第10章-⑥ 窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず

 シュリアとの邂逅かいこうの日、当然のことではあるが、クイーンを守る近衛隊の一団は宮殿の警備を担当するスレイマーン警備隊長に不逞ふていな侵入者の存在を通報した。

 スレイマーンはラドワーン王の四番目の弟で、特に能力のない男だが、誠意をもってクイーンとその軍を迎え入れ、宮殿の安全を確保しようと動いている。彼はイシャーン王の間諜と思われるその男の特徴を王宮の警備部隊全員に伝え、警戒を強化した。

 その夜、ラドワーン王が使いを出し、彼女の身に危険が及んだことについて陳謝した上で、警備の一層の強化と、侵入者の逮捕ないし捕殺に向けて尽力することを約束した。

 そして、この間諜というのが、イシャーン王が放った刺客ではないか、と言って寄越している。イシャーンはアサシンと呼ばれる暗殺集団を組織していて、彼の覇道に少なからず貢献していると言われる。危険な暗殺者であるので、近衛も用心を怠らぬようなされたい、とのことだった。

 クイーンは、スレイマーンにいくつか質問をした。

「アサシンというのは、暗殺が本業なのですか?」

「間諜としての任務全般に従事しますが、基本は暗殺が本業のようです」

「この宮殿にも、簡単に入れるものなのでしょうか」

「出入りには厳重な確認をしておりますが、穴がないわけではありません。その者も、どこからどうやって入ったかは皆目、見当がつかず」

 エミリアと、ニーナ、シルヴィ、イヴァンカ、シャルロットら生き残りの近衛兵団幹部は相談の上、クイーンの警護を当面は倍に増やすこととした。もっとも、帝国軍の襲撃によって遠征軍における近衛兵団の生き残りは200人足らずとなり、そのうち女性は幹部を含めても13名しかいない。夜間の当直も含めてこれだけの人数では護衛任務を全うできないため、特例として男性近衛兵も警護に加えることとした。

 夜、エミリアが近衛の幹部らと打ち合わせのためクイーンのもとを離れてから、入れ替わりに、近衛兵のダフネが木のたらいに湯を満たして入室した。体を拭くためである。クイーンの就寝前の習慣であった。

 以前はこの仕事はエミリアが一人で担当していたが、左腕を失ってから以前ほど器用にはできず、今は旗本のダフネとクレアが交代でやっている。

 全身を清拭せいしきし、最後に足を洗う。

 たらいの中で主君の足を丁寧に清めながら、ダフネは唐突な下問を受けた。

「ダフネ、あなたは近衛兵になってから、何年になりますか?」

「近衛兵として先王とクイーンにお仕えして、4年になります」

「死ぬかもしれない、と思ったことは、何度ありますか?」

「カルディナーレ神殿での暗殺未遂と、それに続く内戦の戦場にて、それから先日の帝国軍との戦いででしょうか」

「怖い、とは思いませんか?」

「正直に申し上げれば、怖いです。死にたくない、と思うと、剣を握っていても膝が震えます」

「私のせいで、みなまで危険にさらしてしまう……」

 ダフネは、エミリアほどクイーンには近くない。完全無欠の代名詞と言ってもいいクイーンが、ゆくりなくも自分に対して弱さを見せたことに内心で驚きつつ、

「クイーンは平和を願い、平和のために軍を起こされたことは誰もが知っております。それを実現できるのは、クイーンしかおられないことも。平和な世をつくるために犠牲が求められるのは、やむを得ないことかもしれません」

「犠牲なくして、平和を追求することはできないと?」

「少ないに越したことはないと思いますが、血は必ず流れます。それは自分の血かもしれないし、見知った僚友の血かもしれません。ですが、クイーンの血が流れることはあってはなりません。おそれながら、クイーンには流された血をいしずえとして、平和への道をつくり、人々を先導するお役目があります。我々が命をなげうっても、クイーンをお守りする所以ゆえんです。クイーンの血の一滴は、私の命よりも貴重なのです」

 まだ20歳だが、五年後の兵団長、十年に一度の駿馬、エミリア以来の天才と言われる優秀な近衛兵だけに、その言葉は明晰で、彼女の覚悟をよく表現している。貴人の護衛として自分がその身を危険に晒すことについて、彼女なりにそうした考えがあって自分を納得させていたのであろう。

 クイーンに財産があるとすれば、それはまず彼女のような、自分を守るためであれば喜んで命さえも差し出すような、信ずるに値する忠臣を一人ならず抱えていた点にあるかもしれない。

 こればかりは、望めば容易に手に入るものでもない。

 ところで、彼女の首を狙うシュリアはというと、警戒の厳しくなった宮殿内で身を隠す場所にも困るようになり、焦りを感じ始めていた。彼は苦心して貴賓を招待するためのダイニングに潜り込み、そこに置かれていた空樽に潜んで、丸二日、飲食も睡眠も排泄さえも制限して、呼吸のためにこじ開けた小さな穴を通してかろうじて生命機能を保ちながら、根気よく二人の王が会食するのを待った。

 三日目の夜、ついに時が来た。

 先着したラドワーン王に続いて、ロンバルディア女王が姿を見せ、双方五人ずつの護衛が侍立したまま警戒している。

 シュリアは満身を緊張にみなぎらせ、同時に二人の会話に聞き耳を立てた。

「陛下、先日は不届き者のために危うい目にわれたとのこと。すべては我が手落ちゆえ。深くお詫び申し上げます」

「いいえ。それよりも刺客は恐らくイシャーン王の放ったアサシンではないかと聞きました」

「いかにも。イシャーンはもとは妾腹の子で、ほかに家督を継ぐべき兄弟が多くいたが、アサシンを用いた暗殺、謀殺で下剋上を遂げたとされています。奴が練達のアサシンを差し向け、陛下を狙いまいらせることがあっても不思議はなからんと」

「スレイマーン殿に、色々と聞きました。アサシンはこの国の最下級民から、腕に覚えのある者を集めて訓練を授け、暗殺者に仕立て上げられると。私はそれが不憫ふびんで」

「不憫。ご自身の命を狙う者を不憫と思し召しなさるのか」

「お国の事情を批判するわけではありませんが、生まれに恵まれぬために暗殺者として生きなければならない境遇を思うと。もちろん、先日出会った彼のことも、私は不憫に思っています」

 思いがけない言葉が次々と女王の口から出てきて、シュリアは樽の中で動転した。暗殺の対象である人物の言葉に心を動かされるなど、プロの暗殺者としてはあるまじきことであろう。だが、その深い慈愛と仁愛は、シュリアのごとき男のくろがねのような無機的で堅牢な心をも確かに揺さぶったのであった。

 シュリアはやや呆然として、その四肢も虚脱状態のようになりつつ、暗殺者の気勢をくじかれ、耳だけは会話に集中している。

「確かに諜者はともかく、刺客などというのは卑劣極まりないが、思えば使われる者も哀れかもしれません。暗殺者など、人間の、そして歴史の恥部そのものでしょうからな」

「憎むべきは刺客ではなく、その刺客を操って、利益を得ようと企む者であると思います。そうした者を討てば、暗殺者などが必要とされない世をつくれるに違いないのです。誰でも、人の命を奪うよりも、人を救うことを誇りとして生きたいはずですから」

 雷に撃たれたように、彼は感じた。それは彼自身、まったく想像のできない体験であった。ほんのわずかな言の葉ことのはだけで、彼の精神構造そのものを覆すほどの衝撃と感銘を受けるなどというのは。

 彼は、まるで夢遊病患者のように、樽をこじ開け、顔を出した。

 部屋の者どもは、突然、樽が動き出し、中からぬうっと人の顔が現れたので、それはひどく仰天した。最も近くにいたダフネ近衛兵が剣で首を払おうとし、刃が首筋に触れる寸前で危うく止めた。

 それはクイーンが彼女の名前を呼んで止めたからでもあるし、別の理由もある。

 シュリアは、泣いていた。その異常さが、ダフネの殺意を緩めた。

 彼は樽から引き出され、身につけていた武器を全て没収された上で、クイーンとラドワーン王の前にひざまずいた。

 一同は、暗殺者の悲痛な叫びを聞いた。

「陛下……女王陛下!」

 つばきを飛ばすほどに、一心不乱に叫んでいる。近づこうとするクイーンを、ラドワーンの弟で警備責任者のスレイマーンが止めた。

「陛下、この者は我が主君と陛下の命を狙う暗殺者です。ましてアサシンは不可触民。話すことは無論、近寄ることもどうか、お控えください」

「スレイマーン殿、よいのです」

 さらに制止したのは、エミリアであった。彼女を含め、教国近衛兵団は、クイーンに対し平和的に嘆願、直訴、交渉、対話を求める者を妨げてはならないという規則がある。これはクイーンが女王位に就いてから正式にもうけられた決まりである。ただそれだけに、クイーンを守ることの困難さも格段に増してしまったが。

 エミリアやダフネらの予想通り、クイーンは躊躇もせず、臆することもなくシュリアに近づいて問うに、

「私が、女王のエスメラルダです。あなたのお名前を聞かせてください」

「は、はい、わ、わたくしはシュリアと申します。畏れ多くも陛下のお命を奪いたてまつらんとしておりました。な、何卒お許しください」

「分かりました、許しましょう」

 あっさりと、そのように言うのであった。そして、彼女はさらに尋ねた。

「あなたは、イシャーン王の命令で、ここに潜入したのですか?」

「いかにもわたくしは、イシャーンの手下にて、アサシンの役目を持つ者です」

「ではよろしければ、今後は私のもとでともに働きませんか。もちろん、暗殺ではなく、別のふさわしい仕事を用意したいと思います」

 シュリアは目を見開き、口をあんぐりと開けて、クイーンの提案に即答できずにいた。それは迷ったのではなく、クイーンの寛容さが度外れていて、咄嗟とっさに意図を理解できなかったのである。

 シュリアの目のあたりは、睡眠と食事を絶っていたために痩せてくぼんでおり、開いた口も歯がほとんど抜け落ちていて、それがほうけたようにクイーンの顔の一点を見つめているので、異様な顔になった。

 クイーンは、シュリア同様に唖然とするラドワーン王とその側近らに向かって、この男の処置について存分にする権利を求め、容れられると、彼と話をするために引き上げていった。

 去り際、ラドワーン王はエミリアを呼び止めて懸念を漏らした。あの男の真意はまだ測りかねる、おそばに近づけない方がよいのではないか、というのである。

 エミリアはそれに対し、簡潔に、ただある種の誇りをもって応じた。

窮鳥きゅうちょう懐にれば猟師もこれを殺さずと申します。それを常日頃より実践されているのが我が主君です。ただ、ご懸念は主君に申し伝えます」

 ラドワーンが納得したか確認するまでもなく、エミリアは護衛の務めを果たすため、クイーンを追って部屋を出た。

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