第8章-③ 虜囚となる
それはまさに、巡り合わせと言うべきであったかもしれない。
襲撃の折、ヴァネッサは数名の近衛兵とともに陣内の巡察に出ていて、クイーンのそばを離れていた。
決して油断したわけではない。だが無情にも、襲撃は絶好のタイミングに、完璧な手際で開始されたのであった。カタパルトによる投石、弩弓兵による一斉射撃、次は騎兵による突撃、そして歩兵による包囲攻撃の順で迫ってくるであろう。
ヴァネッサは、イヴァンカ百人長の敵襲を報じる声を聞き洩らさず、直ちにクイーンのもとへ向かおうとした。しかし近衛兵団は朝方の奇襲にすっかり浮足立っており、右往左往する兵が彼女の行く手を阻む上に指令もなかなか行き届かない。
一瞬、ヴァネッサは迷った。
(クイーンを守りに
迷った末、彼女はエミリアの姿を脳裏に描いた。クイーンの傍らには、エミリアがいる。エミリアが必ずや、クイーンを守ってくれるに違いない。今は近衛兵団長として、部隊を再び自らの完全な統率下に取り戻すことだ。
「ダフネ、クレア、サミア」
「はい、団長!」
「私は反撃の指揮に専念する。貴公らはクイーンを守護せよ。たとえ味方が散り散りになり、我らが残らず死に絶えようと、決してクイーンのそばを離れるな。自らの命を盾にしてもお守りしろ。行けッ!」
「はッ!」
素早く護衛の指図をして、彼女は直ちに馬上から叫んだ。
「全員、武器と盾を取れ!敵は北から来る!太陽を右にして、盾で矢を防げ!」
叫びながら、彼女は背負った大弓を外し、
ヴァネッサは、弓の扱いに関しては近衛兵団どころか、教国一とも称されている。小柄な彼女自身の身長を超えるほどの長さの大弓を引き、大股で500歩の先にある的にさえ射当てると言われていた。
嘘ではない。
事実、同時に2本の矢を放って、遠い丘の上の敵兵の急所を貫いてみせたのである。
しかし、戦況は既に射撃戦から騎兵の集団突撃に移行している。今回の遠征でクイーンに随伴している近衛兵団は、2,000名である。現れた敵の数は不明だが、用意されたカタパルトの数や雨のように降り注ぐ矢、大地が
到底、抗しようがない。
それでもヴァネッサは懸命に味方の指揮統一を回復しようと声を上げ続け、その合間に自慢の弓矢で敵を葬っていった。彼女の弓は神業と言ってよいほどの冴えを誇り、外すことは一度としてなかった。
それは一人の勇者としての働きとしては見事と言うほかなかったが、全体の戦況という点では焼け石に水でしかない。
100騎あまりの敵が、即席で構築した
(帝国軍、卑怯な真似をッ……!)
ヴァネッサは先頭で突っ込んでくる旗持ちに狙いを定め、きりきりと弓を絞り放った。矢は吸い込まれるようにして旗持ちの顎を砕き、喉を貫通して旗も地に倒れたが、敵軍の勢いは少しも衰えない。ヴァネッサは本陣にこうもやすやすと騎馬隊の突入を許したことにやや呆然としつつも、
「後退しろッ!後退して戦線を立て直す。南に向かえッ!」
近衛兵団はもはや、総崩れである。だが逃げるといってもここは敵地である。安全な場所などない。結局、敵の猛攻を北から受けるに従い、南へと雪崩のように崩れるしかなかった。当然、その過程で近衛兵の多くが殺されたり、傷を負ったり、あるいは捕虜となった。
千人長のカミラは、緒戦の一斉射撃を受けた際に矢傷を右大腿部に受け、歩行も騎乗も不能になった。彼女は決死の思いで立ち上がり、配下の兵をまとめて防戦しようとしたが、騎兵の突撃を受けた際、槍を胸に受け、あとは殺到する
同じく千人長のクロエは、味方の退避の時間を稼ぐため、馬上、長剣を操って、存分に戦ったが、槍で馬の脚を払われ、落馬したところを捕虜とされた。
近衛兵団副団長の職にあるジュリエットは、千人長のクロエに退避を勧められ、南へ落ち延びたであろうクイーンを追ったが、逃走中に矢を右腕に受けた。毒が塗られているわけではなく、骨にも傷はなく、落馬も免れたが、利き腕が使えないために戦いようもなく、ひたすら追っ手をかわして逃げるほかなかった。
そうしたなか、ヴァネッサも逃亡する味方に混じり南へ走った。もはやそこは戦場ではなく、狩場である。敵が、味方を狩っている。鉄十字の軍旗を掲げた歩兵や騎兵の一団が、
馬を持たない近衛兵は、逃げることもできず、みな負傷するか、殺された。騎乗兵も、助かった者は少ない。千人長以上で、無傷で逃げられたのはニーナ千人長だけである。彼女は近衛兵団の東方に位置する第二師団に救援を求めようとして、振り返ると近衛兵団は雲散霧消していた。その第二師団も、ほぼ同時に帝国軍の奇襲攻撃を受けていて、混乱の極みにあった。
それほどに多くの部下を失いながらも、おめおめと退散せざるをえないヴァネッサだった。彼女は矢籠を複数持ち、常時60本の矢を携行していた。逃走中も、振り向いては矢を放ち、振り向いては矢を放ちして、その都度、敵兵を葬ったのだが、一向に追っ手の数が減らない。
(クイーンは、無事に逃げ落ちることができたのだろうか。兵は、どれだけ生き残れるだろう。ほかの師団は健在なのか)
みじめな敗走のなかで、その思いが脳裏をかすめた。だがかすめてすぐ、彼女はいかにも精鋭揃いといった騎兵の一団に後方を半包囲されるようにして追撃を受けた。彼らの馬は優秀な
(これまでか)
むざむざ捕虜になるくらいなら、せめて一人でも二人でも死出の道連れとし、最後は
弓を捨て、腰の剣を抜いた。
だが敵は、はじめから彼女と組み合って時間を無駄にする気はなかったらしい。右に回った敵の一人が、並走しつつ、腰の鎖分銅を手元から跳躍させた。鎖は
覚悟し、落馬の衝撃と痛みのなかで剣を自らの首に
苦しみのなかで急速に遠のく意識のなかで、彼女はクイーンの姿を思い、その無事を願うとともに、たとえ捕虜となっても敵を利するようなことは言うまい、と反骨の炎だけは最後まで燃やしつつ、その身を敵兵に預けることとなった。
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