第8章-④ デュッセルドルフの丘へ

 近衛兵団に接する第二師団においても、帝国軍奇襲部隊の蹂躙じゅうりんするに任せ、惨憺たる戦況にあった。

 カッサーノ師団長は事態を知るや、副師団長のティム・バクスター将軍に一軍を与え逆突出させ、大いに気勢を上げて時間を稼ぎ、その間に近衛兵団に救援を差し向けたが、既に近衛兵団は四散していて、クイーンの姿もつかめなかった。

 カッサーノ将軍は攻めには強いが守りは凡庸、というのは彼の元の上官であるラマルク将軍の評であって、実際この時も、その戦闘指揮は彼本来の積極果敢な性格を活かせず、あちこちで防御を噛み破られ、傷口を広げられつつある。

「クイーンの消息がつかめないでは、一貫した指揮系統のもとで戦うことはできない。我が師団は前夜のご指示通り、これより東南に位置するあの丘に向かって後退する。最後尾はティムに任せる」

 乱軍のなかで彼が示した方針である。

 前夜ご指示のあの丘、とは、レガリア帝国に入ってから毎夜、不意の襲撃を受けた際の集結地点につき、クイーンからあらかじめ指定がある。各軍が踏みとどまって攻勢を弾き返せるならばよいが、戦況不利な場合、あるいは味方師団が敗退して孤立しそうな場合は、指定の集結地点までしりぞいて態勢を整える、という算段である。

 第二師団は騎兵の突破と歩兵の浸透を阻み、多大な犠牲を払いつつかろうじて全面崩壊は防ぎ、徐々にその丘に向けて移動を始めた。

 この丘自体に名称はないが、便宜上、近隣の町の名を借りてデュッセルドルフの丘としておく。

 デュッセルドルフの丘を目指したのは第二師団だけではない。近衛兵団の残兵も、遊撃旅団もである。

 遊撃旅団は同盟領に向かう隊列の先鋒、全軍の最も東に位置していることから、この朝も他部隊に比べ最も動き出しが早く、そのためにある程度は準備が整った状態で帝国軍の急襲を迎えることとなった。

 また遊撃旅団はその数およそ7,000といったところで、第二師団よりは小回りが利き指揮官の命令も行き届きやすかった。

 旅団長のドン・ジョヴァンニはさすがに千軍万馬の古豪であったと言えよう。

 彼の部隊は近衛兵団と同様、カタパルトによる投石と弓兵による一斉射撃を受けたが、この一連の遠隔攻撃を盾でひたすら耐え忍び、そこから騎兵の白兵突撃へと移行するほんのわずかなタイミングで陣形を素早く組み替え、迎撃の態勢を築いた。

 帝国軍の騎兵部隊は猛然と突進を仕掛けるも、統制のとれた堅固な防御陣に行く手を遮られ、その足を止めた。そこへ遊撃旅団の騎兵部隊が逆走して側面攻撃を開始したため混乱し、巧妙な包囲戦術のなかでほとんど殲滅せんめつの憂き目にった。

 ただ、ドン・ジョヴァンニは帝国軍奇襲部隊に一定の出血を強い、その積極性を封じ込めたところで満足し、デュッセルドルフの丘へと慎重に後退を始めた。奇襲部隊とはいってもその規模は遊撃旅団の優に倍はあり、ここで無理に戦っても、消耗戦に陥るだけである。むしろ戦力を温存し、予定された集結地点で全軍の統率を回復させることが先決であろう。

 ドン・ジョヴァンニは目の前の戦果にはこだわらない。手痛い反撃を食らわせたところで、さっさと兵をまとめ、引き上げてしまう。この水際立った進退の見事さには、対する帝国軍の将帥さえも一様に感嘆を禁じえなかった。

 さて、遠征軍の最後尾に位置する第三師団の戦況である。

 帝国軍の襲撃は教国遠征軍の全部隊に対してほぽ同時に行われたもので、レイナート将軍の第三師団も例外ではない。

 この将軍は、生粋のロンバルディア教国人ではない。生まれはレガリア帝国の首都ヴェルダンディで、青年期までをそこで過ごした。「協調性に難あり」とされつつも、任務に対する忠誠心、逆境に臆せぬ不屈の精神力、そして的確な判断力と指揮能力とを買われ、帝国軍の若き俊秀として名をせた。

 だが一時期、彼は帝国国防軍から憲兵隊へと出向することとなり、帝国の苛烈な支配体制に疑問を覚えるようになる。疑問の種はやがて猜疑さいぎへと芽吹き、そして反感へと成長を遂げる。憲兵隊は本来、軍内部の警察とでも言うべき組織であって、軍人の横領や略奪等の犯罪及び不正を摘発するのが任務だが、次第に発言力を増し、治安維持活動にも積極的に関わっている。帝国では民衆の自由は徹底的に制限され、国家社会主義の名のもと、徴兵も物資徴発もすべては政府の意のままである。憲兵隊はいわばその走狗そうくであって、規律から逸脱した者を拘禁し、裁判なしで自由や財産を奪ったり、非合法な拷問にかけたりなどの暴虐を平然と行った。

 彼は故郷の同胞がかくも悪辣な圧政にしいたげられ、人間としての最低限の自由と平等と幸福とを失っているのを直視して、ロンバルディア教国へ亡命することを決意したのであった。挙国一致体制を敷く帝国を内から変えるのは難しい。ほとんど不可能であろう。自らが外に出て、外圧によって国を変えようとした。それは彼自身にとって、同胞を裏切る行為ではない。むしろ国を愛するからこそ、帝国という国家の外郭を破壊し、内部で犠牲になっている者たちを守ることに己の使命を見出したと言ってよい。

 だからこそ、彼は今や教国の将軍として、教国兵を率い、帝国の兵と戦っている。

 第三師団の戦線は、帝国軍に対して優勢にあった。彼は帝国の最高権力者であるベルンハルト・ヘルムス総統という男を邪悪な奸賊とみなしており、十中八九は遠征中の教国軍を奇襲するであろうと考えていた。そのため、兵に極度の緊張と疲労を強いると知りつつ、夜間も師団の三分の一は常に灯火を燃やして厳戒態勢を敷かせ、不意の襲撃にも即座に反撃できるよう準備した。

 結果的に、彼の判断は正しかったことになる。

 この方面を率いていたのは、帝国軍第八軍司令官のベルガー中将である。彼はほんの一時期ではあるが、レイナートの上官だった男である。若いレイナートとは格が違うが、かつて互いの才幹と高潔さとを認め合い、親交を結んでいたことがある。彼は事前の偵察でレイナートが敵軍の後衛集団を率いていることを知り、これと戦えることをひそかに喜んだ。最終的にたもとを分かつことになったとはいえ、レイナートほどの実力を持つ敵将と、奇襲戦という優位性はあるにせよ渡り合えることは、彼のような生粋の軍人にとって名誉であり、誇りであり、何より楽しむべき機会と考えたからである。

 だが、状況は彼の甘い考えに反し、奇襲する側の帝国軍にとって不利に推移した。

 レイナートは戦闘の口火を切る帝国軍のカタパルトが姿を見せて早々、この動きを偵知し、即刻、部隊の全員を叩き起こして戦闘準備に入らせた。その動きは実に素早く、ベルガー率いる第八軍のカタパルト部隊が展開を終える頃には、彼は既に軽歩の弓兵部隊を風上へと回し、火矢をもって先制攻撃を開始していた。

 古来より、奇襲しようとする側は優勢な状況から先制できるものと思い込んでいるから、奇襲を逆手に取られた場合にはもろい。このときの第八軍もまったく見苦しいほどの有り様で、火矢でカタパルトを燃やされ、動揺したところにさらに長槍兵の集団突撃を受けて大いに混乱した。

 ベルガーは思わぬ苦境に、焦慮を隠せず叫んだ。

「一体どうなっている、奇襲する側の我が部隊が、何故こうも苦戦する!」

 それはレイナート将軍による緻密な反撃のシミュレーションと、それを可能にした地形の把握による成果だった。彼は元帝国軍人として、帝国内の山野や帝国軍の戦術を知り尽くしており、奇襲を受けた場合の敵の出現ポイント、攻勢の手順やその弱点を完璧に読み切って、反撃策を用意しておいたのだった。

 ベルガーは奇襲に失敗し、攻撃側の強みさえも活かすことができずに、戦線の各所で押され始めた。帝国の第八軍と教国の第三師団は数の上ではほぼ互角であったが、戦況としては明らかに後者が優位を保っている。

 レイナートは、機を見て手元に残しておいた予備兵力の軽騎兵部隊とともに第八軍の本営を目指して突撃を試みた。彼は必ずしも陣頭の猛将ではなく、どちらかといえば中軍にあって陣を動かす知将であったが、好機をつかむためには自ら最前線の渦中へ踏み込むこともいとわない。

 彼の率いる500騎の精鋭は、動揺する帝国軍本陣の位置を正確に看破して、脇目も振らず飛び込んだ。そしてその過ぎ去ったあとに、ベルガー中将の死体が残された。

 彼はその死の直前、部隊を自身の完全な統制下に置くべく声を張り上げていたが、それが逆に司令官の所在を声高に敵に伝える結果となった。レイナートは騎走しつつ、配下ともども手にした槍を一斉にベルガーに向けて投射すると、この勇敢な敵将にハリネズミのように刺さって、人形のような他愛なさでどさりと倒れた。

 かつての親交のあった僚友に対し、レイナートは槍先をもって土産とし、報いたのであった。

 帝国第八軍は、指揮官の戦死という事態に直面して、千々ちぢに乱れた。副司令官のシュルツ少将は健在だったが、戦死したベルガーの位置とはやや離れており、司令官戦死の報を受け取ったときには恐慌が部隊全体にまで波及して手遅れであった。

 シュルツ少将は退却を命じた。一方、レイナートも潰走する敵を深追いはせず、ほかの味方師団と同様、デュッセルドルフの丘へと向かった。その指揮する軍団には一分いちぶの隙もなく、この「デュッセルドルフの奇襲戦」における最も見事な戦いぶりであったと言えよう。

 教国軍各部隊は、被害や混乱の程度に差はあれ、いずれも同日中にデュッセルドルフの丘へと上がり、集結して防御隊形を整えた。このうち、ドン・ジョヴァンニは遊撃旅団の最精鋭800人ほどを率いて、丘下の林に潜んだ。

 偵察により、帝国軍も一旦軍をまとめて、短兵急に攻めてはこないという情報が得られた。まずまず、教国軍はこの段階における敵中での全滅を免れたことになる。

 その点で、彼らには希望があった。

 だが絶望もある。

 クイーンの消息が、分からない。

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