第7章-⑧ ヴィーヴァ!

 レガリア帝国へ送った使者が復命したのは、12月5日のことである。

「交渉は上首尾に終わった。帝国は今回の紛争には中立の立場を守るが、領内の通行は許可する。ただし条件として、ロンバルディア教国がU計画の準備資金として投資していた貸付金の利息請求権部分の放棄を求める」

 この要求に、教国の財務官僚は総じて頭を抱えた。

 U計画とは、レガリア帝国が一昨年11月より進めている海軍拡張計画のことである。レガリア帝国は陸軍国で、6年前に開始されたT計画で所有する陸軍を倍増させ、その軍備は飛躍的に強化された。だがこの国は海軍が弱く、良港が領内に存在しないこともあって、海軍規模ではオクシアナ合衆国にもロンバルディア教国にも遠く及ばない。

 そこで五ヵ年計画であるT計画の完了と同時に次の五ヵ年計画としてU計画を打ち出し、海軍の拡張に乗り出したのである。

 だが、帝国の財政に問題がある。レガリア帝国は自国の準備資金のみでは計画の進捗に致命的な遅れがあると危惧したが、そこへロンバルディア教国が資金の一部貸付けを申し出たのであった。無論、隣国の軍拡に手を貸すわけだから教国内でも反対論は多かったが、融和の糸口になればとのクイーンの願いで決定した外交政策であった。

 実際、帝国のヘルムス総統は教国の好意に感謝の意を示して、U計画完遂後10年以内の利息付き全額返還を約した上、500頭の軍馬贈呈で報いた。さらに誠意を示して、国境の警備部隊を減らした。

 かくして、教国と帝国とは従来の緊張状態から一転、少なくとも表面的には最低限の修好を取り戻した。

 そうした経緯によって、帝国は領土通行権の交渉にも応じるであろうと確信していたのだった。

 このU計画の貸付金利息請求権の放棄は、枢密院財務局長ベルトランが難色を示したものの、最終的に枢密院で裁可され、これによって同盟領への道が開けることとなった。同盟領への通り道である帝国領を通過できるか、というのが戦線参加の大前提であったが、それが確立されたことになる。

 出征の準備は、ほぼ整っている。長期の出兵で最も大きな懸念材料はやはり補給であるが、その手配も済んだ。

 明日はいよいよ出立を迎えるという夜、クイーンはエミリアを寝室に呼んだ。

「エミリア、今日は内緒にお話ししたいことがあって呼んだの」

「お聞かせください」

「悩んでることがあるの。長くなるかもしれないけど、眠くない?」

「私はクイーンより先に寝たことはありません」

「私のこと、ねぼすけだと思ってるわね」

 まだ26歳の偉大な統治者は、エミリアと二人でいるときは、多分に子供っぽい仕草や言葉遣いになる。無意識に、甘えているのだ。彼女らのあいだでは、余人を交えぬとき、女王とその側近という枠組みを取り去った、骨肉の姉妹のような特別な情愛で結ばれた関係に立ち戻ることができる。

「クイーンがたくさん眠るので、私も充分な睡眠をとることができるのです。感謝を申し上げなければ」

「いっぱい寝てお礼を言われたのは初めてよ」

 ふふ、と二人は顔を見合わせて破顔した。

 クイーンはプリンセス時代はもちろん、女王即位後もどれだけ多忙な日々を過ごそうと、睡眠時間は削らなかった。この時代、睡眠の科学的効果を検証した論文などは無論ないが、「眠らないと判断力が低下する」という経験則を、「睡眠時間は必ず確保する」という習慣にまで昇華して実践したのは、彼女だけであったかもしれない。

 エミリアを呼んだ用件は、やはり後継者問題であった。

 これに関しては、やはりクイーンの心中に迷いがあるようであった。コンスタンサが次の女王としてふさわしいとは、いくら義姉妹しまいの情が深くあろうとも思わない。特にクイーンとコンスタンサは年齢もほとんど変わらないため、長期的に考えると、クイーンの次代を引き継ぐ者として正式に立てることは期待しづらい。

 今回は出発まで日がないために決められないのはやむを得ないとしても、帰還後は遠からず、正式に王女を迎えねばならないであろう。

 だが、エミリアにはクイーンが母になるということが想像できなかった。クイーンは政治家としても将軍としても天才的と評してよいほどの才能に恵まれていたが、養女を迎えて教育と薫陶を施す母の姿が見えてこない。

 正確には、クイーンが年を重ね、自分の老後や死後について思いを致すというのが非現実的で、さらに言えば受け入れがたいのである。クイーンは、いつまでも若く、みずみずしく、一点のくすみもよどみもなく、常に光輝にあふれ、無限に広がる未来を見据えているべきだ。

 しかし、自らに不慮の事態が起きた場合を想定して緊急時の体制を整えるのも、執政者の役目である。

「今回の遠征にあたって、私も色々考えてみたけど、どうしてもまとまらなくて。エミリアは、どんな人が王女にふさわしいと思う?」

「私は、人々を正しい方向に導き、国を率いることができる器を持った方がふさわしいのではないかと。ただ、これは百人に聞けば百通りの答えがあると思いますが」

「その人を、どうやって見つければいいと思う?」

「それは」

 それこそが、最も回答困難な問題だ。結局のところ、どこからどうやって王女を見つけてくるのか。その命題に対して、誰もが万民の納得しうる方法を提示できないからこそ、クイーンの即位以来、正式な後継者の座は空位のままだったのである。

 エミリアも長いこと、この問題について考えていたが、答えは出ていない。そのため、とりとめのないことを言った。

「クイーンがこの宮殿に無事にお戻りあれば、時間をかけてゆっくり考えることができるでしょう。いては事を仕損じます。まずは兵ともども、クイーンが無事にお帰りになること。それこそが肝要であり、目下の大事です」

「そうね、時間をとって、ゆっくり考えた方がいいわね。答えが出ないので、少しぐるぐるしちゃった。エミリアと話してすっきりしたから、もう大丈夫」

「明日は早いですよ。ゆっくりお休みください」

「うん」

 一人、静かな夜のとばりのなかに取り残されて、エミリアはふと窓際へ歩み寄った。雲の合間の向こう、ぼんやりと月が盗み見るようにのぞいている。

 (後継者か……) 

 しばらく就寝前の鈍い脳裏で思考をめぐらせていると、出し抜けに思い当たったことがある。

 (クイーンは、この国の後継者を選ぶ責任を負わねばならないのか)

 考えてみると、クイーンの後継者選びの重圧は他国の指導者の比ではない。オクシアナ合衆国のような民主主義国家であれば、次代の指導者は民意に問えばよい。オユトルゴイ王国のような世襲制の国家なら、子息のうちの年長者か、あるいは優秀な者を選んで世継ぎとすればよい。社会主義国家であるバブルイスク連邦や、国家社会主義思想を掲げるレガリア帝国では、指導者が自らの信頼できる側近を後継者として指名することになる。

 だが、クイーンはそれらとは事情が異なる。教国内に星の数ほどいるであろう娘のうちから、王女の資質を見極めふさわしい者を探してきて、ゆくゆく女王としての役割が務めるように育てていく必要もある。

 その娘が素質に恵まれ、聡明に育てば言うことはないが、長じて愚劣となれば、害を被るのは民衆であり、責めを負うのは人を見る目のないクイーンということになる。

 後継者選びには、妥協も失敗も許されない。であればこそ、2年以上の長きにわたって、クイーンほどの聡明な君主、ロマン神官長ほどの有能な大臣が、この問題に決着をつけられずにいたのであろう。

 しかし悩むことができるのは、生きている者の特権である。

 エミリアの使命は、クイーンを生きて故国に帰還させること。たとえ自らは遠い異国に白骨となって朽ち果てようとも、それだけは絶対に完遂させねばならない任務である。

 後継者の選定については、帰還後に大いに苦悩していただければよい。

 エミリアはおもむろに寝台に移り、心静かに目を閉じて、夜の気配のなかに眠り入った。

 翌日、地響きのするような数万人の群衆の歓声に囲まれつつ、クイーンは近衛兵団の主力とともにレユニオンパレスの南門をくぐった。雑多な種類の歓声はやがて、自然とひとつの言葉に集約され、一糸乱れぬ大合唱となってクイーンとその軍を送り出した。

「ヴィーヴァ!ヴィーヴァ!ヴィーヴァ!」

 それはこの国の古い言葉で、万歳を意味していた。沿道も、家の屋根の上にも、見渡す限りの民衆が、腕を天に突き上げ、そのたびに、万歳ヴィーヴァの声がいかづちの束のように鳴り響いた。

 遠征軍は道中で第二師団、第三師団、遊撃旅団を合流させつつ北上し、マジョルカバレーを抜け、ヴァーレヘム山脈をやくする国境のカスティーリャ要塞で休養し、12月22日にはレガリア帝国へと足を踏み入れた。

 彼らの多くが初めて見る帝国の山河を越え、越えた先に、彼らの戦場であるスンダルバンス同盟の険しい不毛の地が待ち受けているはずであった。

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