第10章-⑦ 新しい仕事

 クイーンの情の深さは、情を失った暗殺者の心をも変える。

 エミリアは、そのことに感動すらおぼえていた。聞くところによれば、アサシンとは過酷な訓練を経て、あらゆる感情を排し、肉体を鍛錬し、ある域に達した者では排泄や呼吸といった生理現象さえ一定の制御下に置くことができるという。

 人ならざる者、といった印象だが、クイーンはそのような者の心さえとりこにして、自らの命を狙う刺客から一転、己の忠実なしもべとしてしまった。こうも人の心を変えるなどというのは、神のわざに近い。

 クイーンは、エミリアと、シルヴィ百人長、シャルロット百人長、旗本のダフネ、クレアとともに、改めてシュリアに謁見えっけんの機会を与えた。

 その席で、シュリアはまるで発狂したような熱情をもって、クイーンに忠誠を誓った。クイーンはその言葉を、なんの屈託もなく受け入れた。自らの命を狙う暗殺者に対し、前科をあっさりと許してしまって、それどころか自分の臣下となることさえ認めたのである。

 シュリアとしては、天地が逆転したほどの精神的体験であった。大げさではない。彼は不可触民の階級に産み落とされ、その身分とともに、地を這いつくばり、自ら社会の暗部そのものになって生き抜いてきた。不可触民は人間とはみなされず、畜類を殺し、人の糞尿を始末することで、かろうじて食いつなぐことができた。彼はたまたま、アサシンという、権力者の政敵を暗殺する稼業に就き、名と顔をイシャーンのような高貴な人に記憶されるという栄誉を受けたが、不可触民は所詮、犬も同様である。食い物を放り投げ、それを拾わせて食わせてやる、などという扱いは、人間ではなく、犬にすることであろう。彼はそれを、ありがたい、などと思って拝受していたのである。そういう生まれであり、そう思うべきと教育されてきた。

 だが、彼の目の前にいる新種の貴人は、彼がこの国における不可触民であり、生まれながらに嫌悪と侮蔑とを背負ったけがれた存在であり、また彼がアサシンとして自らの暗殺を任務としていたことを知って、知りつつもなお、彼を対等な一人の人間として、自分の力になるよう要請している。

 クイーンのような君主に出会えば、感化されるのも無理はないかもしれない。

 数日、彼はクイーンと様々な話をした。自らの出自や不可触民のこと、自分の能力、イシャーンという男について、そしてこれまでの任務など。当然、その過程で世間には知られていない機密も明かした。クイーンも近衛兵団の者たちも、イシャーンとイシャーンの手足であるアサシンの真実に戦慄せんりつした。クイーンも含め、誰もが彼に完全な信頼を置いたわけではなかったが、クイーンとしては彼の特殊な能力を用い、かつ彼に信用を獲得するための機会を与えることを考えた。

 彼女はシュリアに命令、というよりは依頼するに、

「あなたは、レガリア帝国のメッサーシュミット将軍を知っていますか」

「仕事柄、各国の情報は頭に入っております。殺しますか」

「いいえ。私はあなたに、少なくとも暗殺者としての使命は与えません。暗殺という手段では、結局のところ世を変えることはできないからです。私は、戦いとは正々堂々あるべきと思っているわけではなく、必要とあれば権謀も計略も用います。だからといってただ自分の敵手を殺せばそれで丸く収まるとも思いません。誰かを暗殺したところで、また争いの連鎖を生むだけです。私が欲するのは平和で、その実現のためには暗殺という手段ではかえって害があります」

 つい数日前までクイーンを暗殺しようとしていたシュリアには胸の痛む話ではあるが、今となっては彼にも同意できる。彼はクイーンに薫陶くんとうを受け、その思想や理想に共鳴して、すっかり心を入れ替え、少なくとも入れ替えようとはしていた。不可触民のためにまともな教育一切を受けてこなかった彼ではあるが、今まさにクイーンによって教育されようともしていた。ともすれば、敵であれば殺してしまえ、という前職の発想が浮かんでしまうが、彼としては必死に、新たな主君の色に染まろうとしていたのである。

 イシャーンのことは、見限った。彼がこの地まで伴った手下どもも既に姿を消した。恐らく暗殺は失敗し、彼も死んだものとして復命することであろう。未練はない。

 話は続いた。

「メッサーシュミット将軍は帝国の名将として知られています。彼が軍務の大権を握っているうちは、我々が勝利するのは格段に難しいと言えるでしょう。ですから」

 (殺してしまえ、ではないのか)

 シュリアは自分でさえ哀れに思うほどのわずかな知恵でもって、自分を暗殺者という呪われた稼業から拾い上げた拾い主の思考を先読みしようとした。が、悲しいことに彼には邪魔な相手を排除するにあたって、殺す以外の手段が想像できなかった。暗殺の準備段階としての情報収集や情報操作はお手の物だが、彼自身は情報をどう扱えばどういう結果がもたらされるかの知恵がない。

 結局、クイーンの種明かしを待った。策はこうである。

 目下、帝国軍の対同盟領方面の作戦責任者は、メッサーシュミット将軍である。この者はいくさ上手として知られ、敵として相対するにはこれほど有能で厄介な相手はいない。デュッセルドルフでの一連の戦いにおいては、故意に教国軍を同盟領に逃がすような消極的姿勢をとったが、今後も同様であると期待するのは楽観に過ぎる。だから、これを排斥はいせきする。

 離間の計によって。

「離間……?」

 シュリアは無論、知らない。

 離間とは、敵を仲たがいさせることで、その戦力を削いだり、自軍を有利に導く計略である。

 かつてオクシアナ合衆国がローレンシア帝国から独立する際に、この離間の計が使われた。

 のちオクシアナ合衆国の初代大統領となる独立運動の指導者スタンリー・グリフィスは、独立戦争にあたって帝国側の前線指揮官であるマウントバッテン将軍の耳に届くよう、流言を流した。帝国の事実上の宰相であるブリストル公が、マウントバッテン将軍の暴勇を恐れ、独立運動の鎮圧後は官職を取り上げるつもりであると。

 一方、ブリストル公にも、偽造したグリフィスとマウントバッテン将軍の書簡が手元に届くようにした。書簡には両名の親密なやりとりや帝国転覆の密約が書かれており、宮廷では狙い通り、マウントバッテンの更迭こうてつと処罰を求める論調が強まった。

 帝国の宰相と有力な将帥とのあいだで生じた亀裂は、グリフィスの手を離れてなお深くなってゆき、マウントバッテン将軍は帝国に叛旗を翻した。この叛乱は結果的には鎮定されたものの、グリフィスは独立運動の鎮圧責任者であるマウントバッテン将軍を排除するとともに、軍を整える貴重な時間を得ることに成功した。

 グリフィスは内紛によって戦力の低下した帝国軍に対し、独立運動に賛同する各都市から召集した民兵を組織化し、いくつかの戦いを経て独立を勝ち取ることに成功した。

 グリフィスの仕掛けた離間の計が、ひとつの大国を歴史に産み落としたと見ることもできる。

 この計を成功させ、メッサーシュミット将軍をその職から引きずり下ろせば、帝国軍に隙が生じ、本国帰還の道が見えてこよう。

 (そんなことができるとは思えんな)

 シュリアとしては、手品の種を明かされても、容易にそれが可能とは思えなかった。情報は、うまく扱えば10万の軍勢を手に入れたに等しい。シュリアはそのことを知らない。

 が、これが彼の新しい仕事である。帝都ヴェルダンディに潜入し、いくつかの風説を流し、帝国の有力者に猜疑さいぎ心を抱かせ、前線のメッサーシュミット将軍を解任させる。

 暗殺以外の方法で、事実上の暗殺とも言える成果を手に入れる。

 新しい主君に仕えて与えられた初めての任務であり、生まれ変わった彼の最初の仕事でもあった。初任務にしては困難に過ぎる内容ではあったが、シュリアは成功を誓い、調略のための大金を預かって、意気揚々とナジュラーンを立った。妙なもので、これまで授かった任務とはまったく違う明るい高揚感、使命感のようなものがある。

 目指すは、西である。

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