第10章-① 同盟の条件

 帝国領における死線を越え、同盟領へと足を踏み入れた時点で、ロンバルディア教国の遠征軍は本国から出撃した頃の7割ほどにまで減少していた。あとの1割強が負傷兵、さらに1割弱が捕虜に、その残りが戦死者である。

 しかし帝国領との国境線に配備された同盟軍はわずかで、この地で安息の時は得られない。彼らが当面のあいだ目指すのは、ラドワーン王の地盤であるナジュラーンである。

 ラドワーン王の配下でヌーナ街道上の国境警備隊を束ねるラフィークという男が、まずは一行を出迎え、そのままナジュラーンへの道に同行した。ラフィークは黒衣に全身を固め、厳しい表情と大地が割れるほどの大声を持った壮漢で、ロンバルディア教国女王たるクイーンに対しても敬意を払いつつ、決して卑屈の色は見せなかった。

 途中、メーワールという白い煉瓦れんがの城壁に囲まれた城邑じょうゆうで一晩を休んだが、翌日にこの町を出発して振り返ってみると、黒煙がすさまじい勢いで上がっていた。

「帝国軍の追撃か」

 教国遠征軍の首脳は色めき立ったが、ラフィークが冷静に止めた。問いただすと、あれは焦土作戦の一環として味方が放った火である、という。無数の民が、住居も家財も故郷も失い、取るものも取りあえずに逃れてくる。教国軍はクイーンの命令で、これらの民をかばいながら、ナジュラーンを再び目指した。

 ラフィークの案内で教国軍がナジュラーンの王宮に到着したのは、1月12日のことである。

「現在、急使を前線のラドワーン王に差し立てております。いずれ沙汰がありましょう。私はこれより再び帝国方面へ急行して、敵の足止めを図ります。宮殿内外での応接は大臣のマスウード殿に引き継いでおきました」

 それだけを言い残して、ラフィークは去った。

 王宮の応接室で対応にあたったマスウードは、温厚で善良な人柄のようで、一行は安心した。有能で屈強な指揮官である一方で、どこか冷酷で残忍な印象を与えるラフィークに対し、遠征軍首脳の誰もが打ち解けない気持ちを抱いていたのも、また事実であったのだ。

 外交折衝における代表団は、クイーン自身とエミリア、レイナート将軍、ドン・ジョヴァンニ将軍が参加して構成することがほとんどであった。カッサーノ将軍は根っからの武官で、政治向きの話が苦手であることと、軍中における先任者として軍を統括し管理する者が必要だったからである。軍は、宮殿の外に分屯して、野営した。これまでの外交上の経緯いきさつから事実上の同盟関係にあるとはいえ、宮殿内に万単位の軍を駐屯させることは儀礼上も忌避されるべきであった。

 が、クイーンら代表団の面々は、近衛兵団の護衛を伴い、客人の身分として宮殿内を自由に歩くことができる。加えて帝国との戦いで傷を負った負傷兵も、武装を解除の上、宮殿内で治療を受けるため収容された。

 ナジュラーンは都市の名前であり、この都市を包括する地域の名前でもあり、また宮殿の名前でもある。ナジュラーン市と呼ばれる都市全体を巨大な城壁で囲み、さらにその一角に高くそびえる要塞をナジュラーン宮殿と称しており、彼らの本国であるレユニオンパレスに比べると二回りほど小さいが、これは建築時点での基本的な設計理念が、レユニオンパレスは純粋な王宮として構想されたのに対し、ナジュラーン宮殿はこの数世紀来、争乱の絶えない同盟における一大城塞として機能させることを眼目としているという、その違いに由来するであろう。

 実際、この宮殿は質素で武骨で機能的な印象を人に与えていて、同じ王宮といっても本国とはずいぶん違っている。

 クイーンは数日、この宮殿を外交目的で訪れつつも、夜には必ず野外の自陣に戻って、そこで寝泊まりした。過酷な征旅をようやく終え、今も寒風のなかにひもじい思いで野宿を強いられている兵をそのままに、自分だけが安穏とナジュラーン宮殿の客室で眠るわけにはいかない、というのがその理由である。マスウード大臣の好意で、教国軍には最低限の兵糧が供給されていたが、彼らの故郷で味わう食事とは比べるべくもない。

 しばらく待つうちに、ラドワーン王がイシャーン王及び王国軍と対峙する戦線から軍を引き払って帰還した。ナジュラーン市の城壁の前で、両雄は初めて顔を合わせたことになる。

 対面にあたって、クイーンは下馬の礼をとった。側近らも全員、馬を下りてラドワーン王を待った。ラドワーン王、その光景を見るや、慌てて下馬し、徒歩で教国軍代表団のもとへ歩み寄った。表情は絵に描いたような満面の笑みである。

「女王陛下、急を聞きせ参じました。このような事態ではありますが、ようこそ我がスンダルバンス同盟ナジュラーン宮殿へ」

「ラドワーン王、敗残の身ながら恥を忍んで参りました。本来、我々は貴軍を支援するために軍を起こしましたが、こうとなっては王に捲土重来けんどちょうらいの機会を与えていただくほかありません。私はともかく、どうか将兵には、寛容な扱いをたまわれればと思います」

「陛下は我らの客人。何を左様に隔意のあることを仰せです。遠い異国のことわざにあります。ともあり、遠方より来たる、また楽しからずやと。すなわち、志をひとしくする友がこうして遠方より訪ねてくることは、人生における最上の楽しみです。さぁ、まずは貴軍を宮殿内へ。少々、手狭とは思われるが、地面に腰を下ろすよりはよほどよい」

「しかし、大軍を市街や宮殿に入れるのは剣呑けんのんに思われるでしょう。民衆も不安に思うかもしれません」

「これはまたよそよそしいことを仰せだ。陛下は義によって軍を起こされ、その軍も大義を掲げし義軍。すなわちその将兵は私にとっても我が民にとっても同胞である。どうか宮殿へお入りください。陛下が応諾されねば、私もこの場を動かぬ」

「では、お言葉に甘えまして」

 クイーンは、ナジュラーン市街及び宮殿内での略奪、暴行、その他の犯罪や無作法を固く禁じ、破る者は重罰に処すことを全軍に布告した上で、整然と、その軍を収容させた。ナジュラーン市民は異国の大軍を城壁の内に迎えることに不安を覚え、なかには恐怖する者もいたが、教国軍は厳格な統制下のもと、市民に一切の迷惑をかけず宮殿に入ったため、その信頼と評判はかえって上がった。

「今夜はまず、軍をゆっくりお休めください。陛下さえよろしければ、ささやかながら晩餐ばんさんを差し上げたい。準備が整い次第、迎えを遣わします」

 ラドワーン王のやや過剰とも言える好意とその熱量に、クイーンはやや戸惑いながらも申し出を受けた。彼女は軍を師団長らに預けて休息させ、夜はエミリアと、ダフネ、クレア、サミアの三名の近衛兵を護衛として、ラドワーン王を訪ねた。

 食卓には、彼女ら全員分の食事がしつらえてある。最初、エミリアが毒見を買って出る気息を示したが、クイーンはそれを静かに目で抑えた。ラドワーン王に対する信頼を証明する意図からであることは、エミリアには無論、分かっている。このあたりは、彼女らの阿吽あうんの呼吸と言うべきだろう。それに、仮にラドワーン王に害意があるなら、たとえ毒殺をまぬがれたとしても、彼女らに生き残るすべはあるまい。

 ヤギ乳のチーズ、ひよこ豆とチキンのカレー、ラム肉のハンバーグなど、少々癖があるが、いずれも美味で、美食に飢えていた彼女らを無邪気に喜ばせた。

 食後、応接室に移動してから、ラドワーン王は密談のため人払いを求めた。クイーンは例によってエミリアを自分の分身であると表現し、同席を許可させ、近衛兵とラドワーン王の側近が退室した。今後について早急に談合の場を持つべき状況であるから、当然のことではある。

 ラドワーン王は冒頭の挨拶や世間話を省いて、単刀直入に尋ねた。

「それで陛下、これからどうなさるおつもりですか」

「まだ分からないというのが正直なところです。できれば本国と連絡をとり、互いに呼応して帝国領へ再度の侵入を試み、戦線を結んで本国へ帰還する道を打通したいところではありますが、その連絡手段や、そうした企図が成功しうるものかどうかも、今はまだ見通しがつけられておりません」

「なるほど。ではいかがです。オクシアナ合衆国、そして我が同盟と正式に軍事同盟を結び、その上で我が軍と連合し、帝国領へ討ち入るというのは。我らが手を組んでともに戦えば、戦場に展開できる兵力は5万を超えましょう。帝国領を突破して本国へ帰還するというのも、あながち夢物語ではあらぬと考えますが」

「ですが、同盟軍の戦力が西側に振り向けられれば、東の備えが甘くなり、危険が大きいのではありませんか?」

「ごもっともではありますが、その点はどうか心安らかに。合衆国軍が大軍をもって防ぎ止めてくれます。我が国に派遣されている合衆国軍の実質指揮をとるフェアファックス将軍は我が莫逆ばくぎゃくの友で、彼に背中を預けておれば、イシャーン軍や王国軍を一歩も進ませぬことは疑いありません」

「我が国の窮状にそこまでのご支援をいただけること、感謝の言葉に尽くせません」

「ただし、条件がございます」

「ご教示ください」

 ラドワーン王は、勢いよく燃えるトーチの明かりのなかで、精力のみなぎった黒い瞳を爛々らんらんと揺らめかせ、ややもったいぶるようにして言葉を止めた。石灰石で形成された白い煉瓦造りの宮殿の内部は、硬質の外観や内装に比し、存外に保温性が高く、室内に多くのトーチを灯すと、わずかに暑く感じるほどである。だが、これは先ほどの料理に多く含まれる香辛料のせいであるかもしれない。

 クイーンとエミリアはその条件とやらを、辛抱強く、じっと待った。

 大軍を伴っているとはいえ、敗残の身で厄介になっているという先方の優位性を考えれば、どのような無理難題を提示されることも覚悟しなくてはならない。ラドワーン王は高潔な人物であるというので有名だが、例えば領土の割譲、謝礼金の要求、二国間貿易における優遇措置、物資の無償供給、新技術の供与。その程度の見返りは求めてくるかもしれない。

 だがラドワーン王の示した条件は、彼女らのあらゆる想定をはるかに超えていた。

「陛下、条件はひとつです。陛下が、私の妻となることです」

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