第8章-② 奇襲

 ミネルヴァ暦1397年1月1日の朝を、教国遠征軍はレガリア帝国のシュタインフルト地方にて迎えていた。

 新年といっても、戦陣のことなので、祝いなどはない。これが自国あるいは同盟国の領内であればのんびりと祝賀の宴でも開けばよかろうが、彼らがいるのは半ば敵地も同然である。帝国には領土通行権を認めさせ、行軍の安全は少なくとも外交的約定の上では担保されているが、もとより帝国の約束に信頼を置けるとする者は遠征軍のうちに一人もいなかった。

 かくして、教国の遠征軍は帝国領内で厳戒態勢を敷きつつ進んだ。不意の襲撃を警戒しているのである。

 遠征軍総司令官の兵営はいたって粗末だ。通常、女王自らの征旅ともなれば、それなりの華美と威厳と格式でもって、毎晩、豪奢ごうしゃな寝所を築いてしかるべきだが、実際には帳幕を一枚張り巡らし、中はごく簡易的なベッドを組み立てただけで、とても女王の暮らしとは思えない。レユニオンパレスのいかにも宮廷といったきらびやかな環境とは、雲泥の差と言っていい。

 (兵や民と隔たりをもうけるのが嫌いな方なのだ)

 しかも、クイーン本人に嫌がる風がない。食事も一兵卒と同じものを口に入れている。

 それどころか、近衛兵が食事している場へと毎食ごと分け入っては、笑いさざめき合って 、あえて戦陣の苦労をともにしようとしているように、エミリアなどには見受けられる。

 新年の朝とて、特別なことはない。彼らがいるのは、領土通行権を約束したとはいえ仮想敵と言ってもよい相手の領内である。せいぜい、同僚同士で挨拶代わりに新年の賀を交わす程度でしかない。

 クイーンはこの朝、エミリアと近衛兵団の幹部だけを全員集めて、朝食をとった。

 ヴァネッサ近衛兵団長、ジュリエット近衛兵団副団長、クロエ千人長、ニーナ千人長、カミラ千人長である。

 クイーンはこの席で、エミリアを除く全員に、平素の謝意を述べ、その人柄や功績を称えて、今後の変わらぬ活躍を願った。感激屋のヴァネッサやカミラは、涙を流しながら、一層の忠誠と精勤を誓った。

 エミリアには、格別の言葉はなかった。彼女に対しては、新年だからとてわざわざ口にする必要もなかったのであろう。それ以上に、クイーンは常日頃から、エミリアに感謝を伝えていた。彼女らのあいだでは、君臣の別はあくまでも建前で、感覚的には親友や姉妹の方がはるかに近い。

 朝食のあとで、クイーンは近衛兵団の各陣屋を巡察し、それから東へ向け行軍を再開した。3週間以上の征旅を続けて、母国よりもずいぶん肌寒くなっている。季節も既に冬であるから、暖衣は周到に備えてあるとはいえ、温暖な教国の土地柄に慣れた多くの者にとって厳しい天候が続いていた。

 遠征軍は先鋒から遊撃旅団、第二師団、近衛兵団、第三師団の順に梯団となって進軍している。各軍はそれぞれわずかな間隔を空け、前後の味方と団子のように連なりながら移動している。

 ロンバルディア教国領からスンダルバンス同盟領までをほぼ最短で接続するこのヌーナ街道を、彼らは10日間にもわたって歩き続けていた。

 1月3日の朝頃には、規律の行き届いた遠征軍将兵にも疲れの色が濃く表れるようになっていた。警戒を解かず、常に襲撃に対する備えを厳しく講じたままの移動で、夜間も多くの見張りを立たせている。しかも行軍は迅速で、遅滞は許されない。

 誰でも不案内な異国の地に取り残されるのは避けたいから、必死に遅れまいと歩いた。

 だが、そうした無理な行軍は、将兵に疲労を蓄積させる。

 襲撃する側がこの時期を選んだのも、襲われる側の疲労を見越しての算段である。

 エミリアは起床を告げるため、やや重い体をクイーンの帳幕へ向けていた。数日、朝は霧が出ている。当初は将兵も大いに警戒したが、見慣れるとどうしても気が緩んだ。

 突如、鈍い激突音が連続し、幾種類かの悲鳴があちこちで上がった。寝ぼけまなこの兵らが周囲を見回すと、巨岩の下敷きになった僚友が血を流して横たわっている。

 事態を察知し、最初に警告を発したのは、百人長のイヴァンカであった。

「敵襲ッ!!」

 部隊は騒然となった。将兵は深い夢のなかから飛び上がるように現実世界へと戻ってきて、状況を把握しようと激しく首を振り、未だ朝の光に慣れぬ目をしばたたかせた。

 そうしている間にも、岩は次々と天から降ってくる。

 エミリアはすぐ近くで岩に頭を砕かれ即死した兵を見て即座に悟った。これほど巨大な岩が天空の高みから降ってくるなどという現象は、大火山の噴火や大規模な地滑りといった極めて特殊な理由でない限り、思い当たる節はひとつしかない。

 (カタパルトか……!)

 素早く視線を配り、霧の晴れ始めた北のゆるやかに盛り上がった稜線上に目を向けると、果たして、数十台のカタパルトが見事と呼べるほどの効率で稼働している。

「北方にカタパルト!散開して的を絞らせるな!クイーンをお守りしろッ!」

 号令しながらも、エミリアはたまらずクイーンの宿営する帳幕へと駆け込んだ。彼女の主君は既に起きていたのか、既に軍用のブーツを履いている。

「クイーン、敵襲です!」

 叫び、応答も待たず強引に主の手首をつかんで、外へ出た。

 そこはもはや血の流れる戦場であった。今や、飛来せるものは岩だけでなく、矢が雨のように降っている。見知った近衛兵が次々と矢を受けては倒れてゆく。近衛兵団長たるヴァネッサの姿を探し求めたが、ない。

「盾でクイーンをお守りしろッ!」

 すかさず数人の近衛兵が大盾を掲げ、クイーンの周囲に集まったが、そこへカタパルトから放物線を描いて投じられた岩が数発、着弾した。

 持ち主の兵ごと、盾が吹っ飛び、岩の破片がクイーンの背中へ激突した。

 あまりの衝撃に呼吸さえも苦しくなったのか、クイーンは無言であえぎ、そのまま地に転がった。

 抱きかかえて起こそうとするエミリアの全身に、地響きをたてて殺到する騎馬隊の殺気が感じられる。

 周囲はすっかり混乱し、指揮系統も大いに乱れて、クイーンに駆け寄って守ろうとする者、槍を取って迎撃に向かおうとする者、部下や上官の姿を探す者、未だ状況を理解できず周章狼狽する者らが入り乱れ、とても組織的な抗戦ができる状況ではない。ヴァネッサも、サミュエルも見当たらない。

 エミリアは直ちに逃走を決意した。痛みと苦しみに身動きもできぬクイーンを、その愛馬に乗せ、自らもその雄渾なる体躯たいくにひらりとひょうのような身軽さと勇ましさでまたがる。

 クイーンの愛馬は友情を意味するアミスタという名前を持ち、この馬はエミリアにも劣らぬ忠誠心を持っていて、クイーン以外の何者もその赤褐色の背に乗ることを許さぬというのは有名な話である。

 果然、激しく暴れ始めた。

「言うことを聞けッ!」

 エミリアは咄嗟とっさに、手綱たづなを思いきり引き寄せ、拳で頭を殴りつけた。エミリアの気迫に服したのか、あるいは衝撃に意識が飛びかけたのか、嘘のように足掻あがきが止まる。

「クイーン、絶対に私から離れないでください」

 返事はないが、しがみつく腕に力がこもった。

 と同時に、エミリアの合図とともに躊躇なくアミスタは前進気勢を示し、一気に加速して、狂奔したように南へと駆けた。

 カルディナーレ神殿参道での暗殺未遂事件、そして天然痘の罹患りかんに続き、再びクイーンに執拗な死神の手が伸びようとしていた。

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