段階的な増税も決定した。まずは富裕層に対する施策で、現代的な表現をすれば要するに所得税の引き上げである。やがては物資流通の統制にも迫られるであろう。

 当然のことだが、外交関係にも力を入れねばならない。ラドワーン王及びオクシアナ合衆国との連帯にはわずかなほころびも許されない。特に帝国への侵攻は、両者と緊密な連携を保ちつつ、三方面から同時に進撃することが予定されている。

 その成功のためにも、強力な軍と、盟友との親交は、不可欠であった。

 帰還早々、教国全土はクイーン・エスメラルダの強力な指導のもと、まるで馬車馬が脚を回転させるような猛烈さと忙しさで活動を始め、きたるべき帝国との決着に向けての気運を高めつつある。

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