第10章-③ アポロンの蒼いバラ

 ラドワーン王は、スンダルバンス同盟を構成する四つの王朝のひとつ、ナジュラーン朝の君主である。同盟の王朝はいずれも古典的な封建体制で、これらが常に軍事同盟を結び連合体として機能しているために、スンダルバンス同盟と一括ひとくくりに呼んでいる。

 ただ同盟内部では特にこの1世紀間ほどで内部抗争が頻発するようになっており、かつての強固な紐帯ちゅうたいは維持されなくなっている。その長年のひび割れが、イシャーン王による王国軍への領土通行の許可というかたちで一挙に拡大し、ついに完全な分裂という結果を迎えた。

 今や、同盟はラドワーン王を旗頭とする主流派と、イシャーン王率いる反主流派とに分かれ、前者はオクシアナ合衆国、後者はオユトルゴイ王国を味方につけ、血で血を洗う抗争を続けている。この多国間紛争は、前者にロンバルディア教国、後者にレガリア帝国がさらに加わって、大陸六ヶ国のうち五ヶ国を巻き込んだ大戦へと発展している。

 抜き差しならぬ状況、と言っていい。

 この状況を生み出すのに大きな役割を果たしたラドワーン王であるが、その性格は喜怒哀楽が激しく、高潔であることを好み、特に病的なほどに正義に執着した。利害よりも道理を尺度として考え、正義に沿う行いを愛し、正義に背く行為は過剰なほどに糾弾を加えた。この性格が、コーンウォリス公国を併合したレガリア帝国や、王国軍のブリストル公国侵攻に暗黙裏に協力したイシャーン王と、深刻な対立を生むこととなった。特に後者に対しては、盟友のヌジャンカ王とンジャイ王を語らって討伐軍を起こし、そこに各国が軍事介入したために今回の大戦が引き起こされたことを考えれば、彼の正義という概念に対する異常なこだわりが大規模な国際紛争の一因になったと言えなくもない。

 彼の版図は従来、同盟領の西の端で、ほかの三人の王の領土よりも小さい。しかも土地の多くは不毛の砂漠であり、大都市と呼べるのはナジュラーン市とデリゾール市くらいで、領民も160万人程度であろう。だが治国と軍事の才幹に恵まれ、彼の治世下では勢力としての勢いも増している。特にネタニヤの会戦で盟主格のヌジャンカ王が戦死し、僚友のンジャイ王も重傷を負ってからは、その両勢力の後見人として事実上の執政官を務めているために、彼を取り巻く状況は決して悪くない。イシャーン王を討ち、王国軍を追い出すことができれば、彼が同盟領全域を掌握することになるであろう。

 そのラドワーン王であるが、ナジュラーンの宮殿にロンバルディア教国のエスメラルダ女王を迎えたその夜、彼女に求婚をした。無論、これは公式のものではない。あくまで非公式の打診で、しかも条件つきであった。同盟軍の軍事バランスを、東方から西方へと振り向けることで、窮地にあるロンバルディア教国を助けともに帝国を討つ、その条件としての結婚である。

 しかし一国の女王に対し、妻になれ、というのはずいぶんと思い切っている。

 この申し出にクイーン自身も思わず息を呑んだが、それ以上に慌てたのは陪席していたエミリアであった。この時ばかりは、彼女も礼儀の衣を脱ぎ捨て、沈着の仮面も剥ぎ取って、ぶしつけな問いを発せざるをえなかった。

「失礼ながら、今なんと仰せに」

「それでは念のためいま一度申し上げよう。我らは陛下とともに帝国領へ進撃いたします。その条件として、陛下には私の妻になっていただく。いかがです」

 ラドワーン王はクイーンに目線を固定したまま、不敵でふてぶてしい笑みさえ浮かべ、臆面もなく条件をつきつけた。その表情に、エミリアが激しい憎悪を感じたことは言うまでもない。

 この男は、クイーンの政治的窮地に付け込んで、そのみさおを要求している。しかも実際に両国の王が婚姻するとなれば、失うのは女性としての尊厳だけではない。ロンバルディア教国女王の資格は処女の女性のみに限られており、結婚すれば当然、クイーンは退位を余儀なくされる。そうなれば自然、ロンバルディア教国それ自体が、ラドワーン王の手中に収まることになるであろう。つまり、国を失うことになる。

 帝国軍は確かに卑劣な奇襲によって教国を奪おうとした。これは許しがたい行いである。だが目の前にいるこの男はどうか。その帝国軍の背反に便乗し、窮した盟友に信義に背く要求をして、己の欲求を満たそうとしている。

 世に高潔とうたわれるラドワーン王の正体は、カラスのように狡猾こうかつで卑劣な男であった。

 あまりの衝撃に二の句も継げず、ただわなわなと震えるエミリアを眼中にも置かず、ラドワーン王は続けた。

「エスメラルダ女王陛下、あなたは美しい。世評にたがわぬ、いやそれをはるかに超える美しさであられる。例えるなら、あなたはアポロンの蒼いバラである。あなたを我が妻とし、あなたを我が宮殿に住まわせることができるのなら、私は名声や名誉など惜しくもない。いとしいあなたになら国を差し上げても構わぬ。これが悪魔の取引で、片目をつぶすことになっても後悔はせぬでしょう。たとえあなたに軽蔑されても、私はあなたが欲しい」

「言わせておけばッ……!」

 エミリアはやにわに腰を浮かせ、腰の剣に右手をかけた。平素は冷静で己を見失うことのない彼女が、この場はまるで別人のような形相であった。彼女の理性が地を離れ浮き上がってしまうことがあるとすれば、それはいつもクイーンが危険に晒されたり、あるいは侮辱されたりしたときであって、そのようなときは何者も寄せつけぬ烈火のようなすさまじさがあったと、同時代人の一致した感想がある。

 だが、エミリアの奔騰する激情は、クイーン自身によって、暴走の一歩手前で制止された。

「エミリア、落ち着いてください」

「しかしクイーン、これだけの侮辱を受けて黙っていることなど」

「国を救うことができるなら、私は侮辱を受けようと、いくら罵られようと構いません。女王戴冠たいかんの日、私はそうした日がいつか来るかもしれないと思っていました。武運つたなく敵の手に落ち、辱めを受けて殺されることがあるかもしれません。また私に人望がないために、信頼していた者に裏切られ、国都の大路で見世物にされ民衆に打ち殺されることだってあるかもしれません。ですが、私はそうした恐れを覚悟して、女王の務めを果たそうと思っています。まして、人の妻となることがなんだというのです」

「クイーン、まさか、この条件を受け入れると……?」

「望まずとも、そうするしかないと思っています」

 呆然とするエミリアを置き去りにして、二人の王は正面から互いの目を見据えた。どちらも、澄んだ目をしていた。気高い誇りと大志を胸に抱いた者の目である。

 (クイーンが、このような下劣な男に奪われてしまう)

 その事実はエミリアを悩乱させた。エミリアにとってのクイーンは、ときに愛くるしい妹のようでもあり、ときに敬愛すべき主君であり、それ以上に神聖不可侵な聖女であった。クイーン自身に匹敵するほどの高潔で高徳に恵まれた英雄であればともかく、よりによって脅迫者の汚らわしい手に落ちるというのか。

 エミリアは乱心した。

 彼女は石火のような早さで剣を抜き、己の首に当てた。それよりもさらに素早い動きで、クイーンがエミリアの腕につかみかかった。一瞬のもみ合いのあと、ラドワーン王が鋭く叫んだ。

「そこまで!」

 彼はすっくと立ち上がり、先ほどまでと違った濁りのない明るい輝きを瞳と頬のあたりに浮かべた。

「いや、陛下には忠臣がおられる。王としてのお覚悟もお見事と言うほかない。感服しました。先ほどのお話は私の演技。失礼ながら、あなたを試したのです」

 二人は、やや呆然としてこの悪趣味な男を見つめた。クイーンはなおもエミリアの剣をつかんだ手を離さず、

「私を試されたというのであれば是非もありませんが、そうであれば改めて条件を伺いたく思います」

「条件などありません、何もです。ともに軍を率い、帝国と戦いましょうぞ」

 それを聞いたクイーンは小声で、剣を収め着席するようエミリアに促した。エミリアは何も言えず、ただふらふらとその通りにした。

「それを聞いて安堵いたしました。ご無礼の数々、どうかお許しください」

「とんでもない。彼女の行いはまさに忠臣の志から。陛下も国のため自らを犠牲にする覚悟をお持ちだ、素晴らしい。むしろ私の方が、衷心ちゅうしんよりお詫び申し上げたい」

 何はともあれ、本日はお休みください、との言葉に従い、二人はラドワーン王との会談の場を辞した。

 エミリアは、そのままクイーンにあてがわれた贅美ぜいびで豪奢な寝室へと招じ入れられた。未だに放心状態のエミリアに対して、クイーンはいたわるように情愛の深い眼差しを向けている。シルク生地のベッドに並んで座りながら、クイーンはゆっくりと話をした。

「エミリア、先ほどはありがとう」

「いえ、私は乱心のあまり無礼を働き、クイーンにご迷惑を。万死に値します」

「エミリア、あれはあれでよかったのよ」

「……というと?」

 不思議なことに、クイーンはにこにこと笑っている。

「あの時、私は妻になるよう求められて、すぐに分かったの。ラドワーン王は、高潔で義を愛すると評判の人物よ。それだけに、自分に対する世評にも敏感なはず。私の窮地につけこんで、強引に妻にしたことが世間に知られたら、これまで積み上げてきた信頼も名誉も失ってしまう。私一人ほしいために、そこまではしないはずと思って、だから私も彼の演技に乗ってみたの。この人は、私の反応を見たいだけだと。もしあなたまで彼の真意を見抜いて、反応が鈍かったら、彼の心象も違っていたでしょう。あの場は、側近のあなたが冷静さを失い、私が覚悟を見せる。それが正解だったのよ」

 エミリアは、クイーンという人物を知っている。偉大で、聡明な君主だ。だがこの日、改めて思い知らされた。この方の人を見る目、人の心や考えを見通す力は、まさに神のようだ。エミリアの乱心さえもラドワーン王に対する交渉の材料として用い、彼をすっかり信奉者にしてしまった。

 この日から、ラドワーン王はしばしばクイーンをして「アポロンの蒼いバラ」と形容して、その美貌や徳を称えた。この詩的な表現はやがて大陸全土にまで広がって、クイーンの名を高めることにつながった。

 ちなみに、アポロンとはアポロニア半島一帯の古い表現である。また蒼いバラは世界に存在しないものとされ、つまりは存在しえないほどの美しさを誇っているという含みを持っている。

 無論のことだが、彼らの会談における結婚の要求などについては、ついに表に出ることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る