第13章-⑥ ベルヴェデーレ要塞にて

 レーウ大将率いる第二軍集団は、キティホークの会戦後、その実戦司令部機能を失い、帝国最大の軍事基地であるベルヴェデーレ要塞近くのシェーンブルンの街に入った。

 従う者わずか800名。会戦前は3,000名の司令部直属部隊がいたわけで、この差分はつまり、教国遊撃旅団との戦いで死傷したか、あるいは撤退のなかで四散して合流できずにいるのであろう。司令部がそれほどの損害を被るというのは、特に負け戦においては前線における混乱を示すものであり、司令官にとっては恥ずべきことである。

 ただし、レーウの最大の不名誉は、敗戦ではなく、部下に対する指揮権を事実上失ったことにあるようだ。彼はキティホークの会戦ののち、第四軍のリヒテンシュタイン中将と第五軍のツヴァイク中将にしつこいまでに伝令を送って、自らの指示に従い、撤退を中断して戦線を再構築するように求めた。その都度、リヒテンシュタインは罵倒をもって追い返し、ツヴァイクは黙殺をもって報いた。

 両将はもはやレーウの指揮を拒否していると、そうみなすほかなかった。

 指揮官としては、部下に命令を拒絶される以上の恥辱はない。無論、それは両将のレーウに対する痛烈な不信感によるものであったが、その原因となっているのは、レーウが前線の司令官としては致命的なまでに無能である上、その無能さに自身は気づいておらず、しかも実戦の専門家である彼ら中級指揮官たちを尊重していないという点にあった。

 レーウは敗走のなかで両将へ連絡する際でも、その言辞は常に居丈高な要求であり、さらに言外に敗戦の責任が彼ら実戦指揮官たちにあるような含みを持たせた。彼が自らの無能を自覚して、将軍たちを頼りにしているなら、そのような態度はとらないであろう。

 実際、シェーンブルンで一息ついたあと、彼は敗戦と部下の造反を大いに恥じ、撤退のむねを帝都に急報しつつも、身辺が落ち着くにつれふつふつと怒気が沸き立って、敗北の責任は彼の指令を無視した両将にあるとし、事態が一段落した際は軍法会議へ告発すると息巻いた。

 彼は、自らの権限と正義とを確信していた。だが一方、無断でベルヴェデーレ要塞に入城し、彼とは一切の連絡を絶って静まり返っている両将のもとへ乗り込む度胸もなかった。たとえ自らも要塞に入り、啖呵たんかを切って彼らを批判しあるいは面罵したところで、それに倍する罵声を浴び、不服従の態度を示されたら、彼の名誉と威厳は二重に損なわれるであろう。それを恐れた。

 そのため、リヒテンシュタイン、ツヴァイクの両将は大軍とともに堅牢な要塞にこもり、その上官であるレーウはわずかな手勢とともにその近隣の町に、まるで飼い主に捨てられた犬のような頼りなさで立ち尽くすという珍妙な光景となった。古来、これほど不遇で汚辱にまみれた将軍というのは少なかったのではないか。

 しかも彼にとってはなはだ不愉快なことに、4月7日にはカスティーリャ要塞の前面から引き揚げてきた第一軍集団がこの町に到着して、司令官のゴルトシュミット大将が多数の幕僚団を引き連れレーウを見舞った。というと聞こえはいいが、要するに敗軍のレーウを冷やかしに来たわけである。ゴルトシュミットはその長年のライバルであるメッサーシュミットのような聖人君子然とした人格の持ち主ではなく、多分に俗物であり、レーウのような縁故とおべっかで同格の大将まで成り上がったような男を好んではいない。ゴルトシュミット自身、時にはヘルムス総統や上官の意を忖度そんたくし、迎合することもあるが、あくまで今の地位は自分自身の能力と武勲によって得たものであるとの自負がある。

 レーウが無様な敗戦を喫し、しかもどうやら部下であるはずの軍司令官たちと反目しているらしいと聞いて、彼は意地悪くもレーウの顔色を見てやろうと思ったようだ。

「レーウ司令官、どこにいるかと思えば、このような民家に逗留されていたのか」

 レーウは先任であるゴルトシュミットを出迎えもせず、接収した民家の二階で粗末な食事を苦そうな表情で食べている。同僚に対するこうしたかわいげのない態度が、彼に対する反感を買っている。

「この町は景勝地として逗留するにはよいが、軍が駐留するには手狭であろう。なぜ、目と鼻の先にあるベルヴェデーレ要塞に入らないのか。貴公が我が国第一の要塞に入り、大軍の指揮をとれば、全軍の士気も上がろうに」

 ゴルトシュミットもしつこい。彼はレーウに断りもなく、その食事する正面に座って、あからさまな嘲笑を浮かべている。

 レーウはこの男の言葉が皮肉というスパイスを利かせた嘲弄であると解釈したし、事実そうであった。だが、彼は抗議しない。反発するには、彼の置かれた状況はあまりにも悲惨であり、滑稽であった。

 が、いつまでもだんまりを決め込むわけにもゆかず、彼は半ば引きずられるようにして、第一軍集団ともども、ベルヴェデーレ要塞の城門をくぐった。

 ベルヴェデーレ要塞はレガリア帝国最大の軍事基地であり、戦略的要衝である。この城塞は帝都ヴェルダンディからヌーナ街道へと伸びるダンツィヒ街道をやくする位置にあり、教国軍なり同盟軍なりが帝都へ直進する際に大きな障害となって立ちはだかることとなる。

 目下の情勢下では、この要塞に大兵力を詰め、その軍に遊撃の役割を与えて南からの敵の侵入に対すれば、要害を占めているだけに有利となる。リヒテンシュタイン、ツヴァイクの両司令官とゴルトシュミット将軍とが図らずもともに撤退先としてこの要塞を選んだのは、当然の戦略眼と言っていい。

 軍事施設としての当要塞は巨大で、第一軍集団と第二軍集団の残存兵力、約5万人を優に収容することができる。

 要塞で出迎えたリヒテンシュタインとツヴァイクは、ゴルトシュミットに対しては敬礼したが、レーウに対しては冷然と一瞥いちべつしたのみであった。彼らはレーウに対して上官としての礼は一切とらぬ、ということらしい。ゴルトシュミットはその様子を面白そうに眺めている。

「戦線は後退したが、ともかくもこうして精強なる我が帝国の大軍が集結した。ここで態勢を立て直し、再び連中を帝国から追い出して、我が軍の威信を取り戻すのだ」

 将軍たちを前に獅子吼ししくするゴルトシュミットは長身で、特にその上半身は鋼鉄の壁のように分厚く、戦場で鍛えられた声には骨太な重みと頼もしさがある。その彼に並ぶと、机上の軍官僚であるレーウはまるで病人のような頼りなさである。

 (この男は、この押し出しで得をしている)

 確かに、戦場では白面の貴公子よりも野獣のような力強い容貌と体躯たいくを持った男の方が、部下に対しても支配力を発揮しやすいし、威厳も備わる。一方でレーウはというと、彼の部下であるはずのリヒテンシュタイン、ツヴァイク両司令官から一顧だにもされず、針のむしろに座らされているような心地である。

 両将は要塞にあってもゴルトシュミットの部下であるように振舞い、ゴルトシュミットの方もレーウに対する面当つらあてなのか、それを当然のように受け入れている。

 (馬鹿げている)

 と、レーウは思った。

 ただしその状況も、長くは続かない。2日後、帝都から増援が到着したのである。指揮は国防軍最高司令部副総長シュトラウス上級大将で、第一軍司令官のメッテルニヒ中将と、特務機関のハーゲン博士を連れている。シュトラウスはヘルムス総統の命令で、第一軍集団と第二軍集団を統括するために派遣されたのである。彼には前線における軍務の全権が与えられ、かつその権限の範囲内におけるあらゆる独断が許されている。そのなかには当然、前線指揮官たちに対する命令権も含まれており、この男の登場によって、ゴルトシュミットとレーウは事実上、解任されたことになる。軍集団司令官は麾下きかの軍司令官たちを束ね、作戦行動を十全に遂行するのが任務だが、さらに上官であるシュトラウス上級大将がその役目を担うなら、中間にいる彼らの仕事はない。ゴルトシュミットは教国の前線基地であるカスティーリャ要塞を陥落させることができず戦線を停滞させたこと、レーウはキティホークで惨敗したことで、明らかにヘルムスの失望と不興を買ったということであろう。

 そして特務機関のハーゲン博士は、彼が発明した新兵器の実戦投入を監督指導するために、前線に出ている。これに関してはヘルムス総統直々の肝煎きもいりで、シュトラウスも事情を詳しく知っている。

 ハーゲン博士は要塞に到着した次の日には、メッテルニヒ中将の第一軍に同伴して、南へと向かった。要塞からやや南に下がった「エイクスュルニルの迷い」に、ラドワーン軍が陣営を築いている。同盟領と教国領を接続するこのポイントには19,000ほどの大部隊が布陣していて、帝国軍としてはまずこの軍を遠く東の同盟領まで叩き出したい。

 しかしシュトラウスが出撃を命じたのは第一軍の約14,000の兵力のみである。この判断には、要塞にある四人の軍司令官はみな、顔を合わせて不審に思った。ラドワーン軍を完膚かんぷなきまでに撃滅するのならば、集結した五個軍を総動員してしかるべきであろう。戦力を出し惜しみしてむざむざと好機を逸するのは納得しがたいところである。

 ベーム、シュテルンベルク、リヒテンシュタイン、ツヴァイクの四人の軍司令官は誘い合わせて、シュトラウスのもとへ意見の陳情に訪れた。

「貴公らの言い分ももっともである」

 ギュンター・シュトラウス上級大将は、この年59歳。常に深刻な憂いを抱えた表情を浮かべている白髪翠眼の紳士で、部下からは「胃痛と下痢を友としている」などと揶揄やゆされることが多かった。これはどのようなときでも唇を歪め、沈痛な面持ちでいるということと、彼がしばしば重度の下痢に見舞われて苦しんでいることを、側近ならば誰もが知っているからであった。事実、彼はこの要塞に入ってから一日のうちに三度は、その泥のような糞便を便所にまき散らしている。

 哀れなほどに滑稽な体質を持った男ではあるが、無能ではない。前線勤務、後方勤務それぞれに充分と言える豊かな経験があり、冷静沈着で判断力は確かである。

 それだけに、ラドワーン軍撃退にわずか一個軍だけを派遣するという決定に、諸将は疑問を持たざるをえなかったのである。

「閣下、なぜ第一軍のみ出撃を命ぜられたのですか。我々はラドワーンとその一党を駆逐して、帝国領を外敵から安んじたいと望むもの。そのためには兵力の逐次投入は禁忌とすべきで、大兵力を一挙に振り向けて、敵を包囲し徹底的に覆滅ふくめつする。これあるのみかと愚考いたしましたが」

 この場の実戦指揮官中の先任である第二軍司令官のベーム中将が代表して意を伝えた。平素は無口で無愛想だが、古風で堂々たる風格を有する宿将である。

「ベーム中将。君の言う通りだ。ラドワーンの軍は偵察によれば2万弱。第一軍だけでは数が少なく撃破は難しい。ラドワーンも当然、そう考えるだろう」

「陽動作戦を仕掛けるということですか?」

「それも悪くない。だが今回の第一軍の任務は、ラドワーン軍の撃滅だ。ハーゲン博士の秘策があるのだよ」

「秘策ですか。差し支えなければ、我々にだけでもご開示いただきたいところですな」

「よかろう。諸君もずいぶんとれているようだ」

 四人の軍司令官は作戦の全貌をシュトラウスから明かされた。なるほど有効な作戦案である。だが妙策だ、と手を打って歓迎する者は誰もいなかった。彼ら実戦指揮官たちは、みなそれぞれに特徴や得手不得手はあるが、いずれも有能と言っていい将帥である。それだけに、ただ勝てばいいと思っているわけではなく、己の名誉と矜恃きょうじを知らしめるような爽やかな戦いをしたい。戦場には戦場の術策というものが当然あるが、その範囲を逸脱した卑劣な、あるいは非人道的な行いは、彼ら生粋の職業軍人のよしとするところではないのだ。だから、口には出さねど、多くの者がヘルムス総統の命じたデュッセルドルフでの教国軍襲撃には疑問を持っている。あれは、彼らからすれば戦術ではない。単なる騙し討ちである。

 しかし、国防軍最高司令部副総長ともなると、軍人としてはヘルムスに近すぎ、その人格や思考の影響をより濃厚に受けるものなのかもしれない。それは、彼が第一軍に命じた作戦について得々と語ったことからも察せられる。

 四人の軍司令官はシュトラウスのもとを退出後、互いに憂鬱な顔を見合わせたあと、挨拶もなく散った。彼らの胸に去来する思いはひとしい。

 (そこまでせねばならないのか。軍人の名誉と矜恃を捨ててまで)

 (作戦を命ぜられたのが自分でなくてよかった)

 (メッサーシュミット将軍が前線を束ねる身ならば、必ずやいさめただろう)

 (我が帝国の誇り高き鉄十字の軍旗は、ついにけがされた)

 5日後、要塞には南と北からそれぞれ急使が飛び込んできた。

 南からは、「第一軍はラドワーン軍と交戦。予定通りに作戦遂行中」との報告。

 そして北からの急報は、諸将を驚愕させるに充分な内容であった。いわく、

「帝都にてヘルムス総統の暗殺及びクーデター事件が発生」

 と。

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