第10章-④ 汚いコウモリ

 同盟領西部のナジュラーン地方を領有し、今や同盟領北部と南部をも管轄下に置くラドワーン王。

 それに対し、同盟領東部を有して対抗しているのが、イシャーン王である。

 彼はラドワーン王とはまったく正反対の人格を有していた。野心家で、ほかの王を蹴落とし、自らが同盟領全域を支配して、統一国家を建てたい。そのためには手を汚すこともいとわないし、昨日までの味方を裏切ることも恐れない。彼には高潔な自分を演出してその偶像に酔うようなところはなく、徹底した実利主義者である。また力を得るには、自らの名声や他人の忠誠は重要ではなく、権謀術数こそが最も有効な手段と考えていた。質実剛健を重んじ禁欲を美徳とするラドワーン王と対照的に、欲望に対して忠実で、華美と贅美ぜいびを喜び、宮殿を華やかにし、領内や他国の人売り商からも多くの妾を買い取ってハーレムを築き、酒色を楽しんだ。あらゆる欲という欲が人並外れて強く、その欲を達成するための振舞いは、まさに剛腕と評するに値した。

 ラドワーン王とよく似ているのは、その精気に満ちあふれた印象である。ただ彼の好敵手とやや異なるのが、ラドワーン王は陽気で真正直な人柄がエネルギーとして体外にあふれ出ているが、彼のそれは、他者を威圧し征服しようとするような危険なにおいが常にするのであった。そして宝石のように輝くセピア色の瞳が、貫くような鋭さで他者を恫喝どうかつしている。

 このあたりが、彼が「砂漠の禿鷹はげたか」と呼ばれ恐れられる一因かもしれない。

 イシャーン王の治めるクリシュナ地方は、同盟領東部にあり、もとはヨーク川を挟んで東にオユトルゴイ王国、陸続きで北にブリストル公国と接していた。周知の通り、ブリストル公国は現在滅んでいて、その旧領はすべてオユトルゴイ王国の植民地のごとき扱いとなっている。

 領土の広さで言えば、クリシュナ地方は同盟領全体の5分の1程度といったところであろう。だがこの一帯は大河であるヨーク川の流域にあり、土地は開けて地味ちみも豊か、人口も多く同盟領内で最も繁栄している地である。

 加えて、イシャーンは治政にかけてもなかなかの巧者で、しばしば見舞われる黄砂や蝗害こうがいによる食糧難の対策として屯田事業を進めたり、オユトルゴイ王国とのヨーク川を挟んだ貿易を強化したりなどの施策を行い、領民に対しては意外に寛容で公正な姿勢で接したから、執政者としての評判は悪くない。

 もっとも、彼の本領はなんといっても軍事力を背景にした積極外交であり、この軍事力には彼の配下にある精鋭の駱駝らくだ騎兵や弩弓隊だけでなく、盟友たるオユトルゴイ王国軍も含まれる。彼はチャン・レアン大都督率いる王国の大軍を自領に招き入れ、そこから戦線を拡大し、一時は同盟領の半ば近くを手中にした。ランバレネ高原の会戦でその勢いを止められて以来、この戦線はひたすらに両軍がにらみ合いを続ける膠着状態が続いている。王国軍にはなお豊富な兵力が旧ブリストル領に残っていたが、ウリヤンハタイの率いる残党と合衆国軍の民兵が手を結んでゲリラ戦を展開しており、この方面を手薄にすることはできない。

 ランバレネ高原で痛み分けに終わって以降、拮抗きっこうしていた戦力バランスに変化が訪れたのは、1月12日のことである。この日はちょうど、帝国軍にわれた教国軍が、ナジュラーンの都へ到着した日でもあった。

 変化とは、合衆国軍の増援として、イーサン・ウェルズ中将率いる13,000人もの大部隊が戦場に姿を見せたことである。彼はもともと、合衆国領東の国境で接するバブルイスク連邦への抑えとして本国に留まっていたが、同盟領戦線への兵力投入が重要と見て、大統領から配置換えの動員命令が下されたのであった。

 イシャーン王はこの増援軍の接近を知るや、正面に展開しているラドワーン軍及び合衆国軍とのあいだに挟撃の態勢を築かれることを恐れ、チャン・レアンと相談の上で戦線を19km下げ、要害の地であるビーダル丘陵まで退しりぞいた。

 戦力的には優勢になったラドワーン軍と合衆国軍であったが、彼らはなおも慎重で、全面攻勢に出ようとはしなかった。彼らにはさらに教国軍の援軍がある。その到着を待ったのであった。

 だがやがて、教国軍が帝国軍の襲撃を受け、同盟領内に逃げ込んできたとの報がもたらされ、彼らの期待は打ち砕かれた。教国軍38,000が加わってこそ、彼らは圧倒的優勢な状況から攻勢に出ることができる。帝国が敵に回ったとなれば、彼らは腹背に敵を持ち、西と東から押し潰されるようにして圧迫され、いずれそのむくろは砂漠に埋もれて、骨さえも朽ち果てるであろう。

 ラドワーン王は五番目の弟であるムアンマルに陣を預け、二番目の弟で参謀格のヤアクーブと少数の護衛を連れて、合衆国軍の陣営へ駆けた。司令官のグラント大将、副司令官のフェアファックス中将、作戦参謀のフーヴァー中佐らと談合し、今後の方針を決めた。

 すなわち、この戦線に残るのはムアンマル率いる2,000の兵で、これは独立した戦力ではなく、合衆国軍に加わって、地理不案内な合衆国軍を作戦の立案や実施においてサポートする役目を帯びている。

 ラドワーン王と主力部隊は、戦場を去る。

 とはいえ、この方面に展開する双方の兵力は再び互角に戻った、といったところである。

 ラドワーン王の宿敵であるイシャーンとしても、宿敵が眼前から去ったとはいえ、ランバレネ高原を抑え堅固な陣地を築いた合衆国軍に対し攻勢をかけるには、時機ではない。

 イシャーンは、陣営内で毎晩、酒を飲み、その後は必ず第六夫人のアイラと寝所をともにしている。彼は、常に野兎のうさぎのように臆病かつ繊細で、彼の振舞いを息を詰め震えながら受け入れるような、か弱い女が好みであった。だがアイラのみはその稀少な例外で、狩りの際に拾って以来、何ら臆することもなくイシャーンの傍らに仕え、肉欲に対しても奔放で、この道にかけても絶倫なイシャーンの要求によく応えた。またそれ以上に野心が強く、政治にも関心があって、自らの勢力を扶植することにも才があったから、イシャーンにとっては単なる愛妾ではなく、政治的なパートナーのような存在でもある。政略結婚で迎えた第一夫人とはこの5年ほど顔も合わせていないことと比較すると、アイラは戦地にまで同行させ、ともに淫欲にふけり、政治向きのことも相談に乗るため、その発言力たるや巨大で、非常な権勢を誇っていると言っていい。

 ラドワーン王が戦場を去った理由が、帝国軍に襲われた教国軍を自らの本拠地に迎えるためと知ったイシャーンは、その夜、当然のようにアイラにその情報を共有した。彼にとっては、保有する兵は多いが知恵のない盟友のチャン・レアンなどよりも、この女の方がよほど語るに足る。

「ラドワーンは戦場を去った。だが合衆国軍が残って、固く守っている。我々はこの地から動けん」

「ラドワーン王は何故、去ったのです」

「ロンバルディア教国の女王が軍を率いて帝国領を通った際、帝国軍に奇襲を受けた。王国が帝国に手を回していたのだ。教国軍が同盟領内に入ったため、ラドワーンはそれを迎えに行ったというわけだ」

「今度はロンバルディア教国にレガリア帝国、ずいぶんにぎやかですこと」

「次から次へと、野心の亡霊にかれた連中が出てくる」

「あなたをはじめとして」

 アイラの肌は、木の屋根と二重の幔幕によって冷えた外気から断熱され、煌々こうこうかれたトーチによってうっすらと汗がにじみ、キャメルのように色づいている。彼らは政治向きの話をしつつも、同時に性的欲求さえも追求できるという少々変わった精神構造の持ち主であった。

 アイラは、よく鍛えられ引き締まった分厚い愛人の胸板に艶めかしい愛撫を加えながら、恐ろしい提案を始めた。

「それでは、ラドワーン王は数日もすればロンバルディアの女王とお会いになりますわね」

「そうだな、そうなる。両者は正式に手を結び、戦争はさらに長期化することになる。私には王国と帝国が、ラドワーンには教国と合衆国が味方について、長い戦いが続くだろう。5年か、あるいは10年か」

「それほど長引かせずとも、あなたのお力があれば、その期間を劇的に短くできるではありませんか」

「私の力だと」

「あなたのように賢い方ほど、気付きにくいことがあるものです。シュリアをお使いなさればよろしいでしょう。なんのために、あのような汚いコウモリを飼っていなさるのです。ラドワーン王とロンバルディアの女王を同時に始末してしまえば、二頭の獅子は頭を失ってやがて倒れます」

「奴を使って、獅子の頭をもぎ取れと申すのか」

「政戦両略の争いも、虚々実々の駆け引きも必要ありません。重要な問題こそ、単純で安易な解決方法があるものですよ」

 しばらくアイラの手や舌が動くのに任せながら、イシャーンは思考を数百km先のナジュラーンの宮殿へとはばたかせ、戻ってきたときには、彼は黙って服を着て寝所を去り、番兵に人を呼びにやらせた。

 英雄は色を好むなどというが、情交の最中でも野心を満たすためであれば居ても立ってもいられず寝所から飛び出てしまうなどというのは、珍しい種類の漁色家であろう。

 アイラは、そのような情夫の奇行に慣れていることもあり、気にも留めず、そのままやわらかい羽毛の詰め込まれた寝具をかぶり、眠ってしまった。

 番兵に呼ばれ、参上したその男は、シュリアという名前を持っていた。

 だが本来、彼にその名前をイシャーンやアイラといった高貴な雲上人うんじょうびとに呼ばれる資格はない。彼は身分規律が異常に厳格な同盟領内にあって最下層の隷属民、いわば奴隷階級の出身であった。この身分は不可触民と呼ばれ、人としての扱いを受けない。教育機会を与えられず、就労の制限も強いために、屠畜とちく、糞尿処理、狩猟、通りの清掃といった仕事しか受けられない。彼らが触ったものは、ほかの階級の者が触れることができない。彼らは常に死や血や汚物を取り扱っており、けがれそのものだからである。

 シュリアは成人してのちは、アサシンと呼ばれる暗殺専門の傭兵集団に加わった。これはイシャーンの治世になってから名が知られるようになった組織で、彼が王になるまでのあいだ、二人の兄と三人の弟が相次いで奇怪な死を遂げたが、いずれも彼が雇ったアサシンが暗殺の役目を担ったのではないかと噂されている。新しい職業であるために、最下等民であっても才能次第でなることができる。シュリアは若いながらも暗殺剣の達人であるとともに、情報収集、流言、破壊工作など諜者としての才に恵まれていたから、イシャーンも彼の名前は特に覚えていて、便利に使われていた。

 ただ、この国では出自は争えない。イシャーンはシュリアに対し、特別な待遇として直問と直答を許していたが、それはこの有能なアサシンを愛していたためではなく、単にあいだに人を挟んで対話をせねばならぬという、その手続きが面倒だからであった。実際、イシャーンが彼を人として見ていなかった証拠に、命令を与えたあと、その場で食料を地面に放り投げ、彼に拾わせるのであった。彼はいつも砂やほこりのついたサモサやナンを抱え、それらを時間をかけてゆっくりと食し、危険な任務に就くのであった。

 アイラは彼を汚いコウモリと表現したが、これはことさらに嫌悪しているわけでも、揶揄やゆしているわけでもなく、実際にそのような存在としかみなされていなかったのである。

 しかし、彼はそれを不条理とは思わなかった。彼は生まれながらの不可触民であり、生まれながらの汚いコウモリであった。が、それがどうだというのであろう。

 27年間もそうした存在と定義されて生きてきた者にとって、その事実は不都合でもなければ、ましてや不条理などではない。不条理などと思えるはずもないであろう。

 彼はイシャーンからの直接の密命に従い、二名の部下と、王国軍から借り受けた三名の旧ブリストル公国人間諜を伴い、隊商を擬装してナジュラーン地方へと向かった。

 任務は、ラドワーン王と、ロンバルディア教国女王エスメラルダの暗殺である。

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