第7章-④ 王宮観光
時期は、ハリスの教国訪問のさらに直前に戻る。
オユトルゴイ王国からロンバルディア教国へと逃れた術者の末裔、ミコトとミスズの姉妹は、この時分、国都アルジャントゥイユの14区と呼ばれる地域に滞在していた。
彼女らが生を
もっとも、イェスンゲ前皇帝の命で十常侍とその縁族が殺戮されてからというもの、生き残ったヤノ家の一門は知る限り、彼女らを除いては一人もいない。
彼女らは国家間の外交交渉を通じてかねてよりヤノ家と親交のあった、教国の外務官僚ピエール・ボレロのもとを訪ねた。現在ではオユトルゴイ王国の実権を握っている体制派からすれば逆賊である彼女らだが、王国や旧公国領からの亡命者、難民を分け隔てなく受け入れているというロンバルディア教国の外務官僚ならば、彼女らを粗雑に扱いはすまいという読みから、この縁故を頼ることにしたのであった。
実際、ボレロはミコトら三人を歓迎し、その私邸に住まわせて生活に困らぬことを保証した。ボレロの家には彼と年寄りの使用人が二人だけで、決して裕福ではないが、ようやく屋根の下で眠れる住まいを得たことで、心底から安心を得た。これまで、王国の役人や軍隊の目を盗んで逃走し、貿易船のなかに押し込まれて亡命を果たし、教国に着いてからも慣れぬ土地での長旅を経験した末、やっとたどり着いた安眠の地なのである。
ボレロはこの頃、睡眠もままならぬほどに多忙であった。諜報局と外務局は、大地が裂けるほどに激動のなかにある大陸各地の情勢について、情報収集に忙しい。特に諜報局長マニシェと外務局長シャンピニョンはともに
だがボレロは親切な男で、ミコトらが数日体を休め、そろそろ暇を持て余すという頃合いに、彼女らを王宮たるレユニオンパレスへと誘った。
「宮殿へ、私たちがお邪魔してもよいのですか?」
「君たちのことを、上司のシャンピニョン外務局長に話したら、情報収集の一環としてぜひ会談の場を持ちたいということになってね。いや、警戒しなくてもいい。観光気分で、少し話を聞かせてもらえたらありがたいというだけのことだから」
「私としてもありがたいお話ですが、しかしよろしいのですか?我々が、王国の密偵なり刺客なりで、この国に悪意をもって潜入しているとは危惧されないのですか?」
「君たちが密偵?考えもしなかった」
ボレロは白い口髭がもくもくと生えた初老の紳士で、いかにも善人といった風貌である。演技ではなく、心からの言葉のように思われた。とすれば、現在の情勢からしてあまりに無防備にすぎるのではないか。オユトルゴイ王国は優秀な忍者の集団を多く抱えていて、彼らのなかには暗殺や破壊工作、流言といった任務を得意とする者もいる。実際、侍女のアオバも、そうした忍者の家庭に生まれ育っている。もし彼女らが秘密の任務を帯びてこの国に入ってきているとすれば、それを王宮に引き入れるのはこの上なく危険であろう。
結局、ボレロはミコトの恐るべき仮定を一笑し、翌日にはミコト一行はレユニオンパレスの客人となった。
妹のミスズ、侍女のアオバとともに王宮に足を踏み入れて、ミコトは宮殿の美しさに驚いた。屋内は歴史を感じさせる重厚な構造ながら手入れが行き届き、格調高い宮廷の気配のなかにも人のぬくもりが確かにある。建物を一歩でも外に出れば、そこは開放的な空間が広がり、庭園には水の流れや花の群れがふんだんに配置されていて、広場や馬場の芝はよく整っている。
この広大な宮殿を、3,600名の近衛兵が守り、1,100名の官吏、600名の女官、12名の宮廷医、38名の宮廷看護婦、420名の庭師や技師、85名の料理人といった使用人たちが常駐している。レユニオンパレスだけで、ひとつの町とも言える規模を誇っている。宮殿内をくまなく散策したら、到底、一日では足りないであろう。
無論、容易に入ることは許されない宮殿内に、長居できるはずもない。日が暮れるまでには退散しなければならないのは当然である。
ミコトとミスズ、アオバの三人は、談話室のひとつに通された。ミコトは気が強く警戒心の強い性格柄、表情の変化も鈍いが、ミスズやアオバは感情の動きが豊かなこともあって、最前から口を開いたまま一向に閉じようとしない。異国の宮殿の珍しさ、
テーブルに泥水のような飲み物が置かれているが、正体が分からないため、三人とも恐れて手をつけなかった。オクシアナ合衆国から伝わった、コーヒーという飲料らしい。
しばらく待って、ボレロとともに、外務局長のシャンピニョンが現れた。彼は男性だが容貌や振舞いには女性的と称してよいほどの優雅さを含んでいる。柔和な雰囲気も、外交官としての才能のひとつであろう。ミコトらは知らなかったが、彼については男色家であるとの噂もある。
軽い挨拶のあとで、王国での体験や、持っている知識について様々な質問を受けた。ミコトはつい彼の真摯な傾聴に惹かれて、ありのままを話した。ただし、ヤノ家が術者の家系であるという点を除いて、というのは言わずもがなのことであるが。
話が父母や伯父の死に及ぶと、妹のミスズは
しかし今は衣食住の不安もなく、こうして王宮にまで来ることができた。
王国内の情勢に関しては、
最後に、丁重な礼を受けた。
ボレロとともに廊下に出ると、ちょうど
とすれば、著名な政府高官のひとりである。見識豊かで実務に優れ、宗教家に見られるような精神や理論の偏りもない。とりわけ財務や法務に強く、クイーン・エスメラルダが女王になってから改めた経済や財政に関する法は、ほとんどが彼女の草案によると聞いている。クイーンの信頼も絶大であるという。
(それほど、影響力のある人物には見えなかったが)
警護も近衛兵が一人だけで、ごく静かで控えめな印象だっただけに、意外な思いがある。
ミコトは教国に逃れてからというもの、人物をよく見るようにしている。誰が信用できるのか、頼りとすべきは誰なのか、それを見極めようとするのは、亡命者として暮らすうちに自然と芽生える本能と言えるかもしれない。
しばらく歩き、宮殿の大回廊ではゆくりなくも、この国の支配者を拝する機会を得た。
「クイーンだ」
ボレロは慌てて道を開け、目を伏せ、上体を折り曲げて敬礼した。ミコト、ミスズ、アオバも
(あれが女王……ずいぶん、不用心な)
先頭の、エメラルドグリーンのドレスをまとっているのが、女王であろう。その姿、容色は音に聞こえた通りで、明るく快活な雰囲気と、女王らしからぬほどの人懐っこい笑顔に、異郷でしかも同性のミコトも、魅力を感じないわけにはいかなかった。
それにしても、不用心といえば確かに不用心である。引き連れているのはわずかに六人の側近と護衛のみで、うち帯剣しているのは三人でしかない。いくら安全な宮廷とはいえ、警護が手薄に過ぎるように思われる。
指呼の距離にまで接近して、クイーンはボレロとその珍しい装いの連れに興味を持ったらしく、慈愛の深い微笑を浮かべつつ、迷いもなく足を運んだ。
「ボレロさん、ごきげんよう」
「これはクイーン。ご機嫌麗しゅう」
ボレロは外務局の職員のなかでも役職、才能、閲歴、いずれも上位に入るとは言えない。だがクイーンはその名前を引き出すのに造作もない様子であった。彼女は一度会った者の顔と名前を決して忘れないと言われている。さすがにそれは誇張が含まれてはいるものの、人との関係を大切にするクイーンの人間性をよく描いた風説と言えなくもない。
「そちらのお客様は?」
「オユトルゴイ王国からの亡命者です。十常侍ヤノ家の家門で、今は拙宅にて保護しております」
「そうでしたか」
クイーンは、まるで犬や猫のように寄り添い縮こまっている三人へ向き直り、声をかけた。
「はじめまして、女王のエスメラルダです。暮らしはいかがですか?困っていることなど、ありませんか?」
妹のミスズは人見知りが激しく前に出たがらない性格で、侍女のアオバも立場を
困っていることは、ない。故国とは生活習慣、食習慣、商習慣、宗教観やら国民性やら、何から何まで違うが、不思議なことに困り果てていることはない。ボレロが世話を焼いてくれるのは無論だが、それ以上にこの国が異国人にとってさえ暮らしやすいということなのであろう。
ミコトはそう答えようとして、少し戸惑った。その戸惑いを察したように、クイーンの従者が告げた。
「クイーンは
それならば、とミコトは顎を上げ、長身のクイーンと正面から視線を交差させた。ミコトは度胸にはいささか自信がある。
「はい、ボレロ殿のご厚意をもちまして、暮らしはことのほか恵まれております」
「それは安堵いたしました。アルジャントゥイユの街はいかがです?」
「陛下の徳があふれ、誰しもが活き活きと働き、暮らしているようにお見受けしました。特に風紀や治安が整い、多様な文化が花開いている様子には、感服しております」
「すべては力を尽くしてくださる官吏、そして市民たちのおかげです。昨今のお国における不安定な政情については、私も深く憂慮していたところでした。領内への難民も近頃は増加の一途をたどっています。我が国としても、外交交渉を通じて事態の好転を促すことを約束します」
「望外の至りでございます」
「クイーン、そろそろ参りましょう。予定に遅れます」
側近の一人に促されて、会話はやむなく中断された。ミコトはこの美しい女王との対話を続けたかったし、クイーンも心からそれに同意するように、名残惜しい響きを声に含ませて、最後に尋ねた。
「ぜひまたいらしてください。もっと、皆さんとお話ししたく思いました。お名前を、聞かせていただけますか」
ミコトは臆せず自ら名乗り、引っ込み思案な妹の名も代わって紹介した。ミスズは姉の影に隠れるようにして、それでもわずかに微笑みを返して、会釈をした。侍女のアオバは恐れ入って、これもミコトが名を伝えた。
クイーンは三人の名を確かに覚えた様子で、うっとりとするような甘い笑顔を彼女らの記憶に残し、立ち去った。
あとに、バラのような優雅で華やかな香りがとどまっている。ミコトも、そしてミスズもアオバも、その残り香の流れる空間から離れがたく思った。
クイーンの背中を追うと、あとからその側近が付き従ってゆく。その面々は実に多彩で、ボレロの教えるところでは、一人は宮廷顧問官でクイーンの無二の親友であるエミリア、一人は近衛兵団副団長で「馬術の女神」と称えられるジュリエット、一人は近衛兵団で最も将来を嘱望される若手の俊秀ダフネ近衛兵、一人は30代前半にして枢密院難民局長を務めるカスティリオーネ、一人は女官のメリッサ、そしてメリッサの介助を受けながら、白杖で歩行を確かめながら歩く盲人がいる。
ミコトは特に、この盲人が気にかかった。すれ違い際、口元に爽やかな笑顔をたたえていたあの盲人は誰か。
「あれはクイーンの主治医であられるサミュエル・ドゥシャン先生だ。昨年、クイーンが即位してまもなく天然痘に
遠祖を同じくする術者の家系であるから、というわけではない。だが、そのように俯瞰してこの二人の
しかし、ともかくも今、彼らは女王の主治医と異国からの亡命者という立場でしかなく、接点を持つためには、もうしばらくの時間が必要である。その時間を経過させるために、この大陸の歴史を追ってゆかねばならない。
「ぜひまた」と言い残したクイーンの言葉は、思いもよらぬ長期間の中断を余儀なくされた。オクシアナ合衆国からの要請により、クイーン自らが軍を率いて遠征の途に就くこととなり、その準備によって、亡命者の姉妹の相手をしているゆとりが失われてしまったからである。
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