第8章-⑤ 悪魔の手

 クイーンが遠征に伴った近衛兵団は、その全戦力の半数強である2,000名ほどである。数は少ないが、近衛兵団の兵団長、副兵団長、千人長の全員が参加し、主力の精鋭部隊と言ってもよい。

 しかし、それらはデュッセルドルフ近郊の原野にて壊滅的な損害を受けて四散した。多くは戦死、あるいは捕虜となり、残った者も多くは負傷するなどして、辛くもデュッセルドルフの丘へたどり着き味方師団と合流できた者は負傷者含めわずか200名を数えるほどしかない。当初の10分の1の規模にまで撃ち減らされたということになる。数的劣勢と奇襲による不利があるとしても、これは目を覆うばかりの惨敗と言うほかない。

 クイーンとエミリア、近衛兵団長のヴァネッサは、この日、デュッセルドルフの丘へと姿を見せることはなかった。

 第二師団、第三師団、遊撃旅団はいずれも相次いでこの丘に到着して、味方を収容しつつクイーンの来着を待ったが、待てど暮らせどその姿は現れることがない。

 悲観的な状況に直面して、第二師団長カッサーノ将軍と遊撃旅団長ドン・ジョヴァンニ将軍のあいだで、方針について対立が起こった。

 この丘に堅固な防御陣を築き、クイーンの到着を待つか。

 大規模な捜索隊を組織し、クイーンの救出を目指すべきか。

 カッサーノ師団長は前者を主張した。当然と言っていい方策ではある。夕刻まで待って、クイーンはなお到着しない。それどころか生死も不明で、彼ら将軍たちもその指揮する兵らと同様、頼るべき最高指揮官を欠いて不安であり、心細い思いでいる。一方で敵に付け入る隙を与えぬためには、突貫ではあってもまずはこの丘を防塞化して守りを固め、クイーンの無事とその来着に望みを託すほかない。いたずらに動けば兵力分散の危険に陥り、敵地で孤軍となっていずれ殲滅せんめつされるであろう。

 無論、ドン・ジョヴァンニも歴戦の将であるから、その程度の講釈は聞くまでもない。だが彼も一時の感情で判断を誤ることがあるのか、このようなことまで口にした。

「俺が率いる遊撃旅団だけでも、救援に赴く。近衛兵団が襲撃された戦場まで取って返し、敵を蹴散らして、あのお美しい女王様を救ってやる。俺は女王様が個人的に好きだから手を貸している。もしあの方が亡くなれば、俺にはなんの義理も残らない。こんなやくたいもない戦争ごっこからは抜けて、勝手気ままにするからな」

 カッサーノ将軍も多くの部下を失い、帝国軍の背信行為に腹を立ててもいたから、ひどく気が立っている。

「貴公、勘違いをするな。遊撃旅団は貴公の私兵ではなく、この戦いも貴公の私戦ではない。クイーンから与えられた兵であり、もはや国と国との戦いだ。個人的な感情で自儘じままに動かしてよいわけがない」

 論戦は続き、ついに感情が激して互いにつかみかかろうとしたために、それまで黙して見守っていたレイナート将軍がようやく口を開いた。

「ご両人、今は仲間内で争っている場合ではない。気を静められよ」

 レイナートは決して威圧的な態度ではないが、その言葉には常に不思議な説得力と威厳とが備わっている。二人は少々ばつが悪そうに手を離した。

 レイナートが続けた。

「改めて、私の考えも述べておきたい。本日と明日の両日は、クイーンの到着を待つべきだ。もしクイーンがご存命ならば、恐らくそばにマルティーニ宮廷顧問官がついて、難を避けられておいでだろう。彼女の才覚ならば、必ずや方法を見つけて、この丘までクイーンをお連れするに違いない。今は軽挙妄動することなく、防備を徹底して、敵に弱みを見せないことが肝要と思われる。我らが分裂すれば、結局は仲良く自滅の道を歩むことになる。それは誰にとっても本意ではないだろう」

「なるほど、その通りだ。俺が間違っていた。仕切り直しということで、ひとつ提案がある。この丘は孤山で、山脈にも川にも接していない。帝国軍が数の優位を活かして長期攻囲すれば打開は難しい。途中、丘下に雑木林があったから、少数の兵を潜ませ伏兵として活用すれば、時間稼ぎにはなるだろう」

「良策と思われる」

「私も同意する。ゲリラ戦を得意とするドン・ジョヴァンニ将軍こそ適任だろう」

 三者はかろうじて内部対立による空中分解を回避し、団結してクイーンの到着を待つこととした。

 さて、そのクイーンである。

 レイナートの読み通り、そのそばにはエミリアが護衛について、ひたすらに南へ南へと遁走とんそうしていた。教国軍は東から西にかけて遊撃旅団、第二師団、近衛兵団、第三師団の順で連なり、それらを南の海岸線へ押し込もうとする格好で帝国軍が北から来襲した。エミリアは襲撃の早い段階でクイーンが負傷し、また敵の数が近衛兵団よりはるかに多いこと、味方が混乱した状態で負傷したクイーンを護衛しつつ戦うのは不可能と判断し、即座に主君を連れ戦場を南へと離脱した。数騎が従ったが、右往左往する近衛兵に阻まれて散り散りとなり、エミリアはついに単独で、クイーンを伴うこととなった。

 (あのときと同じだ)

 そう感じる余裕は、エミリアにはなかった。クイーンがまだプリンセスと呼ばれていた頃、このように奇襲から逃れ、たった一人で主を連れ出し守ろうとしたことがあった。2年半ほど前の、内戦の発端となった暗殺未遂事件の折である。確かに状況としては、よく似ている。

 クイーンの愛馬アミスタは、オユトルゴイ産の汗血馬で、教国では高名な駿馬である。汗血馬は、血のような汗を流すことからついた種名で、この品種は軍馬として最高の性能を誇るとされた。例えば王国のチャン・レアン将軍の愛馬である絶影も、汗血馬である。

 エミリアはアミスタのその快速を頼りに南へ走りに走り、数時間走り続け、さらに太陽が西に傾くまで走り、ようやくこの精悍な馬にも疲労が濃くなったところで、視線の先に夕日に照らされた小川と針葉樹の林を擁する小高い丘を見出した。

 飛び込むようにしてその林へと入り、川の流れを求め馬足をゆるめ歩くと、一軒の小屋がある。

 背後の気配を察すると、エミリアの腰を抱くクイーンの手には力があるが、それ以外は苦痛と疲労と緊張のためか、ぐったりとしているのが分かる。

 少し迷ってから、彼女は下馬し、小屋の戸を叩いた。

 中から、老婆が顔を出した。古木のような皺だらけの肌に鷲のような高い鼻、白く長い髪に貧しい身なりをした痩せた老婆は、常に伏し目がちで、人という生き物を拒もうとしているかのように表情がないが、怪我人を介抱するための寝台を借りたい、との不躾ぶしつけな訪問者の願いを嫌がりもせず、二つ返事で彼女らを迎えた。

 身分は、外国からの使節で、道中、落馬し怪我をして、道に迷ったということにした。老婆はもはや世の動きとどういう関わりもないのか、詮索することもなく、無言かつ無表情で、彼女らの休息を許した。

 エミリアは、恐ろしく粗末で木の腐りかけた寝台に、クイーンを支えつつ横たわらせた。背中の打撲傷は幸いにもそこまで重くないようだが、安静が必要ではあろう。実際、クイーンは横になった瞬間、水も飲まず、ほとんど意識を失うようにして寝入ってしまった。

 しばらくその横顔を見守ったあとで、エミリアは老婆と話をした。

 この小屋の位置と、デュッセルドルフの丘までの距離並びに経路。

 最寄りの町とその位置。

 帝国軍が、この小屋の存在を知っているのか。

 そして、老婆に家族や同居人はいるのかなど。

 老婆は実に無愛想ながらも、質問にはぽつぽつと正面から答えた。エミリアやその連れ人に対し、疑いも恐れも抱いてはいない様子だった。帝国は民衆に対して強力な締めつけを行う全体主義国家だが、このように現世から隔絶されたような暮らしを送る老人には、そうした世界の移り変わりもはるか彼方にたなびく雲が形を変えたくらいにしか関わりがないのかもしれない。

 しかし、この状況では万が一の油断もできない。

 日がとっぷりと暮れてから、エミリアは我ら主従のため、彼女が幼少の頃から身につけている銀のチョーカーと引き換えに、食事を馳走してもらえぬかと頼んだ。

 高価な品だが、老婆は執着する色もなく見返りを拒否して、相変わらずにべもない表情でおもむろに立ち上がり、

「山菜を摘む」

 と言い、松明と鎌を手に外へ出た。背が、枝を折ったように曲がっている。

 エミリアも、小屋を出た。

 松明一本を設置して照らされた小屋まわりに、ふたつの人影がある。ひとつの影が、緩慢な動きで地を這うように進んでいる。いまひとつの影はじっとそれを眺めていたが、やがて腰から音も立てずに剣を抜き、目の前の影をまるで永久凍土のごとき冷徹さでもってゆっくりと刺し貫いた。

 心臓を正確に貫き、絶命した遺体をそのままうつ伏せに転ばして、返り血を浴びぬようブーツの底で傷口をおさえながら、そろそろと剣を引き抜く。

 背の高い、密生した針葉樹林のなかは、漆黒の闇である。松明の明かりだけが、頼りないながらも、彼女の周囲を縁取るように染め上げている。その影は、彼女の心中を表すように、不規則に、不安定に揺れていた。

 (殺さなければならない)

 エミリアは、老婆を殺した。それは誰の命令でもなく、強要でもなく、彼女の自発的意志としての殺害であった。彼女らに対してどのような敵意も害意もない、それどころか親切にしてくれた老人を、彼女は殺した。敵国の人間とはいえ、武器も持たぬ民衆を、彼女は抵抗や命乞いの機会さえ与えずに殺した。それは戦いではない、惨殺であり、虐殺と言ってよかった。

 我が掌を見た。悪魔の手であった。無抵抗の人間を背中から貫く、おぞましい感覚が焼き付くように残っている。

 しかし彼女は、心中でこう強く叫んでいる。まるで、それ以外の雑念のすべてを振り払うかのように。

 (殺さなければならない、殺さなければならないッ!)

 もし生かしておけば、歩みの遅い老婆の足といえど、近隣の官憲に通報して、彼女らはついに窮地に立たされるかもしれない。

 エミリア一人だけならば、まだよい。これが彼女だけの身柄に関することであれば、その良心に従って、唯々諾々いいだくだくとして天命を受け入れたであろう。だが、クイーンの生命と安全に引き換えうるものはない。たとえ無辜むこの民の命を奪ってでも、万に一つの危険を回避すべきだと考えたのだった。

 忠義心とは、ときにその持ち主を悪鬼に変え、終わりのない苦しみをくびきとして与えるものなのかもしれない。

 エミリアは自らの行いが、正しいとは思わなかった。間違っているのかもしれない。ただ、そうするしかなかったのだと思っていた。というよりは、思いたかった。選択肢はなかったのだと。

 自分自身に一種の暗示をかけながら、彼女は右手と両足を使って、湿気を含んだやわらかい土を掘り起こし、そこに哀れな死者を葬った。死者の手元には、エミリアの持つ唯一のアクセサリーであるチョーカーを持たせた。このチョーカーは、彼女がクイーンの護衛に任命され正式に近衛兵となった際に、亡き先代女王からたまわったものである。それを、名もなき死者に持たせ、ともに土の下に埋めた。

 何故そのようにしたのか、エミリア自身にも分からない。

 剣の血をぬぐい小屋に戻ると、彼女の主君はやや重く速い寝息で眠り入っている。味方とはぐれてでもクイーンを守り逃げ伸びてきて、自分の行動は間違っていたのではないか、引き返して味方と合流すべきではないかと幾度も思ったが、ともかくもこうして無事でいるクイーンの姿を見る限り、これもひとつの選択であり結果ではあったのだろうと思える。

 (ただ、この人に、この夜の出来事を知らせてはならない)

 それだけは、固い信念とともに決心した。自分を守るために、無関係の民が殺された、エミリアが手を汚したと知れば、この高潔なる主君に、計り知れぬ衝撃を与えるに違いない。

 十字架を背負うのは、自分だけでいい。この方の精神は死者の桎梏しっこくに縛られることなく、天衣無縫に、自由闊達に、天空を飛翔すべきなのだ。

 そして、今夜は眠らず警護につこうかと剣と膝を抱き、腰を下ろした瞬間、エミリアも主君同様、気を失うようにして夢さえも見られぬ眠りの底へと落ちていった。

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