第13章-③ 光からの招き

 豪奢ごうしゃ閨房けいぼうは最前より、若い男女の交わる音とにおいが充満している。生々しい気配のなかからは時折、男のうめき声が部屋の外の廊下にまで漏れる。

 皇妃スミンの性欲はまったく度外れていて、多い日は一日に両手の指では数え切れぬほどの男を相手にした。それは皇妃にかしずく大勢の女官らがうかがうには、性の悦びに溺れているというよりはもっと鬼気迫った、要するに男の精をひたすらに奪いむさぼろうとするような、性欲とはまた別の欲求が病的に肥大化している一匹の獣のようにも思えるのだった。無論、それぞれの男を愛しているわけでもない。愛情だとか親しみだとか、そうした情緒的な趣がまったくないのも、スミンの性欲の特徴といえば特徴であった。

 スミンの後宮における野放図のほうずな営みは、女官らにとっても世話が大変で、三つある贅美ぜいびを尽くした寝室は行為が終わるたび、即座に清掃せねば、次に間に合わない。間に合わなければ、スミンの逆鱗に触れる。

 かくのごとくスミンの生活は淫欲によって厳しく律されていた。男といかに多く交わるか、それだけが彼女の主題で、国の支配者としての義務感や責任感といったものは米一粒ほども持ち合わせてはいない。彼女はこの国の最高権力者であり、民衆というのは彼女の福祉を向上されるための家畜のような存在である。彼女が民を思いやる必要などなく、むしろ民の方が、彼女のために持てる資産を惜しむことなく提供すべきなのであった。その過程で民に犠牲が出るとしても、それは天命というものであろう。

 しかし過度な情交の連続は、人を疲弊させ、さらには衰弱させる。事実、彼女の夫である皇帝やその弟、多くの愛人たちは彼女と営みを多く交わせば交わすほど、ほろほろと砂の城が崩れるようにして衰えていった。彼女は男の精液だけでなく、その生命力まで搾り取っているようであった。もともとは帝王の血脈を欲し、ために皇帝の愛妾となり、さらに皇妃となったが、現在ではその相手も問わなくなっている。皇帝とその弟たちだけでは、彼女の肉欲に応えることができないのである。体力に恵まれた若い男を抱き、生まれた子を嫡子ちゃくしとすればよい。

 一方、当のスミンは衰えるどころか、そのあでやかな容色と絹のような肌はいよいよ冴え渡って、老いることさえ知らぬようである。傾国の美貌はなおも絶頂期にあり、かげりの気配すらない。

 が、何不自由ない生活のなかでも時に気分が鬱するのか、スミンは数日に一度、宮殿内に造成された池を泳ぐこいを眺めては、静かにため息を漏らすのだった。

 その俯いた面立おもだち、憂いの濃い睫毛まつげ、鬱々と楽しまぬ唇、透き通るような喉の白さ、そして欄干にもたれる手指の細さ、いずれも凄艶せいえんと言っていいような色香で、彼女をよく知る女官らも同性ながら目を奪われ、心を奪われぬ者はなかった。

 スミンは誰にとっても仕えにくい主君で、短気で残酷な一面があり、特に怠惰な者や無能な者、あるいは彼女への一途な忠義心に欠ける者を憎むこと甚だしかった。

 例えば、昨年の「宵闇よいやみ祭り事件」である。

 宵闇祭りは、7月の新月の日に王都トゥムルで開かれる祭りで、皇帝一家をはじめとする貴人が馬車で王都を巡回し、民が色とりどりの手持ち灯籠とうろうでそれを迎え、常の仁政への感謝を示す。都は広いから貴人が練り歩くのは夜半までかかるが、この祭りのもうひとつの側面は、祭りが新月の夜に行われ、しかも家々が明かりを消して手持ち灯籠の薄明かりばかりになり、互いの顔もろくろく分からないことから、若い男女が自然とそこここで集まって乱痴気騒ぎを繰り広げるということである。

 王国各地にはこのような珍奇な習俗があり、ほかにも例えば雑魚寝や夜這いといった、この国の人々が性行為に関して寛容で奔放であったことを示す習慣が残っている。

 さて、この年の宵闇祭りは、打ち続く災害と悪政、戦争による政情不安などから、王都トゥムルの民の士気は一向にふるわず、街頭で灯籠を持つ者の数も例年とは比較にならないほど少なかった。

 宵闇祭りは王都最大の祭事で、祭り好きのスミンも楽しみにしていたが、街はよほどさびれており、彼女もひどく興ざめて、巡行を早々に打ち切って王宮へ戻るよう指示をした。

 王宮に帰った彼女はすぐ、異常に気付いた。

「どうしたことか。なぜ女官がこれほど少ない」

 非番だった女官長を呼び調べさせると、400人ほどはいるはずの女官がこの日は200人ほどしかいない。さらに追及すると、王宮を不在にしている女官はみな、宵闇祭りに出かけている、しかもその目的は闇に紛れて街の若衆どもとたわむれるためであると、幾人かの女官が白状した。場所は王都のトンレン地区西の林で、例年、ときには千人を超える若い男女がこの林に集まり、まるで真夏のせみのように騒がしくも放埓ほうらつな交わりを遂げているという。

 こと性に関しては度外れて奔放な主人のその人格が、彼女らの行動にまで影響を及ぼしたのであろうか。

 スミンは、自分が与えた仕事をおろそかにする者を許さない。仮にも勤務中の女官が、主人の不在をもっけの幸いとばかり、男と交わるために大挙して王宮を抜け出したとあれば、スミンの極端なほどに移ろいがちな気性を刺激せぬわけがない。

 王宮の近衛兵である御林ぎょりん軍が動員され、トンレンの林を根こそぎ切り倒すような勢いで襲撃した。夏の祭りの闇夜、所狭しと思い思いの痴戯にふける人々は突如として無数の松明たいまつの明かりに追及され、男どもは容赦なく追い立てられ、女は残らず捕縛された。縄をかけられた女のうち、女官はそのまま王宮へと送還され、それ以外の女どもは御林の兵どもになぶられたのちに全裸で解き放たれた。宵闇祭りにおける乱交は伝統的な風俗で何ら罪ではないが、そのなかに王宮の女官が混じっていたというたったその一点において、彼女らは災難の相伴しょうばんを受けたのだと言えるだろう。

 しかし最も大きな災難は200名ほどの女官たちである。彼女らはスミンが自身で考案した最も過酷な刑の対象となることを余儀なくされた。全員、後ろ手に縛られ、逆さ吊りにされた上、膣を押し広げられ、そこへ煮えたぎった油を注ぎ込まれた。

 かつて油や熱湯に人を放り込む釜茹でという刑があったが、臓器に直接、油を注ぐという行為は歴史上に類を見ない。

 刑場となった王宮の殿堂には女どもの絶叫が幾重にも重なって、祭りのあとの静寂に沈むトゥムル市街にまで響きわたったという。人々はそのおぞましさに耳を塞ぎ、眠れぬ夜にただただ震えた。

 スミンの激情はさらに燃え、第一の刑で死ななかった者は皮を剥ぎ、肉を削ぎ取って、死ぬまでいたぶらせることで、ようやく鎮火した。

 スミンは自分のために厳しく統制された組織、人間を好み、ほんのわずかな気の緩みでもその埒外らちがいにはみ出た者は徹底的に報復した。彼女の価値基準は自分にとって使える道具か、使いやすい道具かということであり、その基準をより質高く満たす者は優遇した。

 そのため、スミンの周囲には有能で忠実な者だけが残り、彼らのスミンに対する忠誠心は意外なほど高い。仕えにくいことは間違いないが、認められればこの主君が先例を無視し、国を私物化しているだけに、望めば一兵卒や下級の女官でも官爵や財宝を手に入れることができた。純粋な忠誠心とは明らかに違うものの、少なくとも立身出世や独裁者の恩恵にあずかろうとスミンに近づく者は多い。

 近づくと、彼女の美貌はおよそ常人と隔絶しているだけに、男は無論、女さえもただならぬ情動に襲われた。スミンの美しさというのは、例えば宗教画に描かれる天使や聖女のような、あるいは神話に伝えられる女神のような、そうした神聖で高貴で人の手に触れがたい種類のものとは少し違う。もっと、動物としての女が持つ官能的で生々しい、見る者の獣としての性的欲求をくすぐるような魅力がある。

 それはスミンの術の力によるものか、あるいはそうではないのか。

 いずれにしても、術者としてのスミンの力の根源は、邪気であり、邪心である。その邪気をもってして、人の心ばかりか人格そのものを塗り替え、スミンの邪心のままに動くようになる。スミンはいわば、人形使いであった。人間は本来、独立した人格というものを持ってこの世に生まれるが、彼女はその人格を意のままに書き換え、己の人形に仕立て上げて、自在に使役するのである。特に肉体の交わりを通して、彼女の邪気を注入された皇帝や愛人たちは、身も心も彼女の奴隷になってしまっている。

 その時、つまりサミュエルが王宮に入り込んだ時も、スミンは愛人の一人と臥所ふしどにいた。

 (子がほしい)

 どんなときでも、スミンは鬱屈する思いとともにそれを欲している。子種を求めることにかけては、彼女は暴虐な支配者ではなく、むしろ神に願をかける巫女のようなひたむきさと誠実さがある。

 術者の血統をつなぎ、我が子に皇位を継がせること。それだけが、スミンの望みである。大それた望みとは思わない。現に、彼女は王国の支配者となっている。あとは子さえはらめば、彼女の願いは達せられる。

 (子種を、子種を)

 行為の最中、彼女はほとんど無意識に、術を行使している。我が思念を、男の肉体へ送り込んでいるのだ。男はそのたび、天上の快楽を味わう。そしてその悦びとともに、魂を塗り替えられる。

 男が何度目かの絶頂に達し、精も根も尽き果ててその日の役目を終えたとき、スミンは愛人の腰にまたがったまま、ふと異様な気配を察した。術者としての本能の部分が、彼女の意識に何事かを訴えかけている。

 彼女は一糸まとわぬ姿で、身づくろいもせず、ただじっとその気配の探知に集中した。やがて思念が研ぎ澄まされ、違和感のありかについての確信を持ったとき、彼女は愕然とした。

 術者の気配である。

 術者の思念が、血液の脈打つのが感ぜられるほどの強さで伝わってくる。

 かつて、神医アブドという術者に会ったことがある。その者は血脈の弱さか、それとも老衰によるものか、術者の思念はほんのかすかな残り香ほどにしかなかった。だが今度はそれと比較するとまるであふれるような若々しさと力強さを持った純粋な思念だ。

 (察知されてはならない)

 スミンは精神を制御し、思念の波を抑えてそれを極限なまでに小さくした。そしてまるで狐が巣穴に隠れつつ天敵を覗き見るようにして、術者の思念を追った。

 (近い。王宮のなかにいる)

 彼女は動揺して思念が揺れることのないよう注意しながら、愛人から離れ、寝衣をまとい、裸足はだしのまま部屋を出た。慌てて追従しようとする女官を制し、猫のように静かで隠微な足取りで、恐る恐る気配のする方へと向かってゆく。

 その気配を探し当てたら、彼女は術者の存在を見出すことになるであろう。

 だが見つけたとして、どうするのか。

 彼女は明確な答えもなく、ただ招かれるままに、歩みを進めた。

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