第7章-⑥ 招かれし老獅子

「女王陛下が大軍を伴って遠征の途に就かれる」

 との風聞は、またたく間に国都アルジャントゥイユに広まった。布告は枢密院の直接指揮下にある官吏の手で教国各地の町へ運ばれ、そこで掲示されて、全土に布達される。

 国都は宮殿の膝元にあり、人口も多いから、情報が広まるのも早い。

「レガリア帝国を越え、オクシアナ合衆国と手を組んで、同盟を荒らし回っている王国軍と、イシャーン王の軍を退治なさるそうだ」

「王国とイシャーン王というのは、そんなに悪い連中か」

「ブリストル公国を滅ぼして、今は同盟領の統一を目論んでいるらしい」

「オクシアナ合衆国も女王陛下も、放置しておけばいずれ自国にも火の粉が降りかかるかもしれない、だから今のうちに連中をやっつけておかねばならないと考えたんだ」

「なんでも王国のチャン・レアンとかいう将軍は、狼のように獰猛どうもうで、並外れて強いと聞くぞ。遠い異国でそんな奴らと戦って勝てるのか」

「お前はいかれぽんちだな。余人ならいざ知らず、軍を率いるのはエスメラルダ女王陛下だ。負けることがあるものか」

「だが、実戦の指揮は去年の内乱のときが初めてで、それが最後だろう。実績と呼ぶには、前例が少なすぎるじゃないか」

「前例が多かろうと少なかろうと、女王陛下は絶対に負けないッ!」

 掲示の前や道端、店や酒場など、市街のあらゆる場所で、喧々囂々けんけんごうごうの情報交換や憶測、そして議論が交わされた。女王の即位以来、平和と繁栄を謳歌おうかしてきたが、今、未曾有みぞうの大規模な紛争に参加しようとしている。当面は国外に軍が進出して戦うことになるだろうが、それでも民衆の誰もが一連の決定に無関心ではいられない。

 戦争に参加する、というだけでヒステリックな拒否反応を示す者もなかにはいたが、国都ではおおむね容認する世論が多数派であった。引いて守ってはいずれ滅ぼされる、だから望まずとも進んで戦うしかない、と考える事情通もいれば、単に女王陛下が決めたことであれば間違いはない、と判断の検証もなしに肯定する者も多かった。エスメラルダ女王は、即位してからというもの、理非曲直を明らかにし、法を厳正に行い、官吏の綱紀を改め、人材を抜擢し、軍を拡張し、一方で財政を整え、経済と文化を伸長させ、教育を推奨し、貴族の権益を廃し、山賊を懐柔あるいは掃討して教国民の暮らしを格段に向上させた。善政はあまねく行き届いて、この恩恵に浴せぬ者とてない。

 それだけに、エスメラルダ女王が決然として紛争への介入を決めたからには、それは支配者の持つ好戦的な欲求からではなく、国家を存立させていくための必要に迫られてであろうという信用がある。しかも危険を承知で自らが前線で指揮をとるというのは、その覚悟の表れでもあろうと。

 さて、かまびすしく騒ぐ市民の群れを、縫うようにして進む三つの影がある。

 一人は近衛兵団の千人長ニーナ、一人は同じく近衛兵団の百人長シルヴィ、そしていま一人は彼女らに護衛される初老の男性である。帽子からのぞくもみあげには白髪が多く混じり、目つきには壮年の獅子を思わせる威厳がある。

 このところは温暖な国都の天候が徐々に冷え込んで、秋の風が夏の残り香を完全に駆逐しつつある。男は国都の四季をこよなく愛していた。世界広しといえど、この街の季節の移り変わりほど、情趣を刺激するものはないであろう。

 しかし彼は、だからといって彼のよく知るかつてのある部下のように、詩人を気取るつもりはない。風景や季節の移ろいに心を奪われるほどには、彼の精神は詩的ではなく、むしろその天職は詩人ではなく軍人にあった。

 南門をくぐり、宮殿に入ると、そこにはささやかだが特別な人物の出迎えがある。

「クイーン、わざわざのお出迎え痛み入ります」

「ラマルク将軍、お久しぶりです」

 迎えられたのは前第一師団長のジェレミー・ラマルク将軍である。彼は国都の3区に住居を構えているが、今朝、近衛兵の突然の訪問を受け、クイーンからの重要な依頼があるとのことで、駆けつけたのであった。

 道々、その依頼とやらの内容を様々に憶測したが、確信はない。長年、師団長として活躍を続けてきた彼に用件があるとすれば、恐らくは現役復帰ではないかとも思ったが、今の実戦指揮官たちに不足があるとも思えない。彼の後任として、第三師団長から第一師団長に転任したデュラン将軍が、人格中庸にして堅実である以外は、皆それぞれに一癖も二癖もある。だがいずれも有能であることは疑いの余地がないであろう。

 とすれば、軍事顧問といったあたりが妥当なところか、と見当をつけていた。間もなく、クイーンが精鋭を率いて遠征の軍を起こされる。その編成や兵站に関して、彼の経験を役立てようというのではないか。

 が、違った。

 談話室で依頼された任務は、途方もない重責であった。軽い挨拶と互いの近況について触れたのち、クイーンは、

「ラマルク将軍、単刀直入にお話しします。王立陸軍最高幕僚長代理として軍の最高幹部に名を連ねるとともに、私が遠征中のあいだ、軍の総指揮をとっていただけませんか」

「なんと仰せですか?」

 唖然としたラマルク将軍のその言葉は、やや礼を失していたと言えるかもしれない。

 だがクイーンは気にせず、詳細を続けた。

「連日、動員準備や諜報活動を、軍や外務局、諜報局などが総動員で進めているのですが、軍の最高位であるネリ将軍が倒れられたのです。当初は留守中の軍務は彼を全権代理に立てることで考えていたのですが、恐らく過労が原因とのことで、重い心臓病を患い、当面は安静が必要です。レガリア帝国に対して最大級の警戒が必要な情勢において、長期にわたって軍務の全権を掌握し、実戦部隊を束ね、国境を隙なく固めて国の安全を守り通すためには、あなたほどの経験と実績、そして人望を兼ね備えた方でなければ務まりません」

「しかし私は老境の身にて、退任から二年以上を経過しています。実務から遠ざかっている上に、昨年の内乱鎮圧の際は独断で兵を動かした罪もあり、率直に申して適任とは思えませんが」

「すべて承知しています。承知してなお、あなたにしか任せられないと考えています。レガリア帝国が万が一、遠征軍の派遣で戦力が半減した我が国に宣戦し、国境を突破しようとしたときに、軍の総帥として国土の防衛をお任せする方を選ぶとすれば、あなたしか考えられないのです」

 予想外の打診とその背景にある思わぬ評価に、ラマルク将軍は二の句が継げず、黙り込んだ。ただ返答は決まっている。

 軍を完全に引退してから、国都の片隅で悠々自適の隠遁いんとん生活を送り、国の行く末を静かに見守っていた。軍は新女王の名声を慕って集まってきた義勇兵や志願兵を取り込み、規模を倍加させ、どの師団も厳しく訓練され見事な統制下に置かれている。内政に関する施策も理にかなっていて、教国全土が成長と発展を加速させている。統治者たるクイーンは無論、その抜擢を受けた将軍たちも官僚たちも、意欲的に責務に取り組んでいる証拠である。

 もはや出る幕はないものと現役には完全に見切りをつけていたが、彼が今受けている打診は、なんとクイーンの留守中に限った話とはいえ、軍の最高司令官として国を守ってほしいという依頼である。

 生粋の軍人として、名誉でないはずがなかった。

 しばらく感懐を味わう時間をつくってから、彼は回答した。

「お引き受けします。微力ではありますが、クイーンがお留守のあいだ、私がこの国をお守りいたします」

「ありがとうございます。将軍にしばらく、この国をゆだねます」

 クイーンは、簡潔に徹し、大仰おおぎょうな修飾の一切ない歴戦の将軍の言葉に、千鈞せんきんの重みを感じたようであった。混じりけのない、満腔まんこうの信頼を寄せているというのが肌で伝わってくる。

 彼は改めて忠誠を誓約し、直ちに現役復帰の手続きに入った。

 留守中、政務はフェレイラ議長に、軍務はラマルク将軍に一任することで、体制は整った。

 だがもう一点、クイーンが遠征するにあたって決定せねばならない重大事がある。

 女王位継承権者の擁立、すなわちクイーンが戦場にたおれた場合に、誰が女王となるのかをはっきりさせねばならない。

 これが、難題であった。

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