第9章-⑤ 生真面目な悪魔
ハルマン・ハーゲン特務機関少佐。
この人物についても、帝国を語る上では触れておいた方がよい。レガリア帝国という国の特質を最も端的に垣間見ることのできる人物だからだ。
まず特務機関という組織についてだが、これはヘルムス総統に直結した軍組織で、諜報、世論操作、破壊工作などが表向きの任務内容とされているが、実際には捕虜や犯罪者への非合法な拷問、虐待、あるいは毒物の研究、そして人体実験などを裏の任務として持っている。いわば、国家による犯罪を推進する元締めのような組織である。
ハーゲン博士は、もとは神経学を専門とする平凡な医師であったが、ヘルムス総統を診察する機会があり、互いを知った。数年来、ヘルムスは左腕の震えが頻繁に出るようになって、神経を
幾度かの診察の機会を経て、ハーゲン博士は絶対的独裁者として君臨するヘルムスに魅せられ、またヘルムスも彼を深く信頼するようになった。そしてヘルムスは、彼の医学的科学的才能と任務に対する忠実さを買って、彼に致死的な毒物の量産や、より効果的な拷問の方法などを研究させることで、その成果を帝国の切り札として利用することを考えた。
ハーゲン博士はこうして、大尉待遇で特務機関に所属することとなった。
帝国と教国の開戦前年にあたる1396年には、薬物中毒に関する研究が認められ、少佐に昇進している。
彼は帝国の行った多くの犯罪について主犯格として関わったという事実を除外すると、極端な思想家であったりとか、精神に異常をきたした偏執的な研究者といった人物像は見えず、どちらかというと平凡で冴えない中年男性という、それ以上の印象を人に与えることはなかった。目立つことが嫌いで、華やかな表舞台には一切、登場しない。
彼はただ、ヘルムス総統という英雄に個人的に心酔し、その求める役割に対して誠実に取り組んだに過ぎない。
だがその所業たるや、悪魔のようである。彼のごとき存在は、特別なところのない、ありきたりな性格の生真面目な医師が、置かれた状況、関わる人間や組織によっては、歴史に残る大悪人となりうるのだという、よい例証と言えるだろう。
デュッセルドルフの戦いで捕虜となった教国軍の将兵をルーザスデールの収容所で迎えたのが、この男であった。
捕虜はハーゲン博士の指示によって、まず男女と年齢で分けられた。ほかの国の軍ではまず見られないが、教国軍はその近衛軍の高級将校や女王の警護隊が女性で構成されているために、女性の軍人というものが少数ながら存在する。
次いで身体的特徴や健康状態を把握するために、身体検査が行われた。男女構わず、身にまとっている衣服はすべて脱ぐように命令され、全員が収容所の中庭に整列させられた。この時期のルーザスデール周辺は日中でも氷点下になることが珍しくなく、温暖な教国とは大違いで、この環境で全裸になることを強要されるのは、名誉の点でも、また無用の身体的苦痛を与えるという点でも、充分に虐待と言えた。
捕虜のうち数名、この待遇に抗議する者も現れたが、即座に鞭で打たれ、死ぬまで打たれるのを見て、誰もが口をつぐんだ。長い者では数時間、酷寒のなかで放置され、戦傷のため弱っている者はばたばたと倒れて、それらは治療を受けられずにやがて死んだ。
検査のあとで、彼らは麻の囚人服に着替え、酷烈な労働に従事することを命ぜられた。労働といっても、休憩などはない。薄着で凍えるような寒さのなかで農耕や採掘に駆り出され、与えられる食事は犬の餌と区別のつかぬほどで、睡眠も日に3時間とれるかといったところである。凍死、餓死、あるいは採掘中の事故死が続出した。
捕虜は私語を禁じられ、常に帝国兵によって監視された。逃亡を企図する者はその場で殺されたので、反抗する者はすぐにいなくなった。
近衛兵団に所属していた女性の将兵は残らず帝国兵によって凌辱され、その過程で死ぬ者も多かった。なかには男性兵士も帝国兵の性欲の対象として夜な夜な連れ出されることがあったという。
このように戦時捕虜に対する帝国の虐待ぶりは凄惨を極めたが、そのなかでも最も非人道的とされるのが、先述のハーゲン博士による人体実験である。彼は将来の対オクシアナ合衆国戦争への準備として、寒冷下での人体の反応、耐性及び限界を調べると称し、柱に拘束した教国兵を野ざらしにして、その変化を観察した。実験対象となった兵は当然死んだが、彼はその遺体を解剖して、医学的な研究材料とした。オクシアナ合衆国は寒さの厳しい土地で、いずれ本格的に戦火を交えるとすれば、こうした研究が役に立つと見ていた。
また、眼球をくり抜いて視覚を失った者が環境にどう適応していくかを見たり、男性器を切除する、指を切り落とす、あるいは生きたまま人体を燃やしたり、睡眠を一切与えずに精神異常を起こして死んでゆく様や、水中に突き落として溺死する様を記録するなどといった実験が数多く繰り返された。これらの実験は正常な人間にとってはおぞましい限りだが、当のハーゲン博士は人間をいたぶる喜びに支配されていたというよりは、多分に勤勉さの産物としてこれらの任務をこなしていた。彼は趣味でも、好奇心でも、快楽でもなく、単に仕事として、淡々と捕虜の虐待を行っていたのだった。
特異な人間もいるものだ。
彼はルーザスデールの収容所にて、2ヶ月近くにわたって精力的に勤務してのち、帝都ヴェルダンディへと舞い戻った。この時期になると、ヘルムス総統は当初彼が想像したほどにロンバルディア教国の併呑や同盟領の攻略が進まないことに
南部戦線を管轄する第一軍集団のゴルトシュミット大将、東部戦線を統括する第二軍集団のメッサーシュミット大将は、名前が似通っていることから「ツヴァイシュミット(二人のシュミット)」と称揚されるが、ヘルムス総統は両名の消極的な態度に対し本国から手厳しい批判を加えた。
「突破せよ、
その厳命は文字通り矢継ぎ早に発せられたが、前線は彼の期待を満足させるだけの果実を収穫できなかった。
ハーゲン博士が到着したのは、東部戦線のメッサーシュミット大将から「戦況は好転せず。ラドワーン王の焦土作戦により、現地では水や燃料まで不足し、進軍の足を止められている」との報告があって、ヘルムス総統が怒り心頭に発している、まさにその時であった。
ヘルムスは博士の帰還に機嫌を取り戻し、早速、密談の場を持った。
「先生、よく戻られた」
「閣下、ますますご壮健の様子で」
「先生のおかげだ」
二人は年が近い。ヘルムスにとっては彼の神経病を知り、いわば彼の弱点を知る者として特別な親近感をこの医師に対して抱いている。医師は、ときとして側近よりも支配者の懐に入ることができるものだ。
「ちょうど、先生に相談があった。例の兵器はすでに実戦投入できる段階だろうか」
「先の戦いで大量の捕虜を得まして、最終実験を済ませました。兵器として機能させられる確証が得られております」
「戦況を左右するだけの効果が得られようか」
「長期的には大きな効果があるものと認めます。特に膠着状態に陥った戦線では、戦局を一気に転換できる可能性があります。2週間から1ヶ月程度で、対象の部隊ごと破壊できる」
「素晴らしい」
ヘルムスは
「では先生、お手数だが東部戦線にて実地指導をお願いできるだろうか。あの方面の戦局を打開し、戦線を前進させれば、王国軍と東西から同盟領を
「お任せください。ご期待は裏切りません」
この、忠実であるという以外に取り柄のない犬のような、あるいは片田舎の小役人程度しか務まりそうにないような、平凡な顔立ちと瞳を持った冴えない初老の男が、帝国軍の大規模な作戦に主導的役割を果たすことになるわけだが、その詳細は後日の項に譲ることになる。
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