第13章-④ 闇からのいざない

 門番の隙をついて脱走し、警備の目をすり抜け、荷がうずたかく積まれた倉庫に隠れてから、数時間が経過した。

 人の気配を感じるたび、彼は不安と恐怖と緊張のあまり、その手足はしばしば硬直し、あるいは震えて、落ち着くことがなかった。

 日が暮れると、倉庫はぞっとするような暗闇に包まれる。闇は、盲人にとって都合がいい環境である。

 衛兵どもはあきらめたのか、それとも盲人ごとき放っておいても大過はない、いずれ出てきたら叩き殺してやればいいとでも思っているのか、騒ぐ気配はない。あるいは、王宮への侵入を許した罪を恐れて、口裏を合わせ素知らぬふりをしているのかもしれない。

 つまり、逃げるとしたら今であった。

 サミュエルは光の思念を注意深く放出して、倉庫の形状や荷物の配置を読み取り、扉に手をかけようとした。

 かけようとして、空気が動いた。

 思わず後ずさりしたが、間に合わない。人が入ってきた。

 しかし、男のにおいではない。

 その香りを、どう表現すればよいのであろう。官能的で、魅惑的な、それはイランイランの香りであった。無論、彼はそのような稀少な花の名など知る由もない。

「どなた?」

 女の声である。

 サミュエルは言葉を失った。素性は言えない。言えば、衛兵に通報されて、彼はついに窮するであろう。彼女は、この王宮の侍女か女官に違いないのである。

 だから、黙った。

 女の肩が呼吸のために五回ほど上下するあいだ、サミュエルは何も言葉を発しなかった。

 女は呆れたのか、小さくため息をついて、扉を閉め、彼を誘導し、手頃な箱に腰掛けさせた。ほんのりと頬にぬくもりを感じるのは、女の持つ燭台の熱によるものであろう。

「盲人が、よもや王宮に口に出せぬご用が?」

「僕は」

「あなた、この国の方ではありませんね。悪いようにはしませんから、私に話してください」

 サミュエルはなおも躊躇ためらい、だがぽつぽつと話した。女の声には不思議なあたたかさがあり、まだ若いながら、亡き姉を思い起こさせる凛々しさと優しさが感じられた。恐らく、自分と近しい何かを、感じ取ったのであろう。

「僕は、その、ロンバルディア教国から来ました」

「ずいぶんと遠くから」

「はい」

「何を探し求めての旅ですか?」

「それは」

 言えない、と思った。

 彼の目的は、この国の皇妃スミンの動静を探り、つまり術者としての思念を感知し、噂の真偽を確かめるということであった。彼が聞いた噂によると、スミンは世界に大いなる厄災をもたらす闇の術者であるという。闇の術者の存否など、一般的には笑い話のたぐいであって、真剣に取り合う者もいないが、闇と対立する光の術者である彼としては、単なる風説として捨て置くことはできないのであった。せめて王宮に近づき、気配を感じることで、真実かどうかを見定めたい。

 だが、それは言えない。

 再びの沈黙に陥ったサミュエルに、女は静かに続けた。

「こうしてお会いしたのも何かの縁です。あなたは悪い方には見えません。お話しいただけたら、力になれるかもしれません」

 サミュエルは、闇の術者と戦うことを運命づけられた戦士であるにも関わらず、やはり一方では底抜けに善人であった。彼にも、今まさに横に座っているこの女が、悪い人間であるとは思えなかった。

「僕は、知りたいことがあって、この国に来ました」

「どのような?」

「スミン皇妃のことです」

「皇妃陛下」

 女は、サミュエルのあまりに思い切った発言に驚いた様子であった。確かに、この国の皇妃について知りたいことがあるために入国した、などというのはにわかには信じがたい話であろう。密偵の言うことならあまりに正直すぎるし、事実だとしても不敬にあたる。

「皇妃陛下についてお知りになりたいと」

「そうです、そのつまり、どんな方なのか」

「そのために、わざわざ」

 (変な人だと思われるかな)

 サミュエルは少し恥ずかしくなった。もっとも、状況と発言をかんがみれば、変な人どころではない。

 (ところで)

 この人は誰だろう、とようやくそれを思った。いずれ王宮の女官であろうが、どれだけ皇妃に近いのか。うまく皇妃の情報を聞き出して、術者かどうかについての手がかりがつかめれば、災い転じて福となすも可である。

 サミュエルは尋ねた。

「あの」

「ん?」

「あなたは……」

「私」

「えぇ、スミン皇妃についてご存知ですか?」

「よく知っています」

「どのような方ですか」

「そうね」

 しばらく考えたが、答えようとはしない。

 (やはり警戒されている)

 サミュエルは少し落胆したが、女はやがて、まったく別のことを聞いた。

「あなた、お名前は?」

「僕は、サミュエルといいます」

「サミュエル、よろしくね」

「はい。あなたは?」

「私。私の名前は」

 するとにわかに、絹の衣服が触れ合う音がした。

 そして、女の名前を聞いた。

 聞くとともに、彼は唇に異物感を感じた。そしてそのやわらかい感触とともに、熱い吐息が彼の肺へと侵入した。

 それは彼のありとあらゆる感覚を刺激し、麻痺させ、支配する体験であった。

 天上の快楽、というものがあるとすれば、最も適切な表現かもしれない。いやそれ以上であろうか。

 女が彼の体内に送り込んだ吐息は、彼の肺から、血と神経を介して全身へと駆け抜けた。ドクン、という音が耳の奥で聞こえ、痛切なほどに甘美な脈動を感じる。

 闇の力は、人をその漆黒の深淵に陥れ、永遠に這い上がることのできない沼に惑溺させる。対象は闇の術者の奴隷として生涯を終えるしかなく、現に彼女の夫たる皇帝や愛人たちは、彼女に子をはらませるという役割を与えられた人形にすぎない。

 だが彼らが一個の確固たる人格を持った人間から人形へと堕するとき、その瞬間は実に快美なものである。それは人間の意志などというものをはるかに超越しており、あらがう余地はかけらもない。

 サミュエルは術者である。しかし彼も闇の毒牙に抗することはできなかった。光の術者として生をけながら、ひたすら術の使役を恐れ、あえてその神通力から遠ざかるようにして生きてきた彼と、多くの人間をその術でむしばんできた闇の術者とでは、思念の強さに圧倒的な違いがある。

 光は、闇に飲まれた。

 闇の術者は、長い長い接吻を終えたあと、傀儡くぐつとなり果てた彼を後宮における彼女の寝室のひとつに起居させ、特別な愛人として飼うことにした。

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