第9章-⑥ 停滞

 さて、帝国東部戦線の戦況である。

 1月3日にデュッセルドルフ近郊において教国遠征軍を奇襲したメッサーシュミット大将の軍だが、戦果としては期待をはるかに下回るものであったことはすでに述べた。女王も逃げ、その軍も7割以上が同盟領への退避に成功したのである。

 メッサーシュミットは同盟との国境に近いシュレースヴィヒの町まで軍を進め、攻防いずれにも即応できる体制を整えて待機したが、しばらくするとヘルムス総統の厳命が届いた。

「スンダルバンス同盟領へと侵入し、砂の都ナジュラーンを攻略せよ。さえぎる者があれば根絶やしにせよ」

 この時点で、ヘルムス総統のメッサーシュミット大将に対する信頼は失われていなかった。ヘルムスは女王とその軍の健在を知り大いに落胆したが、メッサーシュミットの才幹や誠意を疑おうとまではしなかった。それどころか、「メッサーシュミット将軍ほどの名将をして、この結果に終わったのであれば、ほかの誰をもってしてもそれ以上の成果は上げられなかったであろう」とまで言った。メッサーシュミット将軍の名声は、それほどまでに確固たるものだったということである。

 しかし当のメッサーシュミット将軍はなおも、この戦いに意義を見出せずにいた。彼の能力の問題以前に、彼の人格が、この戦いの成功への貪欲さを著しく鈍らせていた。勝って、どうなるというのか。未来永劫えいごう、後ろ指を指されるだけではないのか。

 彼は、彼自身ではそこまで偶像としての自分を意識していたわけではなかったが、常に清廉で高潔な振舞いを心がけてきたし、それが戦士の誇りであると思っていた。戦場では正々堂々と戦い、戦いが終われば敵にも手を差し伸べる。戦地での略奪や捕虜の虐待は厳禁としていたし、部下の命を軽んじたことも一度としてない。上官や総統に対しても臆することなく反対意見を述べたし、むやみに部下を罰することもない。

 だが今となっては、彼は歴史上の犯罪者でしかない。

 彼は命令に従い、同盟領へと侵入したが、最高指揮官の心情が中級指揮官以下にまで波及するのか、その行動線は鈍重で戦意と覇気に欠けていた。

 当初は対イシャーン王、対オユトルゴイ王国の戦いに出払っているために防備の手薄な同盟領西域において連戦連勝ではあったが、1月15日にはこの地方の不毛な土地柄に物資の欠乏が目立ち始め、大事をとって進軍を停止した。同盟領西域はラドワーン王の領土だが、この地域はタルトゥース川流域の都市ナジュラーンとデリゾール以外はまったく荒野と砂漠ばかりで、飲料水や暖をとるために燃やすべき木材にも事欠くほどである。

 補給線の確保にも苦慮した。このような状況では本国からの物資輸送の重要性がさらに高まるが、補給路を断つべく同盟軍が蠢動しゅんどうするのも目に見えている。補給部隊を護衛するのにも兵力を割かねばならない。

 1月18日、慎重に戦線を押し込む帝国軍の前方に、メーワールの城市が現れたが、これはすでに同盟軍によって焼き払われ、黒煙を発するだけの廃墟と化していた。進駐した帝国軍は、物資を求めてあらゆる建築物を吟味ぎんみしたが、彼らに必要なものは何一つ残されていなかった。住民も完全に姿を消している。

「焦土戦術か……」

 メッサーシュミットは町を巡察する馬上で呟いた。

 焦土戦術とすれば、徹底している。侵略軍が利用できる町を防衛側が予め破壊しておくことで、侵略軍を疲弊させ、消耗させる。この戦術は長期的に防衛側にとっても国力の低下を招くが、短期的には有効であることが多い。

 メッサーシュミット将軍は、メーワールを占拠したこの段階が進軍の限界点であると判断し、本国に物資の増派を求めた。付け加えて、焦土戦術をとる敵に対し作戦を完璧に遂行するためには、現在彼に与えられている2倍の兵力と4倍の物資が必要であるとも述べた。後者はともかく、前者に関してはそのような余剰兵力は帝国のどこにもない。

 メーワールに駐屯し、本国からの物資をひたすら食いつぶしているうち、文面から火の出るように激しい指令が届いた。

「大規模な輸送部隊を派遣した。フルトヴェングラー中将の第七軍も任務を終えたために増派する。それらが届き次第、直ちにナジュラーン攻略に移行せよ。これ以上の作戦行動の遅滞は許されない」

 ヘルムス総統は明らかに、メッサーシュミットの作戦指導に不満と不信を抱いている。こうとなっては、メッサーシュミットにも否やはない。増援の第七軍と合流し、物資も豊富に行き渡って、第二軍集団は2月27日、再び進撃を開始した。

 だが帝国軍にとってことごとく地の利を得られないのが、この季節は強烈な東南の風が吹いていて、砂漠地帯の砂を巻き上げる。ちょうど向かい風となって、視界を不良とし、将兵の目や口はおろか、甲冑や靴のなかにまで砂が入り込んだ。主に同盟領や、その東西に隣接する帝国領東部と王国領西部で見られるこの自然現象は黄砂と呼ばれ、農耕や牧畜の妨げとなったり、微小な砂が肺に侵入することで肺病をわずらう者が増えたりと、様々な悪影響を及ぼす。軍事行動においても諸々の支障があり、帝国軍の動きは目立って悪くなった。

 しかもこの状況で、ラドワーン王の軍と、態勢を立て直した教国の遠征軍が行く手に現れたため、メッサーシュミットは一時、全軍を停止させ、防御陣形をとった。兵数はざっと見る限り互角だが、黄砂に対し帝国軍は向かい風で、敵は追い風である。攻勢をかけるには不利な条件であった。

 両陣営が会敵したのは、3月2日、ラージャスターン丘陵のあたりであったが、メッサーシュミットは彼我ひがの戦略的優劣を判断して、この地で大規模な会戦に及ぶことは望ましくないと考えた。帝国軍は同盟領に対し深入りしすぎている。地理不案内で、補給についても常に懸念がある。しかも向かい風の黄砂が吹いて戦闘に差し支える状況で、同数の敵と無理に戦うことは、相手の懐で博打ばくちを打つようなものだ。むしろ帝国領まで後退し、敵を引きずり出して叩き、野戦兵力を覆滅ふくめつしたその後で改めて進軍すべきではないか。

 メッサーシュミットは短い思案の末、即断し、直ちに撤退を開始した。彼は後退と敗北を同一視するほどに無能ではなかった。敵地への進軍を成果としてそれに固執するほど愚かでもない。後退こそ最善なり、と思えば、逡巡せずに実行できる、この決断力も名将の証と言えよう。

 第二軍集団の逃げ足は、それまでの進撃速度よりもはるかに速かった。常に反撃の態勢は維持しつつ、ときにラドワーン軍や教国軍が追いつけないほどの快足で逃げて、3月も第2週に入った頃には戦線はもとの帝国と同盟の国境近くまで押し戻されていた。

 両軍はこの地点で対峙し、双方ともに鉄壁の守りを敷いて軽挙妄動をせず、数度の小競り合いを交えたものの、互いに有効な打撃を与えるに至らなかった。それはまるで、切所を迎えた名人同士の棋局のようでもある。能力と戦力の拮抗きっこうする将帥同士が、互いの兵略をかけて争い、相手が動けばすかさず後の先ごのせんをとってその崩れを叩く。その気息が、容易に戦いを仕掛けさせない。

 先に動いた方が、その動きの乱れのままに自壊する。

 メッサーシュミット将軍は焦らなかった。ロンバルディア教国のエスメラルダ女王は名将の呼び声が高く、ラドワーン王も同盟軍きっての軍事的才幹の持ち主である。このような敵を前に焦慮をもって戦おうとしては、勝利は到底おぼつかない。

 それに有利な点もある。教国軍は本国を遠く離れ、遠征の途に就いてから4ヶ月近い。将兵は長きにわたる行軍、戦闘、逃走のため疲労困憊こんぱいしていよう。同盟の過酷な風土にも早々には体が合うまい。戦線を膠着させればさせるほど、この疲労はさらに蓄積し、兵士のあいだにも厭戦えんせん気分が広まるであろう。いやすでに広まっているかもしれない。士気が落ちれば、戦術的行動も鈍化し、エスメラルダ女王自身がいかに有能であろうと、作戦を忠実に遂行することが不可能になる。

 また、敵軍が一個の人格のもとに統一して指揮されているわけではないというのも弱点である。敵は常に、ふたつの頭脳を頂点として統率されている。一方はエスメラルダ女王、一方はラドワーン王。恐らく、どちらかがどちらかの指揮下に入っているわけではなく、対等な盟友としてこの戦いに臨んでいるに違いない。同一の戦場に同格の指揮官が複数いるという状況は、意思決定の迅速さを損ない、部隊間の連携も困難にする。これも弱点と言うべきであろう。

 そして最大のポイントは、彼らの背後にはイシャーン王と王国軍が迫っているという事実である。推測ではあるが、ラドワーン王がこの戦線に現れたということは、東の抑えは合衆国軍が全面的に受け持っているということになる。だが前面と後方に敵を抱えているというのは、それだけで戦場心理を防衛的にさせ、積極果敢な作戦の採用を妨げる。

 これらの条件がある限り、メッサーシュミットとしては待つほどに勝機が見えてくることとなる。

「我らはじっと待つ。柿はまさに熟しつつある。待てば労せずして手に入る」

 メッサーシュミット将軍の側近らは、彼らの上官がどことなく、この戦いを楽しんでいるようにも見えた。やはり武人には、戦いを愛する心があるのであろうか。特に偉大な敵との戦いは、彼のような生粋の軍人の精神を躍動させる一種の快美があるのかもしれない。

 彼が真に望んでいたのは、戦場におけるこうした虚々実々の駆け引きであった。これこそ戦いの醍醐味であると思う。誇り高き武人と称される彼においても、戦いを面白いと思うことがある。それはときに自分の命や国の命運さえもチップにする危険な賭けではあるが、それだけに勝利の味は格別である。この戦士としてのさがは、彼の人間としての情義心や名誉欲、無益な戦いや卑劣な計略を忌避することとは矛盾しない。むしろ武人たる者、多かれ少なかれ、戦いを愛し、たしなむ心を必ず持っている。

 ところで、メッサーシュミットには不審もある。先述したような帝国軍にとっての有利な材料がいくつかあるにも関わらず、敵が打開のため動こうとしない。彼はそれを待っている。敵が動かざるをえない状況であることを洞察し、焦って動いたところを撃つ。だが動かない。

 状況の不利なることに気付いていないのか、気付いていて動けないのか、あるいは動かずにいると見せかけて動いているのか、それとも動かずとも打開できる秘策があるのか。

 こればかりは彼にも分からなかった。彼の将としての経験上、動かざるをえない状況に敵を追い込んでしまえば、敵は動く。だが膠着は10日間にもわたって続き、疑惑に悩むうち、事態は思わぬかたちで急展開を迎えた。

 3月17日、二種類の急報が相次いで第二軍集団司令部にもたらされた。

 ひとつはメッサーシュミット将軍の第二軍集団司令官の解任通知、そしていまひとつは、帝都ヴェルダンディの西方90km地点にあたるブリュール県に突如として教国軍が上陸し、帝都へ向かっているというしらせである。

 メッサーシュミットともあろう者でさえ途方に暮れたことは、言うまでもない。

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