第8章-① 命運を握る者
オクシアナ合衆国の大統領官邸オーバルオフィスでは、ロンバルディア教国へ密使として派遣した国務副長官マーク・ハリスが、首尾をブラッドリー大統領とトンプソン首席補佐官に報告していた。
彼は教国に駐在歴があり、かつ女王の個人的なファンでもあり、親教国派とでも言うべきほどの親しみを持っている。
「ロンバルディア教国女王は、我が陣営に立っての参戦に同意しました。レガリア帝国との領土通過交渉をまとめ次第、可及的速やかに軍を派遣するとのことです。予定されるその兵力は39,000、総指揮はエスメラルダ女王自身」
女王が自ら遠征軍の指揮をとるという思い切った決断には、さしものブラッドリー大統領も望外の念を持った。正直なところ、ロンバルディア教国としては今回の紛争は対岸の火事で、引き受けたとしても少数の兵力のみ供出するか、あるいは適当な理由をつけて出兵を遅延させ、お茶を濁すかもしれぬなどと
それが、女王自ら大部隊を率いて戦場に現れるという。しかもその兵力は、同盟領で目下、戦闘中の合衆国軍、王国軍、同盟軍のいずれに比しても規模でまさっている。
ブラッドリー大統領はその報告に、妙な競争心を刺激されたらしい。
「我々も同盟に対する介入の手を一層強める必要があるな。バブルイスク連邦国境のモントピーリアに駐留しているウェルズの軍を前線に投入しよう。連邦は国内が動揺して、収束に必死だ。警戒の軍を減らしても問題ないだろう」
「そうなれば、教国軍と合わせて、同盟領内の戦場においては狼と
首席補佐官のトンプソンがやや興奮気味に述べた。かのロンバルディア教国女王はやはり英雄なり、という思いが、彼の精神を昂揚させている。一度、顔を合わせただけであるが、女王は想像以上の大器と見える。
ランバレネ高原の会戦ののち、合衆国軍はラドワーン王の軍と一致協力し、前者はランバレネ高原に留まり、後者はその南約23kmほどに位置するドワングワ湖北岸のドワングワ街道に陣を敷き、
合衆国軍の司令官はグラント大将だが、彼は才気煥発というよりは調整型の軍人で、部下の能力を引き出すところに長所がある。そのためラドワーン王との方針検討や作戦準備、部隊への作戦指導といった任務は、副将のフェアファックス中将と、作戦参謀のフーヴァー中佐の主に担うところであった。
カイル・フェアファックス中将は年齢38歳で、この若さでこの階級に就くのは、合衆国軍では異例である。薄茶色の瞳と髪を持ち、子供のように大きな目と、えらの張った細い顎に特徴がある。中肉中背の体格は程よく引き締まり、表情には常にぴたりと容赦のない緊張感がみなぎって、その吐く言葉にはいささかの誇張も過誤もなく、戦術家として作戦の成功に異常な執念を持っている。
ランバレネ高原の会戦では、死傷率こそ引き分けに終わったが、大陸最強と
彼は上官のグラント大将から軍務の全権を
ラドワーン王とは、たまたま彼らが同い年であることもあってか、初対面から互いに好意と親しみを持ち、特にランバレネ高原の会戦後は、槍を並べてともに戦っただけに、戦友の絆で結ばれている。
彼らの敵である狼と禿鷹のように、野心と利害のみで結ばれた同盟関係よりも、彼らの場合はいくらか情緒的かつ知的な協力関係であった。
フェアファックス中将は、ロンバルディア教国の女王が大軍を引き連れて来援する、という報を大統領から受け取って、まずは彼の敬愛する友と喜びを共有しようと思った。
「我が友よ」
彼を砦の陣頭に出迎えたラドワーン王は、そう呼んだ。
ラドワーン王は、この若々しい戦友と同い年ながら、随分と老けて見える。赤茶色の肌に黒くまとわりつくような豊かな髪と髭、風の強い砂漠地帯の暮らしで深く刻まれた目元の皺が、そうした印象を強くしているのであろう。
だが戦陣の鎧を外し、シャルワニと呼ばれるロングコートをまとった長身の姿には、王たる威厳と気品が確かに漂っている。
二人はにこやかに握手を交わし、砦内の指揮所へと進んだ。
「今日は王に朗報を贈ろうと思い、馬を駆けさせた。ロンバルディア教国の女王が、兵39,000を率いてやってくる」
「朗報、と言うからには、敵ではなく味方として」
「無論」
「あぁ!」
ラドワーン王は感嘆の吐息を漏らした。
「女王の大義と高徳にはまさに仰望せざるはなし。ブラッドリー大統領は申すに及ばずだが、我が民の危難に心を痛めていただき、過酷な征旅を経てあえて火中の栗を拾おうとしてくださるは、我が感銘、我が感恩、これに過ぐるものはなし!」
「女王は名うての戦上手として知られる上に、安全な宮廷から兵と将軍のみを死地に立たせるに忍びなく、自ら陣頭に立つことを決めたという。女王は宮廷の
「まさに天の
「しかし友よ、気付いているか。喜ぶにはまだ早いということを」
瞳の奥に涙さえ浮かべて歓喜していたラドワーン王の表情が、戦友の言葉に一転、影に覆われ、顔の筋肉もしぼんで、
喜び、憂いたのちに、頭脳が忙しく回転を始める。
「
「その通り。帝国が、今回の紛争で中立の姿勢を保ち続ける以上は、我々の最終的な勝利は疑いないだろう。私も大統領に進言するが、ひとつ王からも、帝国に使者を送り、教国軍通行に対して利益供与を約束されてはどうか」
「それがよい。そうするのが、妥当であろうな。帝国との外交関係は以前から冷えきっていたし、彼らに借りをつくるのも本意ではないが、今は目前のバッタの群れを追い払わねば、次のバッタの大群を気にすることすらできなくなる」
敵をバッタに例えるところが、砂漠の多い同盟の人間らしく、フェアファックスにはおかしかった。なるほど、今まさにバッタの大群に農地を襲われているなら、その後からやってくる別の群れのことを心配しても無意味であろう。
教国軍来援の話は、これで落着した。
次に彼らは、
「
「軍糧については、万が一のことがあっても、我が国が保証する。決して潤沢というわけではないが、我が領内で戦ってくれる友軍の食料を供出するのは、当然のことでもある」
「ありがたい。それと北方の兵が、水が合わぬのか、風土病を患う者が増え始めている。こちらの方が深刻かもしれないな」
「同盟の地では、まず生水は飲んではならない。水はよく
「お願いする。もっとも風土病に悩まされているのは王国軍も同じらしい。王国軍の2割ほどは病に倒れ、将軍のファン・チ・フンも
「2割。それでは軍として身動きがとれまい」
その後も様々な討議を凝らしてから、フェアファックス中将は自陣へと引き上げていった。
彼は同盟領に派遣された合衆国軍の事実上の作戦責任者として活動している。その才幹はランバレネ高原の会戦でチャン・レアン直属の鉄騎兵をほぼ全滅させ、戦略的撤退に追い込んだことで充分に証明されたわけだが、戦線の維持のため、彼らの軍は引続き同盟領に留まり、彼自身の手腕も必要とされている。
基本方針としては持久に主眼を置き、滞陣を長期化させて敵の変化と味方の来援を待つ。前者は旧公国領の合衆国軍とウリヤンハタイの
長引けば長引くほど、彼らにとっては有利になる。じっと耐えること。それこそが、勝利に向けて不可欠の姿勢であった。
だがそれもこれも、レガリア帝国が中立を保ち、教国軍通過を攻撃どころか妨害もしない、という大前提が保たれていればこそである。いわば、合衆国の命運、王国の命運、同盟の命運、教国の命運これらはいずれも、レガリア帝国が握っていると言っても過言ではない。
今や、レガリア帝国が同盟領を主戦場として繰り広げられている紛争にどう関わりを持とうとするのか、全世界がその決断を
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