第8章-⑥ 光をまといて虎口を脱す

 エミリアの意識には、たとえ眠っているあいだでも、危険を察知する本能のようなものが常に働いているのかもしれない。18年間、クイーンの護衛を務めてきたゆえにつちかわれた、余人にない鋭敏な感覚なのであろう。

 小屋のなかは暗い。外からも光は漏れてこないため、まだ未明なのかもしれない。だが小鳥のさえずりの聞こえてくることからすると、朝は近そうだ。

 エミリアは音を立てぬよう慎重に剣を抜いた。落ち葉を踏む音がする。それは少しずつ近づいて、この小屋へと真っ直ぐに向かっているらしい。

 エミリアは隙間から、暗闇の向こうを見据えた。闇、また闇。だが目を皿のようにして音源を探り続けると、ぼんやりその姿が見えてくる。

 (あれは……)

 思わず声を上げそうになり、慌てて自制した。クイーンを起こさぬよう静かに小屋を出て、呼びかける。

「サミュエル、サミュエル……!」

 先刻来の音が止まり、下馬して近づいてきたのは、なんと盲人のサミュエルであった。帝国軍の朝駆けで近衛兵団陣内が混乱して以来、この盲人とも離れていたが、奇跡的に無事でいた。それどころか、クイーンとエミリアを追って、この林までたどり着いたのだ。術者の力をもってすれば、気配を探るだけで、遠く離れた人の居場所をも求められるのであろうか。人智を超えている。

「エミリアさん、女王様はご無事ですか」

「軽傷を負われたが、ご無事でいる。貴公もよく無事だった」

「僕の馬は痩せて力もなく、追いつくのに一日かかりました」

 いま少し再会を喜びたいところではあるが、サミュエルはふと立ち止まり、顔を横に向けた。こんもりと土が盛られている、そのあたりに、何やら異様な気配がしたのであろうか。たがサミュエルは、その土の下に何があるのかを尋ねようとはしなかったし、そのような事態を招来せしめた経緯も聞かなかった。ただ、黙して察し、飲み込んだだけであった。

 エミリアも、ただこの場は沈黙のみを、サミュエルに求めた。

 そして彼は、別のことを言った。

あらかじめ全軍で示し合わせたデュッセルドルフ近くの丘に、味方が集結しているようです。急いで向かわれるといいでしょう」

「しかし、ここを出て向かえば、帝国軍の哨戒部隊に見つかるのではないか」

「ご安心ください。僕が術をかけて、お二人の姿を隠します」

「術を……?」

 エミリアは少々、気後れした。

 というのも、クイーンとサミュエルとは、決して術を使わないという確約を交わしている。今回の出征にサミュエルを同行させたのも、その誓約を改めて交わした上でのことであり、エミリアはいわばその証人である。

 それを破るのは、クイーンの御意に背くことになるまいか。

 サミュエルはエミリアのその迷いを明敏に感じ取り、選択の余地のない二者択一を突きつけた。

「僕が術を用いれば、お二人は必ずや無傷のまま、味方陣地まで到着できるでしょう。術を使いますか、それともあくまでも約束を墨守ぼくしゅなさいますか」

 エミリアにとっての軽重は無論、明らかである。

「選択の余地はなさそうだな」

「では、お二人の姿を、僕の術で隠します。人の目に見えるすべては、要は光の放射ですので、光を制御することで、姿を隠すことができます。数時間、効果を持続させ、味方陣地に着く頃には術が解けるよう調整します」

「サミュエル、二度ならず三度までもクイーンを守っていただけること、感謝にえない。貴公もともに来るのだろう?」

「いえ、僕の術でお守りしたことを女王様が知れば、ご不興を買うでしょう。先に逃げてください。僕は目が見えないから、馬を捨て、歩いて後を追います。その方が安全そうだ。帝国軍も、ただ変哲のない盲人が歩いているとしか見ず、まさか教国の人間であるという僕の正体に気付くことはないでしょう」

「承知した。感謝ついでにひとつ、頼みたい。クイーンは襲撃の際、負傷された。重傷ではないが、治療いただけないだろうか」

「もちろんです。今はお休みでいらっしゃいますね」

 サミュエルは小屋に入り、眠りを妨げぬよう静かにクイーンの手を握り、思念をわずかずつ送った。目に見る限り、ただ手に触れ、目を閉じて何やら念じているくらいにしか見えないこの動作で、病も傷も治ってしまうというのが、エミリアには神の奇跡にしか思えない。いや、というよりも今まさに目前で行われているこれこそが、神のわざ、すなわち天意なのだと断言してもよいのであろう。

 サミュエルが小屋を出てまもなく、クイーンは目を覚ました。

「……エミリア?」

「クイーン、お気づきですか」

「……ここは?」

「覚えておいでですか、我々は帝国軍の奇襲を受けたのです」

「確か、私は怪我をして」

「そうです。味方は混乱し、負傷されたクイーンをお守りするため、やむなく私は身を隠す場所を求めこちらへ」

「近衛はどうなったの?ほかの師団は無事?」

 心配のあまり、クイーンは血相を変えて上体を起こした。エミリアの予想した通りの反応ではあった。指揮すべき兵を捨て、自らは戦場から逃げ出したと知れば、クイーンは深い自責の念と忸怩じくじたる思いにそれこそ身を焼かれるほどに感じるであろう。

 エミリアは、率直に答えた。

「襲撃のため、近衛兵団はひどく混乱し、クイーンをお守りすることが困難に。そのため、私はクイーンのみをお連れし、逃げたのです。近衛兵団や味方の師団がどうなったのかは不明です。ただ、申し合わせのデュッセルドルフ近くの丘に味方が集結しているはずですので、そちらに向かわれるべきかと」

「今は襲撃からどれくらいの時間が?私はどれくらい眠っていたの?」

「襲撃があったのは1月3日の早朝。今は1月4日の払暁ふつぎょうです」

「ここは誰の家?」

「逃げ込んだ林のなかで見つけました。老婦人が、世を捨て隠れ住んでいるようです」

「戻る前に、一言お礼を」

「それは」

 本意ではなかったが、彼女は嘘を話すほかなかった。真実は、ときに人の心を刺す。自らの安全を買うため、エミリアが武器を持たぬ民間人を刺し殺して埋めたなどと知れば、クイーンは深い悲しみと衝撃にうちのめされるであろう。そうさせぬためには、クイーンをできるだけ真実から遠ざけておく必要がある。それも、臣下たる彼女の務めである。

 そう自分に言い聞かせたが、一面、彼女は怖かったのかもしれない。真実を知ったクイーンは、彼女を許さないかもしれない。それは、例えば職を解かれるとか、刑罰を受けるといった、直接的な懲罰に対する恐怖ではない。クイーンからの信頼と信愛を失うことへの恐れである。その絶望に比べれば、彼女は死さえも恐れるものではない。

「老婦人は、食料の調達に出かけました。待っている余裕はないでしょう。今すぐご出立を。私が護衛して、必ず味方との合流を果たします」

 クイーンは無言で頷き、ただ腰の金貨袋から、白金貨はっきんかを3枚出し、貧寒そのものといった机の上に置いた。クイーンには、特に偵察で功のあった者にはその場で金貨を与える習慣がある。白金貨は教国で流通している通貨のなかでは最も価値が高く、白金貨3枚で邸宅が立つと言われていた。

「さぁ、参りましょう」

 エミリアはクイーンとともに、アミスタの背にまたがった。アミスタは、この日はエミリアの騎乗に抵抗しなかった。彼女に殴られ、従わされたという記憶があるのかもしれない。

 アミスタは水辺につながれ、近くに生えた草を食したのか、前日にあれだけ走った疲れもなく、気力も体力も充溢じゅういつしている。

 その駆け去る姿を、後ろから見る者がある。いや、見るという表現はふさわしくないかもしれない。目の見えない者が、何かを見るということはできないであろう。だが、確かに彼は、彼女ら主従の姿を、その気配を追っていた。

 そして、彼は杖を一振りした。天の意志は、彼の思念に力を与え、術の対象となる者の放つ光を奪った。目の見える者が見ようとしても、彼女らの姿を見ることはできない。光を制御することで、一種の透明化が可能なのである。人の目が光を情報として処理している以上、光を支配する者にとってはこの程度の目くらましは造作もない。

 エミリアとクイーンは、サミュエルのひそかな助力によって虎口を脱出し、味方の軍が集結するデュッセルドルフの丘までたどり着くことに成功した。

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